第53話 包囲
ヴィクトルとヨナタンがチェンマイの山道に入ったのは、夜明け前の四時だった。
車を山の麓に置いて、徒歩で上った。二人とも無言だった。暗い山道を、ヘッドライトも使わずに歩いた。月明かりだけで十分だった。
建物が見えてきた。
フェンスが高かった。監視カメラが四方についていた。ヨナタンが前回確認した通りだった。ただ一つ違うことがあった。警備の人間が増えていた。
ヨナタンがヴィクトルの腕に触れた。指で数えた。前回より十人以上多い。
ヴィクトルは頷いた。
二人は斜面の茂みに入り、夜明けまで待った。
夜明けと同時にヨナタンがサラに送った。「チェンマイ確認。警備が増強されている。二十名前後。ダリアがここにいる可能性が高い。ただし今の状態では入れない」
サラはすぐに返した。「分かったわ。もう少し待って。証拠を固める」
「どのくらいかかる」
「今日中に揃えるわ。絶対に」
サラはミュラーを起こした。朝の五時だった。ミュラーは既に起きていた。
「ヨナタンから報告が来たわ。チェンマイで間違いない。警備が二十名に増えている」
「陳が焦っている」とミュラーは言った。「増員は判断ミスだ。人数を動かせば動かすほど、証拠の線が増える」
「その通りよ。昨夜追いかけていた資金の流れ、一本繋がったわ」
「どこに繋がった」
「チェンマイの農業法人から、陳の個人口座への定期送金記録が出た。少額だから目立たないけど、三年間途切れていない。これで陳と施設が直接繋がる」
ミュラーは書類を見た。「使える。これと登記情報と輸送記録を合わせれば、捜査当局が動ける水準になる」
「もう一本欲しいわ。確実にするために」
「欲張るな」とミュラーは言った。「完璧を待っていれば、ダリアを待たせることになる。今あるもので十分だ」
サラは少し間を置いた。「……分かったわ」
「局長に報告しろ。タイの捜査当局を動かす手配をしてもらう。私たちだけでは入れない。法的な手続きが必要だ」
「でもその間に陳がダリアを移動させたら」
「だからヨナタンとヴィクトルがいる。動かそうとした瞬間に報告が来る。その時にジョンが動く」
「四時間かかる」
「四時間以内で来る。あの男なら」
局長への報告はハーパーが行った。
局長は報告を聞き終えて、五秒黙った。
「証拠は確実か」
「サラが確認しています。使えると判断しています」
「タイの捜査当局に話を通す。ただし時間がかかる。陳には政治的な繋がりがある。慎重に動かないと潰される」
「どのくらいかかりますか」
「今日中に動かす」と局長は言った。「外交問題は後で何とかする」
ハーパーは頷いた。「ジョンへの報告は」
「私が話す」と局長は言って立ち上がった。
ジョンは朝から白バイの整備をしていた。
手を動かしていれば、考えずに済む。そう思っていたが、手が動いていても頭は別のことを考えていた。
ダリアが今どこにいるか。何をしているか。怖いかどうか。
怖いだろうと思った。でもダリアは「大丈夫」と言った。あの言い方はダリアらしかった。強がりではなく、本当にそう決めているような言い方だった。
局長が来た。
「ジョン」
「局長」
「報告がある」とだけ言って、隣にしゃがんだ。整備の邪魔をしない位置だった。
「証拠が揃った。タイの捜査当局を動かす手配をしている。チェンマイの建物に強制捜査が入る。今日中だ」
「ダリアは」
「捜査が入れば、陳は動く。ダリアを移動させようとする。その瞬間にヴィクトルとヨナタンが動く」
「その時に俺が動く」
「そうなる」と局長は言った。「ただし一つ確認したい」
「何だ」
「お前が動く時、どうするつもりだ」
ジョンは工具を置いた。局長を見た。
「行く」
「それだけか」
「それだけだ」
局長は少し間を置いた。「……建物への入り方を考えているか」
「考えている」
「壁か、ドアか、窓か」
「屋根だ」
局長はジョンを見た。「……屋根」
「バイクで乗り込む。屋根から入る」
「屋根の強度は確認したのか」
「していない」
「確認しろ」
「分かった」とジョンは言ったが、確認する気があるかどうかは分からなかった。局長もそれを分かっていた。
「陳は壁とドアと窓を塞いでいると思うわ」と隣でサラが言った。いつの間にか来ていた。「ドキュメンタリーを見ていれば、バイクで突入してくることは想定している」
「屋根は想定しないか」とジョンが聞いた。
「常識的に考えたら、しないわよ」
「なら屋根だ」
局長は立ち上がった。「お前と話していると頭が痛くなる」
「よく言われる」
「だが毎回何とかなる」
「毎回何とかなる」
局長はコートを直した。「捜査当局の手配ができたら連絡する。その時に動け。それまでは待て」
「待つ」
「本当に待つか」
「……待つ」
局長は去った。サラが残った。
「ジョン」
「何だ」
「ダリア、絶対に助けるわよ」
「分かってる」
「私が言いたかったのは——」サラは少し言葉を選んだ。「先に言えなくてごめんなさい」
ジョンは工具を手に取った。「証拠を集めていたんだろ」
「そうよ。でも——」
「正しい判断だ」
「……ジョン」
「言わなかったことを責めていない」とジョンは言った。「早く終わらせる。それだけだ」
サラは何も言わなかった。頷いて、部屋に戻った。
午後二時、陳の携帯が鳴った。
弁護士からだった。
「陳さん、警察から連絡がありました。財団関連の口座について照会があったようです」
陳は静かに聞いた。「どの口座だ」
「チェンマイの農業法人名義の口座です。個人口座への送金記録について確認したいということです」
「分かった」と陳は言った。「対応してくれ」
電話を切った。
窓の外を見た。
口座が照会された。証拠を積まれている。思ったより早かった。
「チェンマイの警備責任者を呼べ」と部下に言った。
「今すぐですか」
「今すぐだ」
電話をつないだ。「ダリア・コワレンコを移動させろ。今夜中に。北のルートで国境を越えろ」
「準備します。車両は——」
「三台で動け。一台に乗せて、二台を囮にしろ。バラバラに動かせ」
「分かりました」
電話を切った。
陳は地図を広げた。国境を越えれば、タイの捜査当局は追えない。ミャンマー側に移せば、取り返しがつかなくなる。
時間がなかった。
今夜動く。
午後二時十五分、ヨナタンのスマートフォンが振動した。
建物の中で動きがあった。人が急いで動いていた。車両の準備をしている。
ヨナタンはヴィクトルに送った。「動く。今夜だ」
ヴィクトルからすぐに返信が来た。「分かった」
ヨナタンはサラに送った。「陳が動く。今夜ダリアを移動させる。北のルートで国境を越えようとする可能性がある」
サラからの返信は速かった。「分かったわ。ジョンに伝える」
次にジョンに送った。「動け」
ジョンはスマートフォンを見た。
白バイのシートを剥いだ。エンジンキーを差した。
ヘルメットを被った。白いマフラーを巻いた。
エンジンをかけた。
マルティネスが駐車場に走ってきた。「ジョン、俺も——」
「バンコクを見てろ」
「でも——」
「陳がまだいる。目を離すな」
マルティネスは止まった。「……分かった。気をつけろよ」
ジョンはアクセルを回した。
サイレンを鳴らした。
白バイが基地を出た。高速道路の入口に向かって走り始めた。
バンコクの昼の空の下、白いバイクが加速していった。




