第58話 ソンクラン
四月十三日。タイの正月、ソンクランだった。
親衛隊の基地は、この日だけ開放された。ミュラーが「観光地化しているなら正式に開放した方が管理しやすい」と言い、局長が「外交問題は後で何とかする」と言って許可した。
朝から人が集まってきた。
地元の人間、観光客、屋台のおじさんおばさんたち。去年から基地の前に集まるようになっていた人たちが、今年は中に入ってきた。フェンスが開いた瞬間に歓声が上がった。
屋台が並んだ。タイ料理、果物、飲み物。そして——
「ジョン・ドゥ記念たこ焼き」
看板が出ていた。
マルティネスは白いエプロンをつけていた。
たこ焼き器の前に立っていた。鉄板の穴にタネを流し込んで、ピックで返していた。焼けた匂いが漂っていた。
「いらっしゃいませ! たこ焼きはいかがですか!」とスペイン語訛りのタイ語で叫んでいた。
行列ができていた。
ヴィクトルが基地の中を歩いていた。人の多さに少し戸惑いながら歩いていた。ソンクランの水がどこかから飛んできた。肩が濡れた。振り向いたが誰が撃ったか分からなかった。
たこ焼き屋の前を通りかかった。
止まった。
マルティネスがいた。エプロンをつけて、ピックを持って、たこ焼きを焼いていた。
ヴィクトルはしばらく動かなかった。
マルティネスが気づいた。「ヴィクトル! 来たか! たこ焼き食うか!」
「……お前、何をしている」
「たこ焼きを焼いている。見れば分かるだろ」
「なぜ」
「屋台のおじさんが、昨日いきなり腰を痛めたんだよ。頼まれた」
「頼まれたのか」
「頼まれた。俺、たこ焼き好きだし、焼けるし、断れなかった」
「……いつから焼けるんだ」
「タイに来てから習った。市場のおばちゃんに」
ヴィクトルは少し間を置いた。「……一つくれ」
「百バーツだ」
「高い」
「観光地価格だ」
「……払う」
マルティネスはたこ焼きを六個、舟に乗せた。ソースとマヨネーズをかけた。青のりをふった。ヴィクトルに渡した。
ヴィクトルは一個食べた。
何も言わなかった。
「どうだ」とマルティネスが聞いた。
「……悪くない」
「だろ。また来い」
ヴィクトルはたこ焼きを持ったまま、人込みの中に消えていった。
食堂では、ミュラーとナターシャがテーブルについていた。
ミュラーの前にビールがあった。ソーセージがあった。ザワークラウトもあった。どこで調達したのかは不明だった。
「ナターシャ、ドイツのソンクランはどうだ」
「ドイツにソンクランはありません」
「そうだな。だがドイツにも春の祭りはある」
「ビール祭りですか」
「オクトーバーフェストは秋だ。春は別のものがある」
「何ですか」
「地域によって違う。だがビールは必ず出る」
「……ビールが基本なんですね」
「ドイツはそういう国だ」とミュラーは言って、ビールを飲んだ。
ジョンが食堂の端の席に座っていた。ビールを飲んでいた。素知らぬ顔だった。
ナターシャがジョンを見た。「ジョンさん、食堂にいるんですか。外は賑やかですよ」
「知っている」
「出ないんですか」
「ここが静かだ」
「出ると水をかけられますよ」
「知っている」
「それで出ないんですか」
「そうだ」
ミュラーがビールを飲んだ。「賢明だ」
「ミュラーさんも出ないんですか」とナターシャが聞いた。
「ドイツ人はソンクランをやらない」
「でもここはタイですよ」
「ここでもやらない」
「……なぜですか」
「水をかけられたくない」
ナターシャは少し間を置いた。「……そういう理由ですか」
「シンプルな理由だ」
ジョンがビールを飲んだ。何も言わなかった。
ミュラーがジョンを見た。「お前も同じ理由か」
「同じだ」
「やはり賢明だ」
ナターシャはため息をついた。「お二人とも、たまには参加してください」
「来年考える」とミュラーが言った。
「来年も同じことを言うんでしょう」
「そうかもしれない」
食堂の外から水の音と歓声が聞こえてきた。ジョンはビールを飲んだ。
基地の中庭は戦場だった。
水鉄砲を持ったダリアとサラが向かい合っていた。
「降参しないの?」とダリアが言った。
「しないわよ」とサラが言った。「こっちは補給があるの」
「こっちもあるわ」
「どこに」
「ここよ」
ダリアが水鉄砲を撃った。サラが躱した。サラが撃った。ダリアが躱した。
観光客が動画を撮っていた。
「あの二人、突撃隊員じゃないか」「動きがおかしい」「水鉄砲なのに本気だ」——そういう声が観光客の中で上がっていた。
「サラ! 後ろ!」とダリアが叫んだ。
サラが振り向いた。マルティネスがエプロンのまま大型の水鉄砲を持って走ってきた。
「たこ焼き屋はどうしたの!」
「人に頼んだ!」
三人の水鉄砲が同時に発射された。
ヨナタンは、気づいたら子供に手を引かれていた。
タイ人の子供が三人いた。五歳か六歳だった。それぞれ水鉄砲を持っていた。
「お兄さん、一緒に来て!」とタイ語で言われた。
「……どこへ」
「あっちに大きい人がいる! 一緒に攻撃しよう!」
ヨナタンは少し考えた。「大きい人とは」
「白いお兄さん! エプロンの!」
「……マルティネスか」
「知ってる人?」
「知っている」
「じゃあ一緒に来て! 絶対倒せる!」
ヨナタンは少し間を置いた。「……分かった」
子供たちが歓声を上げた。ヨナタンは子供たちに引かれて歩き始めた。
途中、別の子供が加わった。また別の子供が加わった。
気づいたらヨナタンの周りに七人の子供がいた。全員水鉄砲を持っていた。全員ヨナタンを見上げていた。
「作戦を立てよう」と一人が言った。
「作戦」とヨナタンが繰り返した。
「そう! 囲んで撃つ!」
「……それは包囲戦術だ」
「強い?」
「状況による」
「じゃあ今の状況は?」
ヨナタンは周囲を確認した。マルティネスとダリアとサラが水鉄砲で撃ち合っている場所が見えた。観光客が動画を撮っている。建物の配置、風向き、水の補給場所——全部確認した。
「有利だ」とヨナタンは言った。
子供たちが歓声を上げた。
「どこから攻める?」
「左から回る。三人が陽動に動いて、残りが本命を撃つ」
「分かった!」
「動く前に確認する。水は足りているか」
子供たちが水鉄砲を確認した。「足りてる!」「俺も!」「私も!」
「よし」とヨナタンは言った。「行くぞ」
マルティネスが三方向から水をかけられていた。
一方はダリア、一方はサラ、そしてもう一方から子供の集団が突撃してきた。先頭にヨナタンがいた。水鉄砲を持っていた。
「ヨナタン! お前も来たのか!」
「子供たちに頼まれた」
「お前がそんなことするとは思わなかった!」
「作戦を立てた。子供たちの動きは合理的だ」
「そういう問題じゃないだろ!」
四方向から水が来た。マルティネスはびしょ濡れになった。
観光客の動画に、ヨナタンが子供七人と連携して戦術的に水鉄砲を運用する場面が収まった。後でSNSに流れて「元モサドが子供の水鉄砲を指揮している」というキャプションがついた。三百万回再生された。
夕方、基地の中が少し静かになってきた頃、ジョンが外に出てきた。
祭りの後半だった。人はまだいたが、朝の混雑よりは落ち着いていた。
「出てきたの」とダリアが言った。濡れていた。
「出てきた」
「水かけていい?」
「かけるな」
「なんで」
「乾いている」
「ソンクランは水をかけるものよ」
「知っている」
「じゃあかけていい?」
「かけるな」
ダリアは水鉄砲を持ったまま、少し考えた。「……分かったわ」
「かけないのか」
「かけない」
「なぜ」
「かけていいって言ってほしかったから」
ジョンは少し間を置いた。「……かけていい」
「今更言われても」
「ならかけるな」
「かけるわよ」
ダリアが水鉄砲を撃った。
ジョンが濡れた。
「……」
「ソンクランおめでとう」とダリアは言った。
「……おめでとう」
「楽しいでしょ」
「……まあ」
「まあって何よ」
「悪くない」
ダリアは笑った。市場のおばちゃんがジョンを見つけた。「タキモト! 来たか!」と叫んだ。瞬く間に人が集まってきた。「タキモトに水をかけろ!」という声が上がった。
ジョンはその場に立ったまま、四方八方から水をかけられた。
びしょ濡れになった。
何も言わなかった。
ただ立っていた。
市場のおばちゃんが笑っていた。子供が笑っていた。観光客が動画を撮っていた。
ダリアが隣で笑いながら言った。「バンコクで一番人気のある人ね」
「……そうかもしれない」
「嫌い?」
「……嫌いじゃない」
バンコクの春の夕方が、基地の上に広がっていた。どこかでヴァン・ダムが「ジョン・ドゥがソンクランを楽しんでいる。よいことだ」とYouTubeにコメントしていた。三十万のいいねがついた。




