表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
61/73

幕間 広報部のデスマーチ


 チェンマイから全員が戻った翌朝、ジェームズ・パークは食堂のテーブルに顔を伏せていた。

 マイケル・チェンが隣でコーヒーを飲んでいた。目が赤かった。サラ・ミラーがノートに何かを書いていた。手が震えていた。

 三人とも、二日間眠っていなかった。

 チェンマイの映像があった。山道を走る白バイの映像。ヨナタンがRPGを構える映像。屋根に着弾する映像。爆煙の中にバイクが飛び込んでいく映像。全部、ジェームズのカメラに入っていた。

 遠距離からの撮影だった。画質は荒かった。でも全部入っていた。

 問題は、流すかどうかだった。

 「また人が研究して来るんじゃないか」とマイケルが言った。「ディエゴは前のドキュメンタリーを研究して来た。陳も研究して来た。流せば次が来る」

 「流さなければ意味がない」とサラ・ミラーが言った。「私たちは何のために撮っているんだ」

 「でも——」

 「誰かに聞こう」とジェームズが顔を上げた。「判断できる人間に」

 ミュラーは食堂に来て、コーヒーを注いで、三人の前に座った。

 映像を見た。全部見た。黙って見た。

 見終わった後、少し間を置いた。

 「流せ」とミュラーは言った。

 「でも研究されれば——」とマイケルが言いかけた。

 「研究させろ」

 三人が顔を上げた。

 「ディエゴは研究した。陳も研究した。どちらも負けた。それを流せ。見た人間が出す結論は一つだ。研究しても勝てない、だ」

 「抑止力ということですか」

 「そうだ。軍事において情報公開は武器になる。相手が何をしても我々は負けない——それを見せることが、次の敵を減らす。ジョンは王国の騎士だ。姑息な手段を使っても、屋根からバイクで突っ込んでくる。それを知れば、手を出す前に考える」

 ジェームズはミュラーを見た。「ミュラーさんは軍人だったんですよね」

 「元大佐だ」

 「その視点で言っているんですか」

 「そうだ。三十年の経験から言っている。見せることと隠すことのどちらが抑止力になるか——見せる方だ。ただし見せ方がある」

 「見せ方とは」

 「勝ったことだけ見せるな。苦しんだことも見せろ。ダリアが拉致された。ジョンが動けなかった時間があった。それを含めて流せ。完璧に見える組織は信用されない。傷を負いながら勝つ姿が、本当の抑止力になる」

 三人は黙っていた。

 サラ・ミラーが手帳に書き始めた。止まらなかった。

 「分かりました」とジェームズが言った。「流します」

 「一つだけ条件がある」

 「何ですか」

 「ヨナタンの顔は映すな。あの男はモサド出身だ。顔が出れば危険になる」

 「……了解です。処理します」

 「それだけだ」

 ミュラーはコーヒーを飲んだ。立ち上がった。

 「デスマーチになるぞ」と言った。「頑張れ」

 「デスマーチって知ってるんですか」とマイケルが聞いた。

 「ドイツにもある言葉だ」

 ミュラーは出ていった。

 三人は七十二時間、食堂から出なかった。

 ナターシャが食事を運んだ。「食べてください」「後で食べます」「後では死にますよ」「後で食べます」——このやり取りが六回繰り返された。

 マルティネスが覗きに来た。「大丈夫か」「大丈夫じゃない」「テキーラでも飲むか」「今は飲めない」「そうか」——それだけで帰った。

 ジョンが一度だけ来た。食堂に入って、三人を見て、コーヒーを注いでテーブルに置いて、何も言わずに出ていった。

 ジェームズがそのコーヒーを飲んだ。少し間を置いて言った。「……ジョンって、ああいう人だったんですね」

 「二年間追いかけてたんだろ」とマイケルが言った。

 「見ていたのと、一緒にいるのは違うな」

 「そうだな」

 サラ・ミラーはノートを見ながら言った。「でもだからこそ、撮れるものがある。ドキュメンタリーじゃ撮れなかったものが」

 「それが広報部の仕事か」

 「そうだ」

 三人はまた作業に戻った。

 映像を公開したのは七十二時間後の朝だった。

 タイトルは「The Man Who Would Not Die — Bangkok」。

 チャンネルは「The Man Who Would Not Die」。Netflix解雇後に開設したチャンネルだった。登録者数は既に三百万を超えていた。

 公開から一時間で再生数が百万を超えた。

 三時間で一千万を超えた。

 コメント欄は崩壊していた。

 「屋根から来るやつがいるか」が世界中で共有された。英語に翻訳されて「WHO ENTERS FROM THE ROOF ON A MOTORCYCLE」というキャプションがついた。スペイン語圏では「¿Quién entra por el techo en moto?」になった。タイ語では「ใครบ้างที่บุกเข้าทางหลังคาด้วยมอเตอร์ไซค์」になった。全部バズった。

 「陳偉強の最後の言葉『屋根よ』が怖すぎる」というスレッドが立った。「加害者が一番驚いてるの草」という返信が一万件ついた。

 「ヨナタンのRPGとジョンのバイクのタイミングを分析した」という動画が格闘技チャンネルから出た。「誤差0.3秒」という結論が出た。「あれは言葉なしで合わせている」「二人だけで成立するコンビネーション」「他の誰にもできない」——そういうコメントが並んだ。

 「ダリアが自分で動いた」という切り抜きも広まった。ヴィクトルに引かれる前に肘を入れた場面だった。「ヴァン・ダムの弟子じゃないか」「フォームが荒い」「でも動いた」「そこが大事」——コメントが続いた。

 ベルギー。

 ジャン・クロード・ヴァン・ダムはスマートフォンを持って立っていた。

 映像を五回見た。ジョンが屋根から入る場面を二十回見た。ダリアが肘を入れる場面を三十回見た。

 「Helena!」と呼んだ。

 秘書が来た。「また、ですか」

 「また、だ」

 「Netflixですか」

 「Netflixではない。YouTubeだ」

 「……チャンネル名は」

 「The Man Who Would Not Die」

 秘書はスマートフォンで検索した。「登録者数が一時間で五十万増えています」

 「そうか」とヴァン・ダムは言った。「コメントをしたい。どうすれば」

 「アカウントがあれば——」

 「作れ」

 「……今ですか」

 「今だ」

 秘書はため息をついた。スマートフォンを操作し始めた。五分後、アカウントができた。「どんなコメントをしますか」

 「ダリアに向けて書く。開脚の練習をしろ。あの肘は悪くなかった。だがフォームはまだ改善できる。次は教える」

 秘書が打った。送信した。

 三分後、そのコメントに二十万のいいねがついた。ヴァン・ダム本人のアカウントからの投稿だと確認されてからは、さらに増えた。

 「Helena」

 「何ですか」

 「もう一つ書く」

 「誰に向けてですか」

 「ジョン・ドゥに向けて」

 「何と書きますか」

 ヴァン・ダムは少し考えた。

 「屋根からか。悪くない。だが次は窓から入れ。窓の方が速い」

 秘書が打った。

 そのコメントに三十万のいいねがついた。

 返信の一番上に、「The Man Who Would Not Die」公式アカウントからのコメントがあった。ジェームズが書いた。「本人に伝えます。本人のコメント:『考える』」

 ヴァン・ダムは笑った。声に出して笑った。

 「Helena、このチャンネルを登録しろ」

 「もう登録しました」

 「通知もオンにしろ」

 「しました」

 「よし」

 ヴァン・ダムはスマートフォンをソファに置いた。それから取り上げた。

 「Helena、もう一つ」

 「まだありますか」

 「バンコクへのチケットを取れ」

 秘書は止まった。「……何のためですか」

 「ダリアの開脚を直しに行く。それから、ジョンに窓からの入り方を教える」

 「……またですか」

 「また、だ」

 秘書はため息をついた。スマートフォンを操作し始めた。

 基地の食堂で、ジェームズがスマートフォンを見ていた。

 コメント欄に返信を続けていた。マイケルとサラ・ミラーも隣で同じことをしていた。

 「ヴァン・ダムが来るらしいぞ」とマイケルが言った。

 「何回目だ」とジェームズが言った。

 「分からない」

 「ダリアに言ったか」

 「まだだ」

 「言った方がいい」

 「ヴァン・ダムに開脚の練習が足りないと言われたと伝えるのか」

 「そうだ」

 「……それは本人から言ってもらおう」

 三人は作業を続けた。コメント欄は止まらなかった。チャンネルの登録者数は一時間ごとに跳ね上がっていた。

 デスマーチは、まだ終わっていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ