第62話 王室の問題
アティットが次の動画を上げたのは、議会質問から三日後だった。
今度は長かった。十五分あった。
冒頭から丁寧に整理していた。声のトーンは変わらなかった。穏やかだった。笑顔だった。
「タイ王室犯罪対策局と、その特別部隊である突撃隊について、過去の活動を振り返りたいと思います」
突撃隊の映像が流れた。Netflixのドキュメンタリーからの切り抜きだった。
「この組織は、多くの成果を上げてきました。それは認めます。しかし同時に、いくつかの疑問も残っています」
「かつて突撃隊には、柏木勇気という日本人メンバーがいました。彼は最終的に組織に反乱を起こし、仲間を殺傷する事態を引き起こしました。なぜそのような人物が、長期間にわたって組織の中枢にいられたのでしょうか。内部管理に問題があったのではないでしょうか」
「さらに現在の親衛隊には、ヴィクトル・ザハロフという人物がいます。この人物は、かつて王宮での戦闘において敵側の指揮官として行動した人物です。国王陛下がおられる王宮を武力で制圧しようとした組織を指揮していた。その人間が、今や王室直属の親衛隊にいる。これについて、国民に説明する義務があるのではないでしょうか」
コメント欄が止まらなくなった。
ミュラーは動画を最後まで見た。
「ナターシャ」
「はい」
「ヴィクトルを呼んでくれ」
「分かりました」
ヴィクトルが来た。ミュラーの部屋に入った。椅子に座った。
「動画を見たか」とミュラーが聞いた。
「見た」
「どう思う」
「事実だ」とヴィクトルは言った。「指揮していた。それは事実だ」
「反論はあるか」
「事実への反論はない」
「文脈はある」
「文脈を説明する気はない」
ミュラーは少し間を置いた。「なぜだ」
「説明すれば、言い訳に見える。事実は事実だ。それ以上でも以下でもない。俺がここにいる理由は、俺が決めた。それだけだ」
「では何も言わないか」
「事実だけを言う。聞かれれば答える。だが自分から弁明はしない」
ミュラーはヴィクトルを見た。この男は変わらなかった。食堂で初めて話した夜から、何も変わっていなかった。
「局長に報告する」とミュラーは言った。「これは親衛隊だけの問題ではなくなった」
局長室に、ミュラー、ハーパー、ルノーが集まった。
局長は動画を見た。最後まで見た。
「ヴィクトルの件は事実か」と局長が聞いた。
「事実です」とミュラーが答えた。「王宮戦で敵側の指揮官でした。その後拘束され、釈放され、タイ国籍を取得しました。現在親衛隊にいます」
「私が受け入れた」と局長は言った。
ハーパーが少し止まった。ルノーも黙った。
「知っている。全部知った上で受け入れた。拘置室での面会も、釈放の判断も、タイ国籍の手配も、私が動いた」
「なぜですか」とハーパーが聞いた。
「あの男が変わったからだ。王宮戦の後、拘置室で何があったか——ニコライとの面会で何かが動いた。俺にはそれが見えた。この男はもう同じ方向を向いていないと判断した」
「その判断を、アティットは問題にしています」
「問題にするのは自由だ」と局長は言った。「だがその判断をしたのは私だ。私の判断を問題にするなら、それは私への攻撃だ」
「局長への攻撃になれば——」
「王室への攻撃になる」と局長は言った。「陛下はヴィクトルのことをご存知だ。私から報告した。陛下は認めた。アティットが次に進めば、陛下の判断を問題にすることになる」
ミュラーが言った。「それを理解した上で、アティットは踏み込んできた」
「踏み込んできた」と局長は言った。「つまり、背後に誰かいる。一人ではここまで来ない」
「分かった」と局長は言った。「これは親衛隊への攻撃ではない」
ハーパーが聞いた。「どういう意味ですか」
「王室の判断への攻撃だ。陛下が認めた人間を、アティットは問題にしている。それは王室への挑戦になる。アティットはそこまで計算しなかったか、計算した上で踏み込んだかのどちらかだ」
ルノーが言った。「どちらだと思いますか」
「計算しなかった」と局長は言った。「賢い人間ほど、王室の問題に踏み込む時に慎重になる。アティットは賢いが、欲が出た。賢さと欲が同居した時、人間は計算ミスをする」
「どう動きますか」と、ミュラーが聞いた。
「二段階だ」と局長は言った。「まず私が動く。王室への影響を最小化する。次に——」
「陛下に報告するのですか」
「する必要はない。陛下はすでに知っている。知った上で私に任せている」
「任せている、というのは」
「外交問題は後で何とかする」と局長は言った。
ミュラーは少し間を置いた。「……具体的には」
「アティットに、正式な文書で回答する。王室騎士親衛隊の設立経緯、ヴィクトル・ザハロフの身分変更の経緯、全て文書で公開する。隠さない」
「隠さないのですか」
「隠すものがないからだ。ヴィクトルは王宮戦で敵側にいた。それは事実だ。その後タイ国籍を取った。それも事実だ。王室がその人間を親衛隊に認めた。それも事実だ。全部公開すれば、アティットが問えるのは王室の判断そのものになる。タイでそれをやれば、どうなるか——アティットが一番分かっている」
ハーパーが言った。「追い詰めるのですか」
「追い詰めるのではない」と局長は言った。「事実を並べるだけだ。判断は国民がする」
ミュラーは少し考えた。「……同じ手だな」
「何が」
「アティットが疑問を並べた。こちらは事実を並べる。同じ構造だ」
「そうだ」と局長は言った。「ただし、こちらには事実がある。向こうには疑問しかない」
その日の午後、ヴィクトルはジョンを訓練場で見つけた。
シャドーボクシングをしていた。
「ジョン」
「何だ」
「動画を見たか」
「見た」
「俺のことが出ていた」
「知っている」
「どう思う」
ジョンはシャドーボクシングを止めた。ヴィクトルを見た。「事実だ」
「そうだ」
「事実は変わらない」
「変わらない」
ジョンは少し間を置いた。「お前がここにいる理由も、変わらないか」
「変わらない」
「なら問題ない」
「問題ないか」
「ある」
「何が」
「お前が攻撃されている」とジョンは言った。「それが問題だ。事実が問題なのではない。お前が狙われていることが問題だ」
ヴィクトルは少し間を置いた。「……俺のことを、心配しているのか」
「心配というより、怒っている」
「俺が狙われることに怒っているのか」
「そうだ」
ヴィクトルは、少し笑った気がした。表情はほとんど変わらなかったが、目の端が少し動いた。「……珍しいな」
「何が」
「お前が怒るのは、自分のことではない時だ」
ジョンは答えなかった。シャドーボクシングを再開した。
ヴィクトルはその隣に立った。
しばらく二人で、並んで動いていた。
夜、ミュラーは文書を書いていた。
王室騎士親衛隊の公式回答書だった。局長の承認を受けた。王室の顧問弁護士も確認した。
ヴィクトルの経歴について書いた。
事実だけを書いた。
王宮戦での立場。拘束の経緯。釈放の理由。タイ国籍取得の日付。親衛隊への参加経緯。
感情を入れなかった。弁明を入れなかった。ただ事実を並べた。最後の一行に、王室の顧問弁護士が一文を加えた。
「王室騎士親衛隊のメンバー構成は、国王陛下の意向に基づくものであり、適切な手続きを経て設置されたものである」
ミュラーはその一文を読んだ。
この一文で、アティットが次に攻撃できる対象は国王陛下だけになる。
タイでそれをやれば——アティットには分かっていた。分かった上で、どう動くか。
「かつての自分なら、どうしたか」とミュラーは呟いた。
答えは出ていた。
追い詰められた時に出る本性が、次の問題になる。




