第64話 称えることで殺す
川島明という名前が出たのは、マルティネスからの報告だった。
「アティットの弁護士が、拘置中の川島に接触した。面会記録に残っている」
ミュラーはその報告を受けて、少し間を置いた。「川島明というのは」
「柏木の副官だ」とサラが言った。「柏木の変化を一番近くで見ていた人間よ。柏木に従って拘束された。今も裁判を待っている」
「アティットはその人間から何を引き出すつもりだ」
「組織の内部を知っている人間の証言だ。外から疑問を出すだけでなく、内部の証人を立てる。そうすれば疑問が主張になる」
ミュラーは書類を置いた。「次の動画が来る前に、何かしておくべきか」
「何もしない方がいいわ」とサラが言った。「川島は今も裁判を待っている。アティットが川島を使えば、川島の立場が明確になる。裁判で不利になる可能性がある。川島自身もそれは分かっているはずよ」
「川島がどこまで話すか、だな」
「そうよ。アティットの弁護士が何を提示したかによる」
四日後、アティットが動画を上げた。
今回は長かった。三十分近くあった。
「今日は、ある人物の話をしたいと思います」
画面が切り替わった。結婚式の映像だった。
流出した映像だった。式場が混乱する場面だった。銃声があった。人が走っていた。
「この映像を覚えている方も多いと思います。国王陛下が臨席された結婚式が、テロリストに襲われた日です」
「その日、一人の男が戦いました。銃声が鳴り響く中、武器もなく、素手で敵に向かった男がいました。その男の名前は瀧本勝幸——現在のジョン・ドゥです」
映像が切り替わった。王宮戦の映像だった。
「この日も、彼は戦いました。傷を負いながら、倒れながら、それでも止まらなかった」
「知っている方もいるかもしれません。結婚式の日、彼の婚約者が目の前で撃ち殺されました。それでも彼は止まらなかった。十二発の銃弾を受けながら。左目を撃ち抜かれながら。地面を這いながら、進み続けた」
「それを、私は英雄だと言いたい」
アティットの声が、少し低くなった。
「だからこそ——そういう人間を、組織の道具として使い続けた責任者を問いたい」
画面が切り替わった。局長の写真が出た。
「ウィチャイ・スリヤウォン対策局長。この人物が、突撃隊と親衛隊の実質的な責任者です」
「瀧本が命をかけた結婚式の後、組織の中で何が起きたか。知っている方は少ないかもしれません」
「マリー・デュポンという女性がいました。元突撃隊員です。柏木勇気の反乱に関与し、瀧本を狙撃しました。ラオスに逃亡した後、連れ戻されました」
「そして——処刑されました」
「裁判なしに」
「誰の命令で処刑されたか。記録には、局長の判断とあります」
アティットは静かに続けた。
「タイ王国には法律があります。どんな罪を犯した人間にも、裁判を受ける権利があります。それを飛び越えて、処刑を命じた人間がいる。その人間が今も対策局長として、王室直属の親衛隊に影響力を持っている」
「瀧本は英雄かもしれない。でも、その英雄を動かした組織の長は、法治主義を無視した人間です」
「さらに——」とアティットは続けた。
「柏木勇気の変化を最も近くで見ていた人物がいます。川島明、元突撃隊員です。現在、拘束中で裁判を待っています。私の事務所が、川島氏への弁護支援を申し出たところ、次のような証言を得ました」
テキストが画面に出た。川島の言葉として紹介された。
「『柏木隊長の変化に気づいていた。しかし組織は止めなかった。私が上に報告しようとした時、止められた。局長は知っていたはずだ』」
「この証言が事実かどうか、私には断言できません。ただ、川島氏はそう述べています」
「疑問を持っていただきたいのです。英雄を生み出した組織の影で、何が起きていたのか。誰が何を知っていて、誰が何を止めなかったのか」
アティットは最後にカメラを見た。
「瀧本勝幸という男を、私は尊重します。だからこそ、彼の周囲にいた人間たちの責任を問いたい」
動画が終わった。
食堂のテレビを、全員が黙って見ていた。
ジョン、ヴィクトル、ヨナタン、マルティネス、サラ、ダリア、ミュラー、ナターシャ。
誰も何も言わなかった。
しばらくして、ミュラーが言った。「上手い。今回は本当に上手い」
「上手いってレベルじゃないわよ」とサラが言った。声が硬かった。「ジョンを称えながら局長を殺している」
「マリーの処刑は事実だ」とミュラーが言った。「川島の証言は確認できないが、マリーの処刑が局長の判断だったことは事実だ。事実を使われると反論が難しい」
「局長に聞くべきね」
「局長はもう知っている。この動画を見た瞬間に全部理解している。あの人がそういう人間だ」
ジョンは立ち上がった。
全員がジョンを見た。
「どこへ行くんだ」とヴィクトルが聞いた。
「局長のところだ」
「何をしに」
「聞きに行く」
「何を」
「マリーの処刑について。あれは正しかったかどうか、俺は判断できない。でも局長が何を考えていたかは聞ける」
ヴィクトルは少し間を置いた。「……それを聞いてどうする」
「分からない。でも聞かずにいられない」
ジョンは食堂を出た。
局長室のドアをノックした。
「入れ」
ジョンが入った。局長は書類を読んでいた。動画を見た後も、書類を読んでいた。
「見たか」とジョンが聞いた。
「見た」
「マリーの処刑は、あなたが命令したのか」
局長はジョンを見た。「そうだ」
「なぜ裁判にしなかった」
「裁判にすれば、組織の内部が全部出た。作戦の詳細、隊員の身元、タイ国内の情報源。全部が法廷に出る。それはできなかった」
「マリーは死ぬべき人間だったのか」
局長は少し間を置いた。「……俺にはそう判断する権限はない。だが、あの時点で、他の選択肢を俺は持っていなかった」
「後悔しているか」
「している。ずっとしている。それでも同じ判断をするかと聞かれれば——分からない。今も分からない」
ジョンは局長を見た。局長はジョンを見た。
「アティットはこれを使って、あなたを潰そうとしている」
「分かっている」
「どうするつもりだ」
「正直に答える。裁判なしだった理由を説明する。それが全てだ。説明しても理解されないかもしれない。それでも、隠さない」
「隠せば」
「アティットの思う通りになる。隠すのが一番まずい」
ジョンは少し間を置いた。「……川島の証言は本物か」
「川島が局長に報告しようとしたことはある。止めたのはマリーだ。私ではない。川島はそれを知っているはずだが——アティットの弁護士が何を提示したか、私には分からない」
「川島は利用されているのか」
「そうかもしれない。あるいは川島自身がそれを選んだのかもしれない。どちらにしても、川島の立場は裁判で決まる。私が動けば、それが川島への干渉になる」
「つまり、今は待つしかない」
「待つしかない」
ジョンは立った。ドアに向かった。
「ジョン」と局長が呼んだ。
「何だ」
「お前を称えたことで、お前を使おうとしている。気づいているか」
「気づいている」
「怒っているか」
「……怒っている」
「どうする」
ジョンは少し間を置いた。
「あの時、俺は国王を守るために動いたんじゃない。スヨンの手に触れるために動いた。それだけだ」
局長は何も言わなかった。
「英雄だと言われるのが腹立たしいんじゃない。あの瞬間に何があったか、何も分かっていないことが腹立たしい」
「……そうか」
「称えようが何しようが、白バイで走り続ける。それだけだ」
局長は少し頷いた。
ジョンは出ていった。
夜、ミュラーは一人で資料を見ていた。
アティットの動画を、もう一度最初から見た。称えながら局長を孤立させる手口。川島の証言を「事実かどうか断言できない」と前置きしながら出す手口。
かつての自分に似ていた。
だが一つだけ、かつての自分と違うことがあった。
かつての自分は、感情なしにやっていた。計算だけだった。
アティットには感情がある。欲がある。それが穴になる。
ミュラーはノートを開いた。
三つの事実を書いた。
川島の証言の具体的な内容——アティットの動画で出た言葉と、実際の記録との矛盾を探す。
マリー処刑の経緯——局長の判断の根拠を文書化する。隠さない。全部出す。
アティットの背後——軍の一部、陳偉強の残党、既得権益層。この三つを繋ぐ証拠をサラが持っているはずだ。
穴を見つければ、崩れる。
一点だけではない。三重に詰める。




