幕間 広報部のデスマーチ
チェンマイから全員が戻った翌朝、ジェームズ・パークは食堂のテーブルに顔を伏せていた。
マイケル・チェンが隣でコーヒーを飲んでいた。目が赤かった。サラ・ミラーがノートに何かを書いていた。手が震えていた。
三人とも、二日間眠っていなかった。
チェンマイの映像があった。山道を走る白バイの映像。ヨナタンがRPGを構える映像。屋根に着弾する映像。爆煙の中にバイクが飛び込んでいく映像。全部、ジェームズのカメラに入っていた。
遠距離からの撮影だった。画質は荒かった。でも全部入っていた。
問題は、流すかどうかだった。
「また人が研究して来るんじゃないか」とマイケルが言った。「ディエゴは前のドキュメンタリーを研究して来た。陳も研究して来た。流せば次が来る」
「流さなければ意味がない」とサラ・ミラーが言った。「私たちは何のために撮っているんだ」
「でも——」
「誰かに聞こう」とジェームズが顔を上げた。「判断できる人間に」
ミュラーは食堂に来て、コーヒーを注いで、三人の前に座った。
映像を見た。全部見た。黙って見た。
見終わった後、少し間を置いた。
「流せ」とミュラーは言った。
「でも研究されれば——」とマイケルが言いかけた。
「研究させろ」
三人が顔を上げた。
「ディエゴは研究した。陳も研究した。どちらも負けた。それを流せ。見た人間が出す結論は一つだ。研究しても勝てない、だ」
「抑止力ということですか」
「そうだ。軍事において情報公開は武器になる。相手が何をしても我々は負けない——それを見せることが、次の敵を減らす。ジョンは王国の騎士だ。姑息な手段を使っても、屋根からバイクで突っ込んでくる。それを知れば、手を出す前に考える」
ジェームズはミュラーを見た。「ミュラーさんは軍人だったんですよね」
「元大佐だ」
「その視点で言っているんですか」
「そうだ。三十年の経験から言っている。見せることと隠すことのどちらが抑止力になるか——見せる方だ。ただし見せ方がある」
「見せ方とは」
「勝ったことだけ見せるな。苦しんだことも見せろ。ダリアが拉致された。ジョンが動けなかった時間があった。それを含めて流せ。完璧に見える組織は信用されない。傷を負いながら勝つ姿が、本当の抑止力になる」
三人は黙っていた。
サラ・ミラーが手帳に書き始めた。止まらなかった。
「分かりました」とジェームズが言った。「流します」
「一つだけ条件がある」
「何ですか」
「ヨナタンの顔は映すな。あの男はモサド出身だ。顔が出れば危険になる」
「……了解です。処理します」
「それだけだ」
ミュラーはコーヒーを飲んだ。立ち上がった。
「デスマーチになるぞ」と言った。「頑張れ」
「デスマーチって知ってるんですか」とマイケルが聞いた。
「ドイツにもある言葉だ」
ミュラーは出ていった。
三人は七十二時間、食堂から出なかった。
ナターシャが食事を運んだ。「食べてください」「後で食べます」「後では死にますよ」「後で食べます」——このやり取りが六回繰り返された。
マルティネスが覗きに来た。「大丈夫か」「大丈夫じゃない」「テキーラでも飲むか」「今は飲めない」「そうか」——それだけで帰った。
ジョンが一度だけ来た。食堂に入って、三人を見て、コーヒーを注いでテーブルに置いて、何も言わずに出ていった。
ジェームズがそのコーヒーを飲んだ。少し間を置いて言った。「……ジョンって、ああいう人だったんですね」
「二年間追いかけてたんだろ」とマイケルが言った。
「見ていたのと、一緒にいるのは違うな」
「そうだな」
サラ・ミラーはノートを見ながら言った。「でもだからこそ、撮れるものがある。ドキュメンタリーじゃ撮れなかったものが」
「それが広報部の仕事か」
「そうだ」
三人はまた作業に戻った。
映像を公開したのは七十二時間後の朝だった。
タイトルは「The Man Who Would Not Die — Bangkok」。
チャンネルは「The Man Who Would Not Die」。Netflix解雇後に開設したチャンネルだった。登録者数は既に三百万を超えていた。
公開から一時間で再生数が百万を超えた。
三時間で一千万を超えた。
コメント欄は崩壊していた。
「屋根から来るやつがいるか」が世界中で共有された。英語に翻訳されて「WHO ENTERS FROM THE ROOF ON A MOTORCYCLE」というキャプションがついた。スペイン語圏では「¿Quién entra por el techo en moto?」になった。タイ語では「ใครบ้างที่บุกเข้าทางหลังคาด้วยมอเตอร์ไซค์」になった。全部バズった。
「陳偉強の最後の言葉『屋根よ』が怖すぎる」というスレッドが立った。「加害者が一番驚いてるの草」という返信が一万件ついた。
「ヨナタンのRPGとジョンのバイクのタイミングを分析した」という動画が格闘技チャンネルから出た。「誤差0.3秒」という結論が出た。「あれは言葉なしで合わせている」「二人だけで成立するコンビネーション」「他の誰にもできない」——そういうコメントが並んだ。
「ダリアが自分で動いた」という切り抜きも広まった。ヴィクトルに引かれる前に肘を入れた場面だった。「ヴァン・ダムの弟子じゃないか」「フォームが荒い」「でも動いた」「そこが大事」——コメントが続いた。
ベルギー。
ジャン・クロード・ヴァン・ダムはスマートフォンを持って立っていた。
映像を五回見た。ジョンが屋根から入る場面を二十回見た。ダリアが肘を入れる場面を三十回見た。
「Helena!」と呼んだ。
秘書が来た。「また、ですか」
「また、だ」
「Netflixですか」
「Netflixではない。YouTubeだ」
「……チャンネル名は」
「The Man Who Would Not Die」
秘書はスマートフォンで検索した。「登録者数が一時間で五十万増えています」
「そうか」とヴァン・ダムは言った。「コメントをしたい。どうすれば」
「アカウントがあれば——」
「作れ」
「……今ですか」
「今だ」
秘書はため息をついた。スマートフォンを操作し始めた。五分後、アカウントができた。「どんなコメントをしますか」
「ダリアに向けて書く。開脚の練習をしろ。あの肘は悪くなかった。だがフォームはまだ改善できる。次は教える」
秘書が打った。送信した。
三分後、そのコメントに二十万のいいねがついた。ヴァン・ダム本人のアカウントからの投稿だと確認されてからは、さらに増えた。
「Helena」
「何ですか」
「もう一つ書く」
「誰に向けてですか」
「ジョン・ドゥに向けて」
「何と書きますか」
ヴァン・ダムは少し考えた。
「屋根からか。悪くない。だが次は窓から入れ。窓の方が速い」
秘書が打った。
そのコメントに三十万のいいねがついた。
返信の一番上に、「The Man Who Would Not Die」公式アカウントからのコメントがあった。ジェームズが書いた。「本人に伝えます。本人のコメント:『考える』」
ヴァン・ダムは笑った。声に出して笑った。
「Helena、このチャンネルを登録しろ」
「もう登録しました」
「通知もオンにしろ」
「しました」
「よし」
ヴァン・ダムはスマートフォンをソファに置いた。それから取り上げた。
「Helena、もう一つ」
「まだありますか」
「バンコクへのチケットを取れ」
秘書は止まった。「……何のためですか」
「ダリアの開脚を直しに行く。それから、ジョンに窓からの入り方を教える」
「……またですか」
「また、だ」
秘書はため息をついた。スマートフォンを操作し始めた。
基地の食堂で、ジェームズがスマートフォンを見ていた。
コメント欄に返信を続けていた。マイケルとサラ・ミラーも隣で同じことをしていた。
「ヴァン・ダムが来るらしいぞ」とマイケルが言った。
「何回目だ」とジェームズが言った。
「分からない」
「ダリアに言ったか」
「まだだ」
「言った方がいい」
「ヴァン・ダムに開脚の練習が足りないと言われたと伝えるのか」
「そうだ」
「……それは本人から言ってもらおう」
三人は作業を続けた。コメント欄は止まらなかった。チャンネルの登録者数は一時間ごとに跳ね上がっていた。
デスマーチは、まだ終わっていなかった。




