表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
64/73

第57話 覚悟完了


 王宮から戻った翌日、ダリアは局長室のドアをノックした。

 「入れ」

 入った。局長が書類を読んでいた。

 「局長、一つお願いがあります」

 「何だ」

 ダリアは書類を一枚出した。テーブルに置いた。

 局長が見た。タイ国籍取得の申請書類だった。全部埋まっていた。タイ語で書いてあった。字が少し曲がっていたが、内容は正確だった。

 局長は書類を手に取った。読んだ。

 「自分で書いたのか」

 「サラに手伝ってもらいました」

 「タイ語で書いてある」

 「タイ国籍の申請書類なので」

 局長は少し間を置いた。「……理由は書かなくていいのか」

 「書きました。最後のページです」

 最後のページを見た。理由の欄に、一文だけ書いてあった。

 タイ語だった。局長は読んだ。

 「守りたいものがここにあるため」

 局長は書類を閉じた。

 「手配する」とだけ言った。

 「ありがとうございます」

 ダリアは頭を下げて出ていった。

 局長はしばらく書類を見ていた。それからハーパーを呼んだ。

 「ダリア・コワレンコの国籍変更手続きを進めてくれ。できる限り早く」

 「承知しました」とハーパーは言った。「ちなみに局長、ヴィクトルさんの国籍はどうなっていますか」

 「確認したことがないな」

 「私もないので調べたんですが」

 「何だった」

 「タイ国籍でした」

 局長は少し間を置いた。「……いつから」

 「三ヶ月前です。ダリアさんより先に申請していました」

 「誰も言っていなかったな」

 「ヴィクトルさんから何も言ってこなかったので、こちらも確認しませんでした」

 局長は窓の外を見た。「……そうか」

 「どうしますか」

 「何もしない。本人が言わなかったなら、言わなくていい理由があったんだろう」

 その夜、ジョンは自分の部屋にいた。

 白いマフラーを外した。

 両手で持った。しばらく見た。スヨンが選んだものだった。スヨンの匂いはもうしなかった。でも手の重さは変わらなかった。

 首に下げていたチェーンを外した。指輪がついていた。スヨンへの、渡せなかった指輪だった。

 マフラーを畳んだ。ゆっくり畳んだ。指輪のチェーンをその上に置いた。

 引き出しを開けた。中に小さな布の袋があった。その中に入れた。

 引き出しを閉めた。

 それだけだった。

 窓の外を見た。バンコクの夜だった。どこかで誰かが笑っていた。バイクが通る音がした。屋台の匂いがした。

 「……スヨン」

 呟いた。

 返事はなかった。当然だった。

 「お前が選んだマフラーを、ここまで持ってきた。お前が決めた約束を、ここまで守ってきた。生きることと、守ることと、止まらないことを」

 窓の外に話しかけていた。誰もいない夜に向かって。

 「まだ止まらない。でも、一緒に止まれない誰かができた。それでいいか」

 返事はなかった。

 でも、ないことが答えだと思った。スヨンなら怒らない。そういう人間だった。

 ジョンは窓を閉めた。

 部屋の電気を消した。

 翌朝、食堂でマルティネスがヴィクトルに聞いた。

 「なあヴィクトル、お前タイ国籍になったって本当か」

 「本当だ」

 「いつから」

 「三ヶ月前だ」

 「なんで言わなかった」

 「聞かれなかった」

 マルティネスは少し間を置いた。「……特に理由は」

 「タイにいるから」

 「それだけか」

 「それだけだ」

 マルティネスはコーヒーを飲んだ。「お前、さらっとしてるな」

 「複雑にする理由がない」

 ヨナタンが隣で聞いていた。「俺はまだイスラエル国籍だ」

 「知っている」とヴィクトルが言った。

 「変えるつもりはない」

 「それでいい」

 「……なぜそれでいいんだ」

 「お前はそういう男だからだ」

 ヨナタンは少し間を置いた。「……そうか」

 マルティネスが言った。「俺はタイ国籍取ろうかな」

 「もう持っている」とヴィクトルが言った。

 「……そうだった」

 「突撃隊に入った時からだ」

 「忘れてた」

 ヨナタンが言った。「俺も持っている」

 「お前も忘れてたのか」

 「忘れていない。ただ普段意識しない」

 「なんで」

 「タイにいるから」

 食堂が少し静かになった。コーヒーの音だけがした。

 ウクライナ。キーウ。

 ゼレンスキーが映像を見ていた。

 王宮での映像だった。ジョンとダリアが国王と茶を飲んでいた。国王がダリアに「守りたいものがここにある」という言葉を引き出した場面だった。ダリアが「今はここにいたいと思っています」と言った場面だった。

 映像は編集されていなかった。手が震えたブレのある映像のまま流れた。でも言葉は全部入っていた。

 ゼレンスキーは画面を閉じた。

 しばらく、何も言わなかった。

 側近が聞いた。「どうされますか」

 「何もしない」

 「ダリア・コワレンコへの連絡は」

 「しない」

 「でも彼女はウクライナの——」

 「彼女はタイにいる」とゼレンスキーは言った。「彼女が決めたことだ」

 側近は黙った。

 「あの映像は、俺に向けたものでもある」とゼレンスキーは言った。

 「……どういう意味ですか」

 「人を守った人間は、どこの国の人間でも迎える——タイの国王がそう言った。国籍で人を縛るなということだ」

 「しかし——」

 「分かっている」とゼレンスキーは言った。疲れた声だった。「分かっている。でも戦争をしている国の大統領は、全員を守ることができない。俺はウクライナ国民を守ることしかできない。それが俺の仕事だ」

 「はい」

 「だから彼女を縛ることはしない。彼女が選んだ場所で、彼女が守りたいものを守っている。それでいい」

 側近は何も言わなかった。

 ゼレンスキーはまた画面を開いた。別の案件だった。戦況の報告だった。次の問題が待っていた。

 ダリアのことは、頭の片隅に置いておくことにした。

 夕方、ダリアがジョンを見つけた。

 駐車場で白バイを磨いていた。

 「ジョン」

 「何だ」

 「白いマフラー、今日つけてないわね」

 ジョンは手を止めなかった。「ああ」

 「どうしたの」

 「仕舞った」

 ダリアは少し間を置いた。「……大事に仕舞ったの」

 「大事に仕舞った」

 「そう」

 それ以上は聞かなかった。聞く必要がなかった。

 ダリアはジョンの隣に座った。白バイを見た。

 「書類、出してきたわ」

 「知っている。局長から聞いた」

 「怒った?」

 「なぜ怒る」

 「相談しなかったから」

 ジョンは手を止めた。ダリアを見た。「相談が必要だったか」

 「……必要だったかどうかは分からない」

 「俺は怒っていない」

 「……よかった」

 しばらく二人で黙っていた。駐車場の外で、観光客がフェンス越しに写真を撮っていた。

 「ジョン」

 「何だ」

 「また呼んでくれるかしら。国王に」

 「呼ばれると思う」

 「次は緊張しないようにしたい」

 「できない」

 「なんで」

 「お前はああいう場所で緊張する人間だ。変わらない」

 「失礼ね」

 「事実だ」

 「でも国王が気に入ってるんでしょ」

 「気に入っている」

 「じゃあ緊張してても大丈夫ね」

 「大丈夫だ」

 ダリアは少し笑った。バンコクの夕方が、駐車場に差し込んできた。

 白いマフラーのないジョンの首が、夕光の中にあった。

 ダリアはそれを見た。何も言わなかった。

 ただ、少し長く見ていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ