第57話 覚悟完了
王宮から戻った翌日、ダリアは局長室のドアをノックした。
「入れ」
入った。局長が書類を読んでいた。
「局長、一つお願いがあります」
「何だ」
ダリアは書類を一枚出した。テーブルに置いた。
局長が見た。タイ国籍取得の申請書類だった。全部埋まっていた。タイ語で書いてあった。字が少し曲がっていたが、内容は正確だった。
局長は書類を手に取った。読んだ。
「自分で書いたのか」
「サラに手伝ってもらいました」
「タイ語で書いてある」
「タイ国籍の申請書類なので」
局長は少し間を置いた。「……理由は書かなくていいのか」
「書きました。最後のページです」
最後のページを見た。理由の欄に、一文だけ書いてあった。
タイ語だった。局長は読んだ。
「守りたいものがここにあるため」
局長は書類を閉じた。
「手配する」とだけ言った。
「ありがとうございます」
ダリアは頭を下げて出ていった。
局長はしばらく書類を見ていた。それからハーパーを呼んだ。
「ダリア・コワレンコの国籍変更手続きを進めてくれ。できる限り早く」
「承知しました」とハーパーは言った。「ちなみに局長、ヴィクトルさんの国籍はどうなっていますか」
「確認したことがないな」
「私もないので調べたんですが」
「何だった」
「タイ国籍でした」
局長は少し間を置いた。「……いつから」
「三ヶ月前です。ダリアさんより先に申請していました」
「誰も言っていなかったな」
「ヴィクトルさんから何も言ってこなかったので、こちらも確認しませんでした」
局長は窓の外を見た。「……そうか」
「どうしますか」
「何もしない。本人が言わなかったなら、言わなくていい理由があったんだろう」
その夜、ジョンは自分の部屋にいた。
白いマフラーを外した。
両手で持った。しばらく見た。スヨンが選んだものだった。スヨンの匂いはもうしなかった。でも手の重さは変わらなかった。
首に下げていたチェーンを外した。指輪がついていた。スヨンへの、渡せなかった指輪だった。
マフラーを畳んだ。ゆっくり畳んだ。指輪のチェーンをその上に置いた。
引き出しを開けた。中に小さな布の袋があった。その中に入れた。
引き出しを閉めた。
それだけだった。
窓の外を見た。バンコクの夜だった。どこかで誰かが笑っていた。バイクが通る音がした。屋台の匂いがした。
「……スヨン」
呟いた。
返事はなかった。当然だった。
「お前が選んだマフラーを、ここまで持ってきた。お前が決めた約束を、ここまで守ってきた。生きることと、守ることと、止まらないことを」
窓の外に話しかけていた。誰もいない夜に向かって。
「まだ止まらない。でも、一緒に止まれない誰かができた。それでいいか」
返事はなかった。
でも、ないことが答えだと思った。スヨンなら怒らない。そういう人間だった。
ジョンは窓を閉めた。
部屋の電気を消した。
翌朝、食堂でマルティネスがヴィクトルに聞いた。
「なあヴィクトル、お前タイ国籍になったって本当か」
「本当だ」
「いつから」
「三ヶ月前だ」
「なんで言わなかった」
「聞かれなかった」
マルティネスは少し間を置いた。「……特に理由は」
「タイにいるから」
「それだけか」
「それだけだ」
マルティネスはコーヒーを飲んだ。「お前、さらっとしてるな」
「複雑にする理由がない」
ヨナタンが隣で聞いていた。「俺はまだイスラエル国籍だ」
「知っている」とヴィクトルが言った。
「変えるつもりはない」
「それでいい」
「……なぜそれでいいんだ」
「お前はそういう男だからだ」
ヨナタンは少し間を置いた。「……そうか」
マルティネスが言った。「俺はタイ国籍取ろうかな」
「もう持っている」とヴィクトルが言った。
「……そうだった」
「突撃隊に入った時からだ」
「忘れてた」
ヨナタンが言った。「俺も持っている」
「お前も忘れてたのか」
「忘れていない。ただ普段意識しない」
「なんで」
「タイにいるから」
食堂が少し静かになった。コーヒーの音だけがした。
ウクライナ。キーウ。
ゼレンスキーが映像を見ていた。
王宮での映像だった。ジョンとダリアが国王と茶を飲んでいた。国王がダリアに「守りたいものがここにある」という言葉を引き出した場面だった。ダリアが「今はここにいたいと思っています」と言った場面だった。
映像は編集されていなかった。手が震えたブレのある映像のまま流れた。でも言葉は全部入っていた。
ゼレンスキーは画面を閉じた。
しばらく、何も言わなかった。
側近が聞いた。「どうされますか」
「何もしない」
「ダリア・コワレンコへの連絡は」
「しない」
「でも彼女はウクライナの——」
「彼女はタイにいる」とゼレンスキーは言った。「彼女が決めたことだ」
側近は黙った。
「あの映像は、俺に向けたものでもある」とゼレンスキーは言った。
「……どういう意味ですか」
「人を守った人間は、どこの国の人間でも迎える——タイの国王がそう言った。国籍で人を縛るなということだ」
「しかし——」
「分かっている」とゼレンスキーは言った。疲れた声だった。「分かっている。でも戦争をしている国の大統領は、全員を守ることができない。俺はウクライナ国民を守ることしかできない。それが俺の仕事だ」
「はい」
「だから彼女を縛ることはしない。彼女が選んだ場所で、彼女が守りたいものを守っている。それでいい」
側近は何も言わなかった。
ゼレンスキーはまた画面を開いた。別の案件だった。戦況の報告だった。次の問題が待っていた。
ダリアのことは、頭の片隅に置いておくことにした。
夕方、ダリアがジョンを見つけた。
駐車場で白バイを磨いていた。
「ジョン」
「何だ」
「白いマフラー、今日つけてないわね」
ジョンは手を止めなかった。「ああ」
「どうしたの」
「仕舞った」
ダリアは少し間を置いた。「……大事に仕舞ったの」
「大事に仕舞った」
「そう」
それ以上は聞かなかった。聞く必要がなかった。
ダリアはジョンの隣に座った。白バイを見た。
「書類、出してきたわ」
「知っている。局長から聞いた」
「怒った?」
「なぜ怒る」
「相談しなかったから」
ジョンは手を止めた。ダリアを見た。「相談が必要だったか」
「……必要だったかどうかは分からない」
「俺は怒っていない」
「……よかった」
しばらく二人で黙っていた。駐車場の外で、観光客がフェンス越しに写真を撮っていた。
「ジョン」
「何だ」
「また呼んでくれるかしら。国王に」
「呼ばれると思う」
「次は緊張しないようにしたい」
「できない」
「なんで」
「お前はああいう場所で緊張する人間だ。変わらない」
「失礼ね」
「事実だ」
「でも国王が気に入ってるんでしょ」
「気に入っている」
「じゃあ緊張してても大丈夫ね」
「大丈夫だ」
ダリアは少し笑った。バンコクの夕方が、駐車場に差し込んできた。
白いマフラーのないジョンの首が、夕光の中にあった。
ダリアはそれを見た。何も言わなかった。
ただ、少し長く見ていた。




