第65話 誤算
アティットの動画が上がってから、六時間後だった。
コメント欄が動き始めた。
最初に動いたのはタイのSNSだった。
「あの映像を英雄物語に使うな」
「俺はドキュメンタリーを見た。あの人が這いながら進んでいたのはスヨンのためだ。組織のためじゃない」
「アティット議員、あなたはあの映像を何だと思って見ていたんですか」
「ドキュメンタリーを見た人間なら全員知っている。あの場面で何が起きていたか」
タイ語のコメントが止まらなかった。
六時間後には英語圏が動いた。
「He was crawling toward his dead fiancée. That's what you call 'being used by the organization'?」
「I watched the documentary 12 times. I know exactly what happened. Don't you dare twist it.」
「The politician who used a man's grief as a political tool. That's the real story here.」
YouTubeの「The Man Who Would Not Die」チャンネルのコメント欄が、アティットへの批判で埋まり始めた。
食堂でジェームズがスマートフォンを見ていた。
マイケルが隣にいた。サラ・ミラーが手帳を持ったまま固まっていた。
「ジェームズ」とマイケルが言った。
「分かってる」
「俺たちが撮った映像だ。俺たちが流した映像だ」
「分かってる」
「あれが政治に使われた」
「分かってる」とジェームズは言った。「だから動く」
「何をする」
「撮ったものを全部出す。編集なしで。あの日の映像を、最初から最後まで全部出す。アティットが切り取った部分だけじゃなく、その前後を全部出す」
「著作権の問題は」
「俺たちが撮った映像だ。問題ない」
「どのくらいの尺になる」
「四時間ある」
「四時間全部出すのか」
「出す」とジェームズは言った。「一秒も切らない。あの日、何が起きていたか。最初から最後まで出す。アティットが使った場面の前後に何があったか、全部見せる」
サラ・ミラーが手帳を開いた。「タイトルは」
ジェームズは少し考えた。「『その日、何があったか』」
「シンプルね」
「シンプルでいい。事実だけ出す」
ダリアは部屋でスマートフォンを見ていた。
アティットの動画を見ていた。「十二発の銃弾を受けながら。左目を撃ち抜かれながら。地面を這いながら、進み続けた。それを、私は英雄だと言いたい」という部分で、止めた。
もう一度再生した。また止めた。
立ち上がった。
食堂に行った。ジェームズたちがいた。ジョンもいた。ミュラーもいた。
全員がダリアを見た。
「あの動画を見たわ」とダリアは言った。
声が低かった。
「ジョンがスヨンの手に触れるために這っていたことを、私は知っている。ドキュメンタリーで何百回も見た。スヨンが撃ち殺されて、ジョンが叫んで、それでも止まれなくて、血の中を這って進んでいった。あれを見た人間なら全員知っている」
「それを英雄物語として政治に使った」
「……ダリア」とサラが言った。
「私が話す」とダリアは言った。「チャンネルで話す。私が直接話す」
「何を話す」とジェームズが聞いた。
「私が見たことを話す。ドキュメンタリーを何百回見たか。あの場面で何が起きていたか。ジョンが何のために這っていたか。私が知っていることを、全部話す」
「……それは」とジェームズが少し間を置いた。「撮っていいか」
「撮ってくれ。だから来た」
ジェームズはマイケルを見た。マイケルが頷いた。
「ジョン」とサラが言った。
ジョンはダリアを見ていた。何も言わなかった。
「……好きにしろ」とジョンは言った。声が少しだけ、いつもと違った。
ダリアの動画は、その日の夜に上がった。
カメラの前に座っていた。化粧をしていなかった。紺のワンピースだった。王宮に行った時と同じ服だった。
「私はダリア・コワレンコといいます。ウクライナ人です。現在タイ国籍を申請中で、親衛隊の基地に住んでいます」
「アティット・チャンタラ議員の動画を見ました。ジョン・ドゥ——瀧本勝幸を英雄と呼び、その英雄を使った組織の責任を問う内容でした」
ダリアは少し間を置いた。
「私はドキュメンタリーを三百回以上見ています。あの場面も、三百回以上見ました」
「スヨンが撃ち殺された後、ジョンは止まりませんでした。十二発撃たれても止まりませんでした。左目を撃ち抜かれても止まりませんでした。血の中を這って進みました」
「なぜか分かりますか」
ダリアはカメラを見た。
「スヨンの手に触れるためです。それだけです。組織のためでも、王室のためでも、使命のためでもない。ただ、スヨンの手に触れたかった。それだけで、あの人は十二発撃たれながら進んだ」
「あれを英雄物語として使うのであれば——あなたはあの映像を、一度も本当に見ていない」
「私はウクライナ人です。戦争を知っています。家族を失うことを知っています。目の前で誰かを失う恐怖を知っています。だから分かる。あの場面で何が起きていたか」
「ジョンは英雄じゃありません。愛した人を守れなかった男が、それでも止まれなかった。それだけです」
「それを政治に使わないでください」
動画が終わった。
再生数は三時間で二億を超えた。六時間で六億を超えた。チャンネル開設以来、最速だった。
Netflixのドキュメンタリーを何億人もが見ていた。あの映像を見た人間が、全員この動画を見た。そしてアティットの動画を見直した。
SNSが崩壊した。
タイ語、英語、ウクライナ語、ロシア語、スペイン語、フランス語、ドイツ語、アラビア語、韓国語、日本語——世界中の言語が一斉に動いた。
「あの映像を何度見たか分からない。あれを政治に使うのか」
「I watched the documentary with my daughter. She cried. We both cried. Don't you dare touch that moment.」
「Ich habe das Dokumentarfilm dreimal gesehen. Was dieser Politiker getan hat, ist unentschuldbar.」——ドイツ語だった。「このドキュメンタリーを三回見た。この政治家のやったことは許しがたい」
グアダラハラのSNSが動いた。「あの人たちが来てくれた街を覚えている。あの映像を見た。あれを英雄物語として使うな」
メキシコ全土から怒りの声が上がった。即日出国命令を出した側のメキシコからでも、だった。
ウクライナからも来た。ゼレンスキーのSNSのコメント欄が動いた。「ダリアが正しい」という声が殺到した。ゼレンスキーの広報チームが対応に追われた。
韓国では「キム・スヨンを覚えている」というタグが立った。スヨンが韓国人だったからだ。韓国語圏のSNS全体が動いた。
日本では神奈川県警の公式アカウントへのコメントが止まらなくなった。「瀧本勝幸の退職経緯を説明しろ」ではなく、「あの人を誇りに思う」という声で埋まった。
政府が動き始めた。
最初に声明を出したのはウクライナだった。外務省の公式声明だった。「ダリア・コワレンコ氏の発言は、ウクライナ国民として誇りに思う発言である。いかなる政治的利用も容認しない」
韓国外務省が続いた。「キム・スヨン氏の記憶を政治的目的に利用することに、強い遺憾の意を示す」
フランス外務省が声明を出した。「マリー・デュポン氏に関する言及について、フランスは状況を注視している」——マリーがフランス人だったからだ。
イスラエルは短かった。「ヨナタン・レヴィ氏の名誉を傷つけるいかなる試みも容認しない」
アメリカ国務省の報道官が定例会見で聞かれた。「サラ・コールマン氏は米国市民であり、彼女の活動については適切に認識している。コメントは控えるが、状況は注視している」
メキシコ政府は何も言わなかった。言えなかった。グアダラハラ市長が個人アカウントで発信した。「あの映像を見た人間として、アティット議員の発言に怒りを感じる」
タイ国内でも動きがあった。
バンコクの市民がアティットの議員事務所前に集まり始めた。百人だった。三百人になった。五百人になった。
市場のおじさんたちがいた。支援センターのスタッフがいた。ソンクランで水をかけた子供たちの親がいた。
プラカードがあった。タイ語で書いてあった。「タキモトを政治に使うな」「白バイを返せ」「ドキュメンタリーを見ろ」
タイのチャンネル3が中継した。チャンネル7も来た。チャンネル5も来た。全局が来た。
ジェームズのカメラも来た。
海外メディアが一斉に動いた。
BBCが速報を出した。「Thai politician's use of documentary footage triggers global outrage」
CNNが特集を組んだ。「The moment that moved a billion people — and one politician who didn't understand it」
ロイターが打った。「South Korea, Ukraine, France issue statements over Thai politician's comments」
アルジャジーラが報じた。「International community reacts to Thai lawmaker's footage manipulation」
フランスのル・モンドが社説を出した。「映像を切り取ることの暴力性——アティット・チャンタラ議員の事例から」
ドイツのシュピーゲルが見出しを立てた。「Ein Milliarde Zeugen」——十億人の証人。
ニューヨーク・タイムズが記事を出した。「A politician tried to use a viral moment. The world had already seen the original.」
日本の各紙も動いた。「タイ議員の発言に国際批判」「ドキュメンタリー視聴者が一斉反発」「神奈川県警の白バイ隊員として知られた瀧本勝幸——その真実」
アティットの事務所に、外務省から電話があった。
「複数国から外交ルートで照会が来ています。対応をどうされますか」
アティットは少し間を置いた。「……照会の内容は」
「韓国から、スヨン氏に関する発言の真意について。ウクライナから、ダリア氏への政治的圧力がないかの確認。フランスから、マリー・デュポン氏への言及について」
「……」
「アメリカからは非公式に、サラ・コールマン氏の扱いについて懸念が伝えられています」
アティットは窓の外を見た。
議員事務所の前に人が集まっているのが見えた。増えていた。
「……回答は控える」とアティットは言った。「しばらく」
「いつまでですか」
アティットは答えなかった。
その夜、局長に電話があった。
「ウィチャイ」と声がした。古い知り合いだった。「アティットの後ろにいた人間たちが、距離を置き始めている」
「そうか」
「複数国から外交照会が来ている。タイ外務省がアティットに圧力をかけ始めた。あの男を守れる人間が、いなくなってきた」
「三重に詰まった」と局長は言った。
「そうだ。世論、証拠、仲間の撤退。三つ全部だ」
「次に動くか」
「動く余地がなくなりつつある。ただ——」
「ただ」
「追い詰められた人間がどう動くか、だ。計算が全部崩れた時、人間の本性が出る」
局長は電話を切った。
ミュラーに送った。「準備しろ。崩れる」
ミュラーからの返信は速かった。「分かっている。追い詰められた人間が出す本性——それが次の問題だ」




