第59話 爺、無双
ソンクランが終わって、仕事に戻った。
ヨナタンが港の監視を再開した。サラが新しい案件の資料を広げた。マルティネスが路地の情報屋に連絡を入れた。ジョンが白バイで出た。ヴィクトルがどこかへ行った。
普通の朝だった。
ただ一つだけ変わったことがあった。
基地に人が残っていた。
昨日の屋台のおじさんが、片付けに来ていた。そのまま居座って近所のおばちゃんと話し始めた。子供が三人、昨日の続きで遊びに来た。市場のおじさんが「ちょっと荷物を置かせてくれ」と言って、そのまま荷物を広げて商売を始めた。
ナターシャが食堂の窓から外を見た。
駐車場の端に人が五人いた。
「ミュラーさん」
「知っている」
「どうしますか」
「今日は放置する。明日も来たら対応する」
翌日も来た。増えていた。
ミュラーは対応することにした。ただし追い出さなかった。基地の端の区画を「開放エリア」として設定して、そこ以外には入らないように丁寧に説明した。おじさんたちは納得した。おばちゃんたちも納得した。子供たちは納得しなかったが、ヨナタンが「ここまでだ」と言ったら従った。
そうやって二週間が経った頃、問題が起きた。
政治家が来た。
タイ国会議員だった。補佐官を二人連れていた。スーツを着ていた。
「王室騎士親衛隊の責任者に話を聞きたい」
受付に来たナターシャが「お名前と用件を」と聞いた。議員は名刺を出した。ナターシャは名刺を受け取って「少々お待ちください」と言い、名刺を持ってミュラーの部屋に行った。
ミュラーは名刺を見た。「知っているか」
「調べます」とナターシャは言って、三十秒でタブレットを開いた。「国会議員です。与党の中堅です。委員会は——行政監視委員会です」
「行政監視」
「はい。政府機関の活動を監視する立場にあります」
「親衛隊は政府機関ではない」
「そうですね」
「ではなぜ来た」
「話を聞かないと分かりません」
ミュラーは立ち上がった。「通せ」
会議室に議員と補佐官二人が入った。向かいにミュラーとナターシャが座った。
議員が話し始めた。
「王室騎士親衛隊の施設が、一般市民の溜まり場になっているという報告を受けています。権威ある王室関連施設として、適切な管理が求められると考えますが、いかがでしょうか」
ミュラーは少し間を置いた。「定義を確認させてください。王室騎士親衛隊は、王室直属の組織です。政府機関ではありません。行政監視委員会の管轄外になりますが、いかがでしょうか」
議員が補佐官と目を合わせた。「しかし王室関連施設として——」
「王室関連施設の定義について」とミュラーは言った。「ナターシャ」
「はい」とナターシャはタブレットを開いた。「タイ王国法令第三十七条の二項によると、王室関連施設とは王室が所有または直接管理する施設を指します。当施設は王室騎士が使用する施設であり、王室が所有する土地に建設されています。これは王室関連施設に該当しますが、その管理権限は国会ではなく王室にあります」
議員は少し表情を変えた。「しかし公共の安全という観点から——」
「公共の安全について」とミュラーが言った。「現在、施設内の開放エリアにおいて、ヨナタン・レヴィ元モサド工作員が周辺の安全確認を行っています。一般の警備会社より高い水準の安全管理が実施されています。問題はありますか」
「……それは、ともかく」
「ともかく、とはどういう意味ですか。具体的にお聞かせください」
議員は少し詰まった。「王室騎士の施設が観光地化することへの、品位の問題です」
「品位の定義について」とミュラーが言った。「ナターシャ」
「タイ王室の広報が先月出した声明があります」とナターシャはタブレットを操作した。「『国民の安全を守る全ての活動に感謝する』という内容です。また先週、国王陛下が親衛隊員をご招待した映像が公開されています。王室が品位を問題にしているという根拠はどこにありますか」
議員の補佐官が何かを書き始めた。
「加えて」とミュラーが続けた。「現在この施設に集まる地元市民のほとんどは、陳偉強による人身売買から直接または間接的に被害を受けた方々です。親衛隊の活動によって保護された地域の人間が、感謝の意を示すために集まっています。これを排除することが、タイ王国の品位向上に繋がるとお考えでしょうか」
議員は少し黙った。
「もう一つ確認させてください」とミュラーは言った。「本日の訪問は、誰の指示によるものですか」
「……委員会の判断です」
「委員会の議事録を開示していただけますか。この件についての審議が行われたことを確認したいと思います」
補佐官が議員の耳元で何かを言った。
議員は少し間を置いた。「……今日は情報収集が目的です。正式な審議はこれから行います」
「分かりました」とミュラーは言った。「正式な審議が行われる際は、事前にご連絡ください。書面で対応します。本日はお時間をいただきありがとうございました」
立ち上がった。
議員たちは少し戸惑いながら立ち上がった。会議室を出た。
廊下でナターシャが見送った。
議員が帰った後、ミュラーの部屋に戻った。
「どうでしたか」とナターシャが聞いた。
「問題ない」とミュラーが言った。「正式な審議は来ない」
「なぜ分かるんですか」
「議事録がないからだ。個人的な動きだ。誰かに頼まれて来た。しかし根拠がない。正式に動けば、自分たちの立場が危うくなる」
「……誰かというのは」
「陳偉強の関係者だろう。本人は逮捕されたが、繋がりのある人間はまだいる。嫌がらせの一種だ」
「それで終わりですか」
「終わりではない。また来る。だが毎回同じだ。根拠がない。書面で対応すれば詰まる」
ナターシャはメモを取った。「分かりました。書面の準備をしておきます」
「頼む」とミュラーは言って、コーヒーを注いだ。「ナターシャ」
「何ですか」
「お前は突撃隊にいた時より顔色がいいな」
ナターシャは少し止まった。「……そうですか」
「突撃隊では何をしていた」
「経理と書類の処理と、隊員たちの後始末です」
「後始末というのは」
「ジョンさんが怪我をするたびに医療費の処理をして、マルティネスさんが何かを壊すたびに報告書を書いて、ヨナタンさんのナイフが毎月なくなるので補充の申請をして——」
「それは確かに消耗する」
「消耗しました」
「ここでは違うか」
ナターシャは少し考えた。「……ここでは、私が動かないと何かが起きます」
「突撃隊でも同じではないか」
「突撃隊では、私が動かなくても隊員たちが動いていました。私は後ろで処理するだけでした。ここでは、私が動けば政治家が止まります。私が書類を出せば根拠が崩れます」
「自分が主役だということか」
「主役ではありません。でも……手応えがあります」
ミュラーはコーヒーを飲んだ。「いい仕事だった」
「ミュラーさんが全部やりました」
「お前が三十秒で法令を出した。俺一人では遅かった」
ナターシャは少し黙った。「……ありがとうございます」
「礼はいい。次が来たら同じようにやれ」
「はい」
その夜、食堂でマルティネスが聞いた。
「議員が来たって本当か」
「来た」とミュラーが言った。
「追い返したのか」
「追い返してはいない。帰っていただいた」
「どう違うんだ」
「追い返すのは力だ。帰っていただくのは論理だ」
マルティネスは少し考えた。「……ミュラーさん、かっこいいな」
「そうでもない」
「かっこいいですよ」とナターシャが言った。「私はそう思います」
ミュラーは少し間を置いた。「……そうか」
珍しく、何も言わなかった。
ジョンがビールを飲んでいた。「また来るか」
「来る」とミュラーが言った。「だが毎回同じだ。根拠がない人間は、書面に弱い」
「陳の関係者か」
「おそらく」
「面倒だな」
「面倒だが、こちらが有利だ。根拠があるからだ」
ヴィクトルが言った。「戦場で言えば、補給線が繋がっている側が強い」
ミュラーはヴィクトルを見た。「正確な表現だ」
「お前はその戦い方が得意なんだろう」
「得意だ。三十年やってきた」
「じゃあ任せる」
「任せろ」
ヴィクトルはビールを飲んだ。ミュラーもビールを飲んだ。二人が同時に飲んだ。何も言わなかった。
それで十分だった。




