第61話 糸
議会質問は火曜日の午後だった。
ミュラーはナターシャと並んでタブレットで中継を見ていた。アティット・チャンタラが壇上に立った。スーツが清潔だった。声が通った。カメラ映えがした。
「王室騎士親衛隊について、いくつか確認させていただきたいと思います」
穏やかな話し方だった。攻撃的ではなかった。「確認」という言葉を使った。
「同組織には外国籍の人員が複数含まれています。タイ国籍を取得しているとのことですが、その過程の透明性について、国民に説明する義務があるのではないでしょうか」
「また、王室直属という位置づけにより、通常の行政監視が及ばない点も懸念されます。民主主義的な観点から、何らかの監督機能を設けることを検討すべきではないでしょうか」
「さらに、民間の動画配信サービスを通じて活動内容を広く公開していますが、これは適切な情報管理の観点から問題があるのではないでしょうか」
一つ一つは穏やかな「疑問」だった。怒鳴らなかった。証拠を出さなかった。ただ疑問を、丁寧に、積み上げた。
ミュラーは中継を止めた。
「どうですか」とナターシャが聞いた。
「上手い」とミュラーは言った。
「上手い、というのは」
「証拠がない。主張もない。ただ疑問を出している。これに反論しようとすれば、こちらが材料を与えることになる。黙っていれば、疑問が膨らむ」
「どう対応しますか」
ミュラーは少し間を置いた。「同じ手を使う」
夕方、ミュラーがヴィクトルを呼んだ。
二人で食堂に座った。他に人はいなかった。
「話がある」とミュラーは言った。
「何だ」
「アティットの手口を見て、思い出したことがある」
ヴィクトルは何も言わなかった。
「以前、食堂で話した。命令の結果を後で自分の目で見たと言った」
「言っていた」
「内容を話さなかった。今日、話す気になった」
ヴィクトルはコーヒーを持った。「聞く」
「私はドイツ連邦軍で政治将校をやっていた。大佐になる前の話だ」
「政治将校とは」
「軍事作戦に政治的判断を組み込む役割だ。世論への影響、外交的な意味、情報の管理——そういうことを考えて、作戦立案に関与する。現場の指揮官ではなかった。上と現場の間にいた」
「アフガンでやっていたのか」
「そうだ。撤退の計画に関わった。どのルートで、どのタイミングで、何を残して、何を持ち出すか。数字と地図の上で計算した。合理的な計画だった。私はそう思っていた」
「何が起きた」
「撤退が始まった。計画通りに動いた。数字の上では成功だった」ミュラーはコーヒーを飲んだ。「一ヶ月後に映像が出た。現地に残された人間たちの映像だ。私が計画の中で『許容できる損失』として処理した人間たちだった」
ヴィクトルは黙っていた。
「顔があった」とミュラーは言った。「数字には顔がない。だが映像には顔があった。名前も分からない人間の顔が、画面の中にあった」
「それで辞めたのか」
「すぐには辞めなかった。半年間、仕事を続けた。だがその半年間、私はずっとその顔を見ていた。書類を読む時も、会議をする時も、別の計画を立てる時も。数字の向こうに顔があった」
「……そうか」
「辞めた時、上司に理由を聞かれた。答えなかった。答えられなかった。計画は正しかった。判断は合理的だった。でも顔があった。その矛盾を言葉にできなかった」
ヴィクトルはコーヒーを置いた。「お前が政治家の手口を見て思い出したのは、それか」
「そうだ。アティットのやり方は私がやっていたことと同じだ。疑問を積み上げる。数字と言葉で人を動かす。直接手を汚さない。結果だけを受け取る。私はかつてそれをやっていた」
「だから止められるのか」
「止められるかどうかは分からない」とミュラーは言った。「だが見えるものがある。同じことをやっていた人間には、どこに穴があるかが見える」
ヴィクトルは少し間を置いた。「……穴はどこだ」
「疑問は証拠ではない。疑問を出し続ければ、必ずどこかで証拠を求められる瞬間が来る。その瞬間に証拠がなければ、疑問は嘘になる」
「それを待つのか」
「待ちながら、その瞬間を作る」
翌日、サラが資料を持ってミュラーの部屋に来た。
「アティットの政治資金団体の帳簿、もう少し掘れたわ」
「何が出た」
「タイ未来基金の支出の中に、メディアコンサルティング会社への定期的な支払いがある。会社名はクリーンだけど、実質的なオーナーを辿ると——」
「誰だ」
「陳偉強の関係者よ。逮捕された陳の、ビジネスパートナーだった人間」
ミュラーは少し間を置いた。「繋がった」
「一本目の糸よ。細いけど、ある」
「それだけではない」とミュラーは言った。「他にも出るはずだ。アティットは調整役だ。複数の勢力を繋いでいる。糸は一本だけじゃない」
「続けて掘る」
「頼む。ただし——」
「急がないってことは分かってるわ」
「急げば察知される。アティットは嗅覚が鋭い。長くこの世界にいる人間の嗅覚だ」
サラは頷いた。「一つだけ聞いていいかしら」
「何だ」
「ミュラー、アティットのことが分かるのはなぜ? 同じ種類の人間だから?」
ミュラーは少し間を置いた。「かつて似たようなことをやっていた。世論を管理し、疑問を植え付け、数字で人を動かす。軍の政治将校として、十年やっていた」
サラはミュラーを見た。「……だから分かるのね」
「分かる。穴も見える。どこで崩れるかも見える」
「それを使う」
「使う」
サラは部屋を出た。
その夜、SNSが動いた。
アティットが動画を上げた。議会質問の切り抜きではなかった。新しく撮影した動画だった。
カメラに向かって話していた。穏やかな声だった。
「タイ国民の皆さんに、一つのことを考えていただきたいと思います。私たちの王室は、素晴らしい存在です。その王室に仕える人間が、本当にタイの人間であるべきではないでしょうか。外国から来た人間が、タイ王室の騎士を名乗る。それはタイの誇りとして、正しいことでしょうか」
笑顔だった。穏やかだった。
コメント欄が動いた。賛否が分かれた。「確かに」という声と、「親衛隊は守ってくれた」という声が混在した。
ジェームズが食堂でその動画を見ていた。マイケルが隣にいた。
「撮るか」とマイケルが聞いた。
「撮る」とジェームズが言った。「ミュラーさんに相談してから」
「どんな映像を撮る」
「アティットが疑問を出した。なら答えを撮る」
「答えって」
「市場のおじさんたちだ。支援センターで助けてもらった人たちだ。あの人たちに聞く。王室騎士の親衛隊について、どう思うか」
マイケルは少し考えた。「世論を、世論で返すのか」
「ミュラーさんが言った。同じ手を使うって」
二人は顔を見合わせた。
「デスマーチになるな」とマイケルが言った。
「なる」とジェームズが言った。「やるぞ」
バンコクの夜、ミュラーは一人で書類を見ていた。
アティットの動画を、一度だけ見た。
穏やかな笑顔だった。疑問の積み上げ方が丁寧だった。証拠を出していなかった。感情を使っていなかった。ただ「考えてほしい」と言っていた。
かつての自分に似ていた。
ミュラーは書類に戻った。
似ているからこそ、どこで崩れるかが分かる。




