第55話 バンコクからの中継
Netflixの本社会議室は、静かだった。
画面に数字が表示されていた。「The Man Who Would Not Die」チャンネルの再生数だった。公開から七十二時間で四億回を超えていた。登録者数は二千二百万。一週間で。
担当役員が画面を見ていた。隣の担当者が何かを言いかけて、やめた。
「解雇の決定は正しかったか」と誰かが聞いた。
誰も答えなかった。
「Netflixで独占配信していれば」と別の誰かが言った。
「言うな」と役員が言った。
「でも——」
「言うな」
会議室がまた静かになった。
役員は画面を見た。チャンネルのトップページに、一枚の画像があった。バンコクの朝の光の中を、白いバイクが走っていた。白いBDU、白いマフラー。パトライトが光っていた。
サムネイルの下に文字があった。「The Man Who Would Not Die — Bangkok」。
「再接触できるか」と役員が言った。
「……ジェームズ・パークたちにですか」
「そうだ」
「試みましたが、返信がありません」
「続けろ」
「どんな条件を出しますか」
役員は少し考えた。「向こうが出す条件を全部のめ。それだけだ」
担当者はメモを取った。
SNSは止まらなかった。
「#WhoComesThroughTheRoof」が世界トレンドの一位になった。英語圏だけではなかった。日本語では「#屋根から来るやつ」、タイ語では「#คนที่เข้ามาจากหลังคา」、ロシア語では「#КтоВходитЧерезКрышу」、アラビア語でも同じタグが拡大した。
格闘技の専門家がヨナタンとジョンの連携を分析した動画を出した。「RPGの着弾とバイクの突入の誤差が〇・三秒。言葉なしで成立するコンビネーション。訓練では作れない何かがある」という結論だった。三千万回再生された。
ダリアが肘を入れた場面の切り抜きは、格闘技コミュニティで別の火がついた。「フォームが荒い」「でも実戦で使った」「ヴァン・ダムが教えているんだろ」「弟子がいつの間にか増えている」——そういうやり取りが続いた。
ヴァン・ダムのコメントは翌日にも続いた。「ジョンへ。窓の練習をしろ」「ダリアへ。開脚は毎日やれ」「ヴィクトルへ。あの電波妨害装置はどこで手に入れた。教えてくれ」——三つ目のコメントに「本人からの返信:言えない」というジェームズの書き込みがあり、それだけで百万のいいねがついた。
メキシコのSNSでは「#BringThemBack」がまた動き始めた。グアダラハラ市長が「やっぱり正しかった」と投稿した。メキシコ政府の公式アカウントへの返信が止まらなかった。
世界各国の報道は速かった。
BBCが「The Roof Entry」という特集を組んだ。ジョンの突入映像を何度も流しながら、「これは実際に起きたことだ」という確認に一本丸ごと使った。キャスターが「信じられないが、映像がある」と言った。
CNNは「Bangkok's Royal Knight」という特集を出した。親衛隊の活動を追いながら、「タイ王室直属の部隊が人身売買組織を壊滅させた」という構成だった。陳偉強の逮捕も報じた。「タイ社会に根を張った慈善家の仮面が剥がれた」という見出しだった。
フランスのル・モンドはジョン・ドゥの哲学的考察を出した。「なぜ彼は止まらないのか」というタイトルで、「死を計算に入れない人間の行動原理」について論じた。難しい文章だった。でも百万回読まれた。
ドイツのシュピーゲルはミュラーに注目した。「元ドイツ連邦軍大佐がバンコクにいる理由」という記事だった。本人にコメントを求めたが、ナターシャが「取材は受けておりません」と丁寧に断った。
タイの各メディアは一斉に親衛隊を取り上げた。王室騎士の話として、誇りを持って報じた。国王陛下のコメントはなかったが、王室広報が「国民の安全を守る全ての活動に感謝する」という一文を出した。
問題が起きたのは、その翌週だった。
タイの放送局、チャンネル3の夕方のニュースが現地中継をした。
レポーターが立っていた。バンコク郊外だった。
「こちらが現在話題になっております、王室騎士親衛隊の基地となります」
カメラが引いた。
基地の前に、人が集まっていた。
観光客だった。
スマートフォンを構えていた。自撮りをしていた。基地のフェンス越しに写真を撮っていた。地元の屋台が三軒出ていた。「ジョン・ドゥ記念タコ焼き」という屋台もあった。タコ焼きがなぜここにあるのかは不明だった。
レポーターが続けた。「連日多くの方が訪れており、地元では新たな観光スポットとして定着しつつあります。基地の方にお話を聞いたところ——」
カメラが切り替わった。
マルティネスが映っていた。困った顔をしていた。
「えっと……来ていただくのはいいんですが、写真を撮る時はフェンスの外からお願いしまして……あと屋台については私たちは関与していないので……」
「ジョン・ドゥ記念タコ焼きについては」
「……私たちは関与していません」
「タコ焼きを食べたことはありますか」
マルティネスは少し間を置いた。「……食べました。普通においしかったです」
レポーターがカメラに向き直った。「というわけで、バンコク郊外の親衛隊基地は今や観光名所として定着しつつあります。チャンネル3、現地からお伝えしました」
そのニュースを食堂のテレビで見ていたナターシャが、ミュラーに報告した。
「基地が観光名所になっています」
ミュラーは書類から目を離さずに言った。「知っている」
「どうしますか」
「どうもしない」
「でも警備上の問題が——」
「ヨナタンが見ている」
「ヨナタンさんが観光客を監視しているんですか」
「観光客の中に不審者が混じっていないか確認している。ヨナタンにとっては通常業務だ」
ナターシャは少し間を置いた。「ジョン・ドゥ記念タコ焼きについては」
「関知しない」
「マルティネスさんが食べたと報道されています」
「おいしかったらしい」
「……書類に書く必要はありますか」
「書かなくていい」
ナターシャは頷いた。「分かりました」
出ていきかけて、止まった。「ミュラーさん」
「何だ」
「ジェームズさんたちは今どうしていますか」
「デスマーチの続きだ。コメントへの返信が止まらないらしい」
「大丈夫でしょうか」
「死なない」
「そうですか」
「Netflixから接触が来たらしいが、無視しているそうだ」
ナターシャは少し笑った。「それはよかったです」
ミュラーも、書類を見たまま、少し頷いた。
その夜、ジョンは基地の駐車場で白バイを磨いていた。
フェンスの外に、まだ何人か残っていた。観光客だった。スマートフォンを向けていた。
ジョンはそちらを見なかった。
ダリアが来た。「見られてるわよ」
「知ってる」
「気にならないの」
「気になる」
「なのに磨いてるの」
「磨くものが白バイしかない」
ダリアは少し笑った。フェンスの外の観光客を見た。スマートフォンが光っていた。
「ねえジョン」
「何だ」
「ヴァン・ダムがまたコメントしてたわよ。窓から入る練習をしろって」
「知ってる」
「次は窓から入るの?」
「……考える」
ダリアは笑った。「ミュラーさんの言う通り流してよかったわね」
「そうだな」
「抑止力になった?」
「……なったかもしれない。次が来るまで分からない」
「次が来たら」
「来たら考える」
「屋根から入るの?」
「……状況による」
「ヴァン・ダムは窓から入れって言ってるじゃない」
「ヴァン・ダムは現場にいなかった」
ダリアはまた笑った。フェンスの外で、観光客が一人、基地に向かって手を振った。ジョンは見ていなかった。ダリアが代わりに小さく手を振った。
バンコクの夜が、基地の上に広がっていた。




