第66話 豹変
アティットが沈黙を破ったのは、三日後だった。
記者会見を開いた。事務所の会議室だった。報道各社が来た。タイの各局、外国メディアも数社いた。
アティットはスーツを着ていた。いつも通り整っていた。だが顔が、少し違った。笑顔の質が変わっていた。目が笑っていなかった。
「この三日間、多くの反響をいただきました」とアティットは言った。「国内外から様々な意見が届いています。それを真摯に受け止めた上で、改めて立場を明確にしたいと思います」
記者が手を挙げた。「ダリア・コワレンコ氏の動画についてはどうお考えですか」
「彼女の発言は理解できます。しかし——」とアティットは言った。「感情的な反応と、政治的な議論は分けて考えるべきです。私が問題にしているのは個人への攻撃ではなく、組織の構造です」
別の記者が聞いた。「局長への批判について、具体的な根拠を示せますか」
「根拠はあります」とアティットは言った。「マリー・デュポン氏の処刑です。これは裁判なしに行われた。それは事実です」
「処刑を命じた根拠は何だったとお考えですか」
「組織の秘密を守るためです。都合の悪い人間を、法的手続きを踏まずに消した。それが局長のやり方です」
「都合の悪い」という言葉が出た。これまでと違った。「疑問」ではなく「断言」だった。
ミュラーはその中継を見ていた。ナターシャが隣にいた。
「出た」とミュラーは言った。
「何がですか」
「断言だ。これまでは疑問を出すだけだった。今日は断言した。断言には証拠が必要になる」
会見の翌日、サラがミュラーの部屋に来た。
「準備できたわ」
「全部か」
「三本ある。一本目——アティットの政治資金団体と陳偉強の残党の繋がり。二本目——アティットの事務所が川島に接触した際の会話記録。弁護士事務所の内部から出た。川島は接触を拒否していた」
ミュラーは少し止まった。「川島は拒否していたのか」
「そうよ。アティットは『川島が証言した』と言った。でも川島は話していない。証言として使った言葉は、アティットの弁護士が作ったものだった」
「三本目は」
「アティットの背後にいる軍の人間。資金の流れと通信記録。これが一番重い。アティットが主役のつもりで使われていた証拠が出た」
ミュラーは三つの書類を並べた。「局長に持っていく。タイミングを決める」
「今じゃないの?」
「アティットが会見で断言した。今は詰め時ではない。もう少し泳がせる。断言を重ねさせる。重ねれば重ねるほど、証拠を出した時の落差が大きくなる」
「……冷静ね」
「これがかつての自分のやり方だった」とミュラーは言った。静かな声だった。「だから分かる。止め時も」
アティットの二回目の会見は、最初の三日後だった。
今度は長かった。四十分あった。
「局長ウィチャイ・スリヤウォンは、王室の信頼を利用して独断的な組織運営を行っています。マリー・デュポン氏の処刑は、局長が国王陛下を誤誘導した結果です。陛下は全ての事実を知らされていなかった可能性があります」
記者室が少し動いた。
「国王陛下が誤誘導されたとおっしゃるのですか」と記者が聞いた。
「局長が正確な情報を陛下に伝えていなかった可能性を指摘しています」
これは踏み込みすぎだった。タイという国において。
その夜、アティットの連立パートナーだった議員が三人、個別に声明を出した。「アティット議員との政策協力を一時停止する」「現時点でアティット議員の発言を支持しない」「王室に関わる発言は慎重であるべきだ」
背後の勢力が、一人、また一人と離れていった。
ミュラーが局長に電話した。
「今です」
「出すか」
「出します。三本全部。川島の件から先に出す。アティットが作った証言だということが分かれば、他の全てが崩れる」
「タイミングは」
「明日の朝、ハーパーを通じて報道各社に送ります。同時に親衛隊の公式チャンネルから声明を出します」
「声明の内容は」
「事実だけです。断言はしない。証拠を提示して、判断は国民に委ねる。アティットがやろうとしたことの逆をやります」
局長は少し間を置いた。「ミュラー、よくやっている」
「局長こそ」
「俺は待っていただけだ」
「それが一番難しい」
翌朝、親衛隊の公式声明と三つの証拠資料が、同時に各社に送られた。
川島明氏への接触記録——アティットの弁護士事務所が川島に接触した際の詳細な記録。川島は接触を拒否していた。「証言」として使われた言葉は、川島本人の言葉ではなかった。
政治資金の流れ——アティットの「タイ未来基金」と陳偉強の旧ビジネスパートナーとの資金の繋がり。
通信記録——アティットの背後にいた軍関係者との連絡履歴。「親衛隊を解体させたい」という内容が含まれていた。
三つ全部が、一時間以内に各社のトップニュースになった。
アティットは事務所でそれを見ていた。
秘書が入ってきた。「議員、取材が——」
「分かっている」
「弁護士からも連絡が——」
「分かっている」
「支持者から——」
「分かっている」とアティットは言った。声が変わっていた。穏やかではなかった。「全部後にしろ」
秘書は出ていった。
アティットは一人になった。
三本の証拠資料を見た。川島の件は想定外だった。弁護士事務所から漏れるとは思っていなかった。資金の件は、繋がりを完全に隠したつもりだった。通信記録は——そこまで掘られているとは思わなかった。
計算が全部崩れていた。
積み上げてきた十年が、三枚の書類で崩れた。
アティットはスマートフォンを取った。SNSを開いた。
そして——投稿した。
「王室騎士親衛隊は、タイの民主主義への脅威です。外国人を使って王室を私物化する組織を、タイ国民は認めてはなりません。私はこの戦いを続けます」
証拠も疑問もなかった。ただの断言だった。笑顔もなかった。
秘書が飛び込んできた。「議員、今の投稿は——」
「消すな」
「でも——」
「消すな」
秘書は出ていった。
アティットはスマートフォンを置いた。
穏やかな政治家の仮面が、はっきりと割れていた。
局長の電話が鳴った。また古い知り合いだった。
「アティットが投稿した。見たか」
「見た」
「終わりだな」
「政治家として、今の段階では」と局長は言った。「だが終わりではない」
「どういう意味だ」
「ああいう人間は、終わったと思った時が一番危ない。後ろに誰がいるかは分かっている。その人間たちは、アティットを切って次を探す。次が何をしてくるかが問題だ」
「……そうか」
「外交問題は後で何とかなった」と局長は言った。「だが次の問題はもう始まっている」
その夜、ジョンは白バイの整備をしていた。
ダリアが来た。「動画の件、ありがとう」
「俺は何もしていない」
「でも、あなたの話をしたわ」
「……お前の言葉だ」
ダリアは少し間を置いた。「アティット、終わったの?」
「政治家として、今は」
「良かった」
「良くない」
「え?」
「次が来る」とジョンは言った。「終わりじゃない。形が変わるだけだ」
ダリアはジョンを見た。ジョンは白バイを磨き続けていた。
「だから走り続けるの」
「そうだ」
「……ずっと走るの」
「止まる理由がない」
ダリアは少し笑った。「……私も一緒に乗るわよ。後ろに」
「危ないぞ」
「知ってる」
バンコクの夜が、二人の後ろにあった。




