第60話 複数の影
最初にミュラーが気づいたのは、嫌がらせの質が変わったことだった。
陳偉強の件の後から、外部からの接触が増えていた。弁護士からの照会、議員からの問い合わせ、報道機関からの取材申請。そのどれもが、一つ一つは些細なものだった。
だが今週だけで、七件来ていた。
ミュラーはナターシャに言った。「発信元を全部洗え。重複があるはずだ」
ナターシャが三時間かけて調べた。「三つの法律事務所、二つのメディア、議員事務所が一つです。表向きは全部別々ですが——」
「繋がりがあるか」
「一つの政治資金団体に全部繋がっています」
「名前は」
「『タイ未来基金』です。理事長はアティット・チャンタラ議員です」
ミュラーは少し間を置いた。「知っているか」
「調べました」とナターシャはタブレットを開いた。「四十二歳。三期目の下院議員。汚職撲滅と行政改革を訴えています。SNSのフォロワーが三百万を超えています。テレビのコメンテーターとしても活動していて、若者を中心に人気があります。タイのメディアでは『次の首相候補』と呼ばれることもあります」
「クリーンな印象か」
「非常にクリーンです。政治資金の透明化も主張しています」
ミュラーはコーヒーを飲んだ。「そういう人間が一番厄介だ」
「なぜですか」
「攻撃しにくいからだ。証拠を出せば『政治的弾圧だ』と言える。民衆の支持があれば、それが盾になる」
ナターシャは少し考えた。「でも接触してきているのは事実です」
「事実だ。だが今の段階では証拠にならない。もっと積まなければいけない」
「どこから積めばいいですか」
「タイ未来基金の資金の流れだ。政治資金団体の帳簿は公開されている部分がある。そこから始めろ」
同じ頃、バンコク市内の別の場所でも動きがあった。
マルティネスが路地の情報屋から連絡を受けた。「最近、お前たちのことを聞き回っている人間がいる」
「どんな人間だ」
「若い男だ。政治関係者に見える。親衛隊のメンバーについて、個人的な情報を集めているらしい」
「名前は」
「分からない。ただ、金払いがいい。情報を買っている」
マルティネスはヨナタンに送った。「誰かが俺たちの個人情報を集めている」
ヨナタンからすぐに返信が来た。「知っている。三日前から気づいていた」
「なんで言わなかった」
「確認中だった」
「今は」
「二人いる。一人がマルティネスの周辺、もう一人がダリアの支援センター周辺を動いている」
マルティネスは少し間を置いた。「ダリアの周辺も」
「そうだ」
「サラに言うか」
「言え。ミュラーにも」
その夜、ニュースが流れた。
タイの民放だった。ニュースキャスターが読んだ。「王室騎士親衛隊を巡り、一部から懸念の声が上がっています。外国籍の人間が多数含まれる同組織の活動について、アティット・チャンタラ議員が議会で質問を行う予定です」
ジェームズが食堂のテレビで見ていた。マイケルとサラ・ミラーが隣にいた。
「アティット議員だ」とジェームズが言った。
「知ってるの?」とマイケルが聞いた。
「タイにいれば知っている。よくテレビに出てくる。クリーンな印象がある」
「その人が親衛隊を?」
「議会で質問するらしい」
サラ・ミラーがメモ帳を出した。「撮れるかな」
「議会は難しい。でも、議員の動きは追える」
「どうする」
「ミュラーさんに聞いてから決める」
翌朝、ミュラーが全員を集めた。
食堂に七人が揃った。ジョン、ヴィクトル、ヨナタン、マルティネス、サラ、ダリア、ミュラー。
「状況を整理する」とミュラーは言った。「七件の外部からの接触が一つの政治資金団体に繋がった。個人情報を収集する人間がマルティネスとダリアの周辺で確認された。昨夜のニュースで議会質問の予定が報じられた。これは個別の嫌がらせではない。組織的な動きだ」
「アティット・チャンタラか」とサラが言った。
「名前が出てきているのは事実だ。だが今の段階では確定ではない。彼が主体なのか、彼を使っている人間がいるのか、まだ分からない」
「親衛隊を狙う理由は」とヴィクトルが言った。
「複数考えられる。陳偉強の件で損害を受けた勢力。軍部の一部で制御できない組織を嫌う人間。親衛隊の映像が政治的に邪魔になっている勢力」
「全部か」とジョンが聞いた。
「可能性としては全部だ。複数の勢力が別々の理由で動いていて、アティットがその調整役になっている可能性がある」
「厄介だな」
「非常に厄介だ。相手は世論を持っている」
「どう動く」
「ミュラーが書類で対応する」とサラが言った。「私は情報を集める。それで十分じゃない?」
「攻撃の形が変わる可能性がある」とミュラーが言った。「今は嫌がらせだ。しかし本格的に動けば——」
「世論を動かす」とジョンが言った。
「そうだ。親衛隊の映像が武器に変わる。外国人傭兵が王室を私物化している、という話を作られる可能性がある」
食堂が少し静かになった。
「それは困るわね」とダリアが言った。
「困る」とミュラーが言った。「ただし、逆も言える」
「逆?」
「あの映像は、我々が守ってきた人間たちも見ている。市場の人間、支援センターで助けた人間、グアダラハラで手を振った人間。世論は一方的ではない」
ヴィクトルが言った。「先に動くか、待つか」
「待つ」とミュラーは言った。「アティットが議会で質問する。その内容を見てから動く。今動けば、向こうに材料を与える」
「ジョンは」とサラが聞いた。
ジョンはコーヒーを飲んでいた。「白バイで走る」
「それだけ?」
「それが今できることだ。止まれば、向こうの思う通りになる」
ミュラーはジョンを見た。「正しい」
「いつも通りだ」
食堂の外から、市場のおじさんの声が聞こえてきた。今日も溜まりに来ていた。子供の笑い声も混じっていた。
アティット・チャンタラの名前を、彼らはまだ知らなかった。
バンコクの議員事務所。
アティット・チャンタラは書類を読んでいた。
四十二歳だった。顔が整っていた。声が良かった。テレビ映えした。SNSの更新は毎日欠かさなかった。市民との対話を大切にするというイメージを、十年かけて丁寧に作り上げてきた。
秘書が報告した。「親衛隊の動きの確認が取れました。情報収集は予定通り進んでいます」
「メディアへの働きかけは」
「三社が動いています。来週から報道が始まります」
「議会質問は」
「再来週の予定です。質問内容の骨格はできています」
アティットは書類を閉じた。「親衛隊について、タイ国民はどう見ているか」
「今のところ好意的な見方が多いです。ただ、外国人が多数含まれることへの漠然とした不安も一部にあります」
「その不安を育てる」とアティットは言った。声は穏やかだった。「急がなくていい。丁寧にやれ。証拠のない話はするな。疑問を提起するだけでいい」
「了解しました」
「それから」
「はい」
「ジョン・ドゥという男についての情報を、もっと集めろ。あの男の過去に使えるものがあるはずだ」
秘書はメモを取った。
アティットは窓の外を見た。バンコクの昼の光だった。
彼は笑顔が得意だった。テレビの前ではいつも笑っていた。
今も、笑っていた。




