第63話 包囲網
局長の回答文書が公開されたのは、アティットの動画から三日後だった。
王室騎士親衛隊の公式文書として、ヴィクトル・ザハロフの経緯を全て記した。王宮戦での立場。拘束の経緯。局長の判断による釈放。タイ国籍取得の日付。国王陛下への報告と承認。最後に顧問弁護士の一文。
「王室騎士親衛隊のメンバー構成は、国王陛下の意向に基づくものであり、適切な手続きを経て設置されたものである」
文書は淡々としていた。怒りがなかった。感情がなかった。ただ事実だけがあった。
SNSの反応は割れた。「透明性がある」という声と、「それでも元敵を受け入れるのはおかしい」という声が混在した。だが全体として、王室の判断を正面から批判する声は少なかった。タイという国において、それには理由があった。
アティットはその日の夜、事務所で報告を聞いていた。
「世論はどうだ」
「ヴィクトル・ザハロフの件は、局長の回答で中和されつつあります。王室を直接批判する声は出ていません」
アティットは少し考えた。「予想通りだ」
「次の手を打ちますか」
「打つ」とアティットは言った。「ただし、方向を変える。王室の判断に触れるな。別の場所を掘れ」
「どこを掘りますか」
「過去だ」
三日後、アティットが新しい動画を上げた。
今度は二十分あった。
「タイ王室犯罪対策局と突撃隊の活動について、より詳しく国民に知っていただきたいと思います」
穏やかな声だった。
「まず、ジョン・ドゥという人物についてです。彼の本名は瀧本勝幸。日本の元警察官——神奈川県警の白バイ隊員です」
「この人物には、日本在職中に重大な出来事がありました。連続強姦殺人事件の容疑者を、裁判なしに射殺しています。当時、日本国内でも賛否が分かれた事件でした。日本の法治主義の観点から問題があるとして批判された人物が、今やタイ王室の騎士を名乗っています」
「彼はその後、なぜ神奈川県警を退職したのか。処分されたのか、自ら辞めたのか。日本側の説明は今も曖昧なままです」
「次に、柏木勇気という人物についてです」とアティットは続けた。「この人物は元日本の陸上自衛隊の将校でした。つまり突撃隊は、日本の軍人経験者を中枢に置いていた。その人物が、最終的に組織への反乱を起こし、複数の仲間を殺しました。突撃隊の設立当初から、なぜ外国の軍人に組織の中枢を任せたのか。タイの機密情報が、どれだけ外国人の手に渡っていたか」
「さらに、突撃隊の過去の作戦を見ると、詳細が非公開のものが複数あります。市民への影響は本当になかったのでしょうか。法的根拠は適切だったのでしょうか」
「そして現在——ジョン・ドゥは白バイで市内を走り回っています。日本で容疑者を射殺した人物が、タイの街を巡回している。タイ国民はそれを知っているでしょうか」
最後まで穏やかだった。笑顔だった。
食堂のテレビで、ジェームズが動画を見ていた。
マイケルが隣にいた。サラ・ミラーが手帳を持っていた。その後ろにミュラーが立っていた。
動画が終わった。
「上手い」とミュラーが言った。
「どこがですか」とジェームズが聞いた。
「事実を使っている。ジョンが射殺した件は事実だ。柏木が自衛隊出身で反乱を起こしたのも事実だ。事実に乗せた疑問は反論しにくい。なぜなら事実を否定することはできないからだ」
「反論はできないの?」とサラが聞いた。
「文脈がある。だが文脈を全部出すには時間がかかる。その間、煙だけが立ち続ける。射殺の文脈——あの時何が起きていたか、何人の命が救われたか、当時の判断は適切だったか——それを全部並べれば説明できる。だが今はそれをやらない」
「なぜ」
「アティットが待っている。こちらが動けば、動いたことへの批判が始まる。動かなければ、疑問だけが膨らむ。どちらに転んでも向こうに有利だ」
「ではどうするの」
「ジョンが答える。言葉ではなく、走ることで」
ジョンは白バイの整備をしていた。
ナターシャが来た。「動画、見ましたか」
「見た」
「どう思いますか」
「事実が含まれている」
「射殺の件が使われました。反論はしないんですか」
ジョンは手を止めなかった。「事実だ」
「でも当時の状況は——」
「状況は変わらない。俺が引き金を引いた。それは変わらない」
「それでいいんですか」
「事実から逃げない。ただ、今ここでやっていることも変わらない。それだけだ」
ジョンは整備を続けた。
サラは資料を広げていた。
柏木の件について、公開できる記録を整理していた。隣でミュラーが確認していた。
「柏木の件は、組織が適切に対応した記録が残っているわ」とサラが言った。「反乱の発覚後、局長がすぐに動いた。隊員への被害を最小化した。最終的に瀧本が——」
「ジョンが」とミュラーが言った。
「……ジョンが収拾した。記録はある」
「記録を出せば、ジョンが柏木を殺したという事実も出る」
「出るわね」
「それをアティットは使う。組織の隊員が隊員を殺した、と」
サラは少し間を置いた。「……文脈を全部出せば説明できるけど」
「文脈を全部出すには時間がかかる。その間、煙だけが立ち続ける」
「どうするの」
「今は出さない。アティットが証拠を求められる瞬間を待つ。その時に全部出す」
「証拠を求められる瞬間というのは」
「疑問ではなく、主張をした時だ。疑問には証拠がいらない。だが主張には必要になる。アティットが主張に踏み込んだ瞬間に出す」
その夜、マルティネスが情報屋から連絡を受けた。
「アティットの事務所が、突撃隊の元関係者に接触しているらしい」
「元関係者というのは」
「柏木に従った人間たちだ。拘束されて裁判を待っている連中の中に、アティットの弁護士が接触しているという話がある」
マルティネスはミュラーに送った。「アティットが柏木側の人間に接触している可能性がある」
ミュラーからの返信は速かった。「証拠になるか」
「今は噂だ。確認中」
「確認しろ。それが出れば糸が一本増える」
局長室に、深夜に電話があった。
局長が取った。
「ウィチャイ」と声がした。局長の古い知り合いの声だった。タイ政界に長くいる人間だった。
「どうした」
「アティットの後ろに誰がいるか、分かったか」
「まだだ。心当たりがあるか」
「軍の一部だ。クーデターを考えている連中ではない。だが政治的な影響力を回復したい人間たちだ。親衛隊が邪魔な理由はそこだ」
「王室直属の組織が、軍の指揮系統の外にある」
「そうだ。制御できないものを、彼らは嫌う」
局長は少し間を置いた。「アティットはその人間たちの駒か」
「駒ではないだろう。だが利用されている。アティット自身は自分が主役のつもりだ」
「主役のつもりで使われている」
「それが一番厄介だ。本人が使われていると気づかないから、止まらない」
電話が切れた。
局長は窓の外を見た。バンコクの夜が広がっていた。
糸が一本ではなかった。複数の勢力が、別々の理由で同じ方向を向いていた。アティットはその結節点にいた。意図的に、あるいは気づかずに。
「外交問題は後で何とかする」と局長は呟いた。
だが今回は、少し時間がかかるかもしれなかった。
翌朝、ジョンは白バイで基地を出た。
サイレンを鳴らした。パトライトを点けた。
バンコクの朝が始まっていた。市場が動いていた。子供が走っていた。おばちゃんたちが声を上げていた。
タキモトが来た、という声が聞こえた。
ジョンは走り続けた。
アティットが何を言っても、白バイは走り続ける。日本で目立った実績のない白バイ隊員が、バンコクの朝を走り続ける。
それが答えだった。
言葉ではなく、走ることが。




