第54話 想定外
ジョンが高速道路に入った時、速度計は既に百六十を超えていた。
サイレンを鳴らしていた。パトライトが光っていた。車が左右に避けていった。チェンマイまで四時間と言ったが、この速度なら三時間を切れる。
スマートフォンがハンドルのホルダーで光った。ヨナタンからだった。
「三台が動き始めた。方向を追っている」
ジョンは前を見たまま音声で返した。「分かった。場所を送り続けろ」
「送る。もう一つ確認がある」
「何だ」
「タイミングはお前が決めろ。俺は合わせる」
ジョンは少し間を置いた。「……分かった」
それだけだった。それで十分だった。
チェンマイの山道、三台の車が列をなして走り始めた。
先頭と最後尾が囮だった。ダリアは真ん中の車にいた。後部座席に座らされていた。手首は縛られていなかったが、両隣に男がいた。
ダリアは窓の外を見ていた。山道だった。暗かった。どこに向かっているか分からなかった。
ただ一つだけ分かっていることがあった。
ジョンが来る。
根拠はなかった。でも確信があった。あの男は来る。どこにいても来る。どんな状況でも来る。それがジョン・ドゥという人間だった。ドキュメンタリーで何百回も見た。メキシコで自分の目で見た。
だから待っていた。
ヴィクトルは建物の裏手に回った。
三台が出ていった後、建物の中にまだ人間がいた。警備が残っていた。ヴィクトルは茂みの中から数えた。六人。外に二人、中に四人と思われた。
ヨナタンから連絡が来た。「三台のうち真ん中にダリアがいる。方向は北。山道を下りている。国境まで一時間半」
ヴィクトルは返信した。「建物の警備は残っている。陳への連絡を断つ」
「どうやって」
「電波を止める」
「そんな機材があるのか」
「ある」
ヴィクトルは小さな機器を取り出した。局所的な電波妨害装置だった。どこで手に入れたかは、誰も聞かなかった。
スイッチを入れた。
建物の警備が一斉にスマートフォンを見た。繋がらなかった。顔を見合わせた。
その間に、ヴィクトルは動いた。
車が山道の中腹まで来た時、先頭の車が止まった。
道が塞がれていた。大きな石が転がっていた。自然に落ちたように見えた。
運転手が降りた。石を動かそうとした。
その瞬間、斜面の上から光が来た。
スポットライトだった。
「動くな」とタイ語の声がした。「タイ王国警察だ。全員車から出ろ」
捜査当局が動いていた。ミュラーが手配した捜査チームが山道に先回りしていた。
先頭の車と最後尾の車の男たちが降りた。囮だった車の人間たちだった。
真ん中の車だけが、一瞬止まった後に動いた。Uターンした。山道を戻り始めた。
ヨナタンはそれを見ていた。
斜面の上から双眼鏡で全部見ていた。二台が止まった。一台が戻った。
スマートフォンをジョンに向けた。「真ん中が戻った。建物に向かっている」
「分かった。あと何分だ」
「お前が今どこにいるか教えろ」
ジョンが座標を送った。ヨナタンが計算した。
「二十分で建物に着く」
「塞いでくれ」
「塞ぐ。タイミングはお前が決めろと言った。決めたか」
「決めた」
「どのくらいで来る」
「着いたら分かる」
ヨナタンは双眼鏡を下ろした。RPGを手に取った。肩に乗せた。
建物の屋根を見た。コンクリートだった。古い建物だった。構造的に最も弱い場所を計算した。
あとはジョンが来るのを待つだけだった。
戻ってきた車が建物の前に止まった。
男たちが降りた。ダリアを引きずり出した。建物の中に戻ろうとした。
その時。
遠くからサイレンの音が聞こえた。
山道の下から、光が見えた。パトライトだった。白いバイクだった。
男の一人が叫んだ。スペイン語ではなく中国語だった。
ジョンが山道を上ってくる速度は、常識の範囲を超えていた。舗装が切れた砂利道に入っても減速しなかった。むしろ加速していた。
男たちがダリアを建物の中に引き戻そうとした。
その瞬間、ダリアは動いた。
両隣の男の足を踏んだ。肘を一方に叩き込んだ。もう一方の男の手首を掴んで捻った。完璧ではなかった。ヴァン・ダムに指摘されたフォームの荒さがあった。でも動いた。体が動いた。
一瞬の隙ができた。
そこにヴィクトルが来た。裏手から回ってきていた。残っていた警備の二人が倒れていた。ヴィクトルはダリアの腕を掴んで引いた。「離れろ」
「ジョンが——」
「来る。離れていろ」
ダリアはヴィクトルに引かれて建物の脇に移動した。
ジョンが建物の前に着いた時、男たちが散らばっていた。
ヴィクトルが外を抑えていた。ダリアが建物の脇にいるのが見えた。無事だった。
でも建物の中にまだ人間がいた。入口のドアが閉まっていた。窓に板が打ち付けられていた。ドキュメンタリーを研究した男が用意した守りだった。
ジョンは建物を一周した。ドアを確認した。窓を確認した。
上を見た。
スマートフォンを出した。ヨナタンに送った。「今だ」
返信はなかった。
かわりに、斜面の上から光が走った。
ヨナタンはジョンがスマートフォンを出した瞬間から目を離さなかった。
「今だ」のメッセージが来た瞬間に、引き金を引いた。
RPGが走った。
屋根に着弾した。
爆音と同時に屋根の一角が崩れた。爆煙が上がった。
その煙の中に、白いバイクが飛び込んでいった。
ジョンは建物の横の斜面を使って屋根の高さまで上げた。崩れた屋根の穴に向かってそのまま突っ込んだ。
瓦礫と埃と煙の中を、バイクが落ちていった。
建物の中にいた男たちは、上を向いていた。
天井が崩れる音がした。何かが降ってきた。
白いバイクだった。
ジョンはバイクから飛んで着地した。転がった。立った。
煙の中に男たちの影があった。
ムエタイの踏み込みで最初の男の腹に膝が入った。シラットで次の男の体軸を崩した。540度ではなく、その場で使える技が体から出た。考えていなかった。体が動いていた。
三人目が銃を向けた。
ジョンは向かった。銃口に向かって向かった。
男が一瞬止まった。向かってくる人間に、引き金を引けない瞬間がある。その瞬間にジョンが入った。銃を取った。男の顔に肘を入れた。
煙が薄くなっていた。
誰も立っていなかった。
建物の外に出た時、ダリアが走ってきた。
「ジョン!」
「……怪我は」
「ないわよ!」
「よかった」
「よかったじゃないわよ!」とダリアは言った。「屋根から来るって何なの!死ぬかと思ったでしょ!」
「死なない」
「私が死ぬかと思ったって言ってるの!」
「……すまない」
「謝ればいいと思って!」
ヴィクトルが横を通りかかった。「元気そうだな」とダリアに言った。
「元気よ!元気だけど!」
「それでいい」
ヨナタンが斜面を降りてきた。RPGを担いでいた。ジョンを見た。「タイミングはどうだった」
「完璧だった」
「そうか」
それだけだった。それ以上は必要なかった。
バンコク。財団事務所。
陳偉強の携帯が繋がらなくなったのは、チェンマイの電波が止まった頃からだった。
代わりに事務所のドアが開いた。
タイ捜査当局の人間が入ってきた。サラが後ろにいた。書類を持っていた。
陳は立ち上がった。表情は変わっていなかった。
「令状があります」と捜査官が言った。「同行をお願いします」
陳は書類を受け取った。読んだ。
口座の照会記録。農業法人との繋がり。輸送記録との照合。ダリア・コワレンコの証言。全部揃っていた。
「弁護士を呼ぶ権利がありますか」
「もちろんです」
陳は窓の外を見た。
計算をしていた。逃げる手がないか。繋がりのある政治家に連絡する時間があるか。証拠を崩す方法があるか。
なかった。
三十年で初めて、答えが出なかった。
「分かりました」と陳は言った。「同行します」
サラが陳を見た。陳もサラを見た。
「一つだけ聞いていいですか」と陳は言った。
「何ですか」
「ジョン・ドゥはどこから入ったんですか。壁も、ドアも、窓も全部塞いでいた」
サラは少し間を置いた。
「屋根よ」
陳は何も言わなかった。
捜査官に連れられて、部屋を出た。




