第16話 ダリア・コワレンコの場合
翌朝。
ジョンはエレベーターを降りた。
ロビーに、ダリアがいた。
フロントの横の椅子に座っていた。コートを着ていた。バッグを膝に抱えていた。
ジョンを見た。立ち上がった。
「おはよう」
英語だった。
ジョンは止まった。
「……なぜここにいる」
「待ってた」
「なぜ」
「会いに来たから」
「なぜ」
「会いたかったから」
「……」
「シンプルでしょ」
シンプルすぎた。
「何の用だ」
「用がなければ来てはいけないの?」
「……用がなければ来ない」
「私は来た」
「……」
「つまり用がある」
「何だ」
「一緒に朝ごはんを食べたい」
ジョンは少し間を置いた。
「断る」
「なんで」
「用事がある」
「何の用事」
「……個人的な用事だ」
「昨日と同じ答え。その用事、具体的には何」
「……」
「言えないなら嘘でしょ」
「嘘じゃない」
「じゃあ言える」
「……言わない」
「言わないと言えないは違う。つまり用事はない」
ジョンは、ダリアを見た。
論理が速い。
「……一人で食べろ」
「一人は嫌。昨日助けてくれたんだから、朝ごはんくらい付き合って」
「関係ない」
「関係ある。命の恩人でしょ」
「大げさだ」
「大げさじゃない。あのまま放置されたら何されてたか分からない」
その時、エレベーターが開いた。
マルティネスが出てきた。
ロビーを見た。
ダリアを見た。
ジョンを見た。
「……え」
次のエレベーターからヨナタンとサラが出てきた。
サラがダリアを見た。
一秒で状況を把握した顔になった。
ヴィクトルが階段から降りてきた。
ダリアを見た。
固まった。
マルティネスがジョンに近づいた。小声で言った。
「昨夜、何があった」
「助けた」
「それだけか」
「それだけだ」
「……なんで来てるんだ」
「俺に聞くな」
ダリアが五人を見回した。
「あなたの仲間?」
「……そうだ」
「紹介して」
「しない」
「なんで」
「必要ない」
「私が必要だと思う」
サラが前に出た。
「私はサラ。サラ・コールマン」
「ダリア・コワレンコ。よろしく、サラ」
「よろしく。昨夜助けてもらったの?」
「そう。この人に」
「そうなの。よかったわね」
サラはジョンを見た。にっこりした。
ジョンは視線を外した。
マルティネスが小声でヴィクトルに言った。
「サラのあの顔、やばいぞ」
「知っている」
ヴィクトルが答えた。
「どうする」
「……分からない。俺の管轄外だ」
「元スペツナズが管轄外って何だよ」
「これは戦闘じゃない」
結局、全員で朝食を食べることになった。
ホテルの食堂。七人分のテーブル。
ダリアはジョンの隣に座った。
当然のように。
「ウクライナに何しに来たの、皆さん」
ダリアが聞いた。
マルティネスが答えた。
「……観光だ」
「戦時中に観光?」
「……ちょっとした観光だ」
「信じてないけど、まあいいわ」
ダリアはジョンを見た。
「昨夜、止まれないって言ってたわね」
「……言った」
「どういう意味か、少し分かった気がする」
「……何が」
「あなた、体が動く前に心が動くでしょ」
ジョンは少し間を置いた。
「……なぜそれを知っている」
ダリアは少し笑った。
「勘よ」
サラが口を挟んだ。
「ダリア、一つ聞いていい?」
「何?」
「ドキュメンタリー、見たでしょ」
テーブルが静かになった。
ダリアは、サラを見た。
サラは微笑んでいた。
「……見た」
ダリアは答えた。
「何回?」
「……数えてない」
「百回以上?」
「……それくらいは、たぶん」
マルティネスがヨナタンを見た。ヨナタンは無表情でパンを食べていた。
サラはジョンを見た。
ジョンは、ダリアを見た。
「……知っていたのか」
ダリアはジョンを見た。まっすぐ。
「最初から」
「……最初から」
「路地で助けてもらった瞬間に分かった。眼帯、白いマフラー、動き方」
「……」
「あのドキュメンタリーを百回以上見たら、分かるわよ」
ジョンは少し間を置いた。
「……それで、なぜ昨夜言わなかった」
「怖かったから」
「何が」
「逃げられると思って」
「……」
「知ってると言ったら、あなた逃げたでしょ」
「……逃げた」
「だから言わなかった。朝になってから言おうと思った」
ヴィクトルが口を開いた。
「つまり、計算して行動した」
ダリアを見た。
「そうよ」
「昨夜から計画していたのか」
「計画というか……そう、計画よ」
ヴィクトルはジョンを見た。
「……手強い」
ジョンは何も言わなかった。
マルティネスが言った。
「なあ、ダリア。聞いていいか」
「何?」
「なんでそんなに何度も見たんだ、あのドキュメンタリー」
ダリアの表情が、少し変わった。
「……戦争で、家族を失ったから」
テーブルが静かになった。
「父と兄が死んだ。二年前。母はその後すぐに病気で。私だけ残った」
「……」
「生きる理由が分からなくなった時に、あのドキュメンタリーを見た」
「……」
「18発撃たれても守った男がいる。全部を失っても立ち上がった男がいる」
「……」
「それを見て、少しだけ前を向けた。何度も見た。落ちそうになるたびに見た」
テーブルに、沈黙が流れた。
サラが、ダリアの手に自分の手を重ねた。
何も言わなかった。それだけだった。
ダリアはジョンを見た。
「だから、昨夜あなたを見た時——」
「……」
「もう止まれなかった」
ジョンは、ダリアを見た。
何かを言おうとした。
言えなかった。
マルティネスが言った。
「俺、泣きそう」
「泣くな」
ヨナタンが言った。
「泣いてないけど泣きそうって言った」
「泣くな」
ヴィクトルは腕を組んだ。
「……どうするんだ、これから」
ジョンを見た。
ジョンは、窓の外を見た。
キーウの朝の光が、差し込んでいた。
「……朝になったら分かる、と言いたいところだが」
ダリアが言った。
「もう朝よ」
ジョンは、ダリアを見た。
何も言わなかった。
サラが、ニヤリとした。
マルティネスが小声でヴィクトルに言った。
「サラのあの顔」
「……知っている」
「止めなくていいのか」
「……止められない」
「元スペツナズが」
「これは俺の手に負えない」
テーブルに、朝の光が広がっていた。




