第52話 静かな戦争
二時間が過ぎた。
陳への返事はなかった。
陳の部下から報告が上がった。「期限を過ぎました。返事がありません」
陳は書類を読んでいた。「分かった」
「どうしますか」
「待つ」
「ダリア・コワレンコはどうします」
「今は何もするな。手を出すな」
部下が出ていった後、陳は窓の外を見た。
返事がない。これは想定の範囲だった。交渉において沈黙は揺さぶりの一種だ。こちらの焦りを誘っている。あるいは、内部で対応を協議している。どちらにせよ、時間がかかる。
陳は煙草に火をつけた。
ただ一つ、引っかかることがあった。ジョン・ドゥが今何をしているか、部下からの報告がない。白バイが基地から出た形跡もない。市内での目撃情報もない。
「ジョンはどこにいる」と送った。
返信まで十分かかった。「確認できていません」
陳は煙草を灰皿に押しつけた。
基地の会議室に五人が集まっていた。
ジョン、ヴィクトル、ヨナタン、マルティネス、ミュラー。サラは隣の部屋で証拠の照合を続けていた。
ミュラーが地図を広げた。「現時点で分かっていることを整理する。陳の拠点は三ヶ所。バンコク市内の文化交流センター、港の倉庫、チェンマイの別荘建物。ヨナタンの報告によれば、チェンマイが中継地点として機能している。ダリアはおそらくこの三ヶ所のどこかにいる」
「チェンマイだ」とヨナタンが言った。「バンコク市内では動かしにくい。港も同じ。人目がある。山の中が一番隠しやすい」
「根拠は」とミュラーが聞いた。
「監視した時の人間の動き方だ。あそこには何かを守っている人間の動きがあった」
「チェンマイまで車で何時間だ」とジョンが聞いた。
「高速を使えば五時間。山道に入れば別途一時間」とマルティネスが答えた。「タイには長くいるからな。道は分かる」
「五人で動けば気づかれる」とヴィクトルが言った。「陳は監視を持っている。大人数が北に向かえば察知する」
「分けて動く」とジョンは言った。「陳が見ているのはジョン・ドゥだ。俺が動かなければ、他が動いても気づきにくい」
「つまり」とミュラーが言った。「お前は基地に残る」
「残る。その間にヴィクトルとヨナタンが北に入る。マルティネスはバンコクに留まって陳の動きを見る」
「お前が動かないのは囮か」とヴィクトルが聞いた。
「陳はジョン・ドゥを見ている。俺が基地にいれば、安心する。その隙に入る」
「だがお前が現場にいない」とヴィクトルは言った。声に批判はなかった。ただ確認していた。「ダリアがどこにいるか分かった時、お前は遠い」
「その時に動く」
「五時間かかる」
「四時間で行く」
ヴィクトルは少し間を置いた。「……白バイで行くのか」
「高速道路でサイレンを鳴らせば速い」
マルティネスが吹き出した。「お前、それタイの法律的に——」
「問題ない」
「問題あるだろ」
「局長が何とかする」
マルティネスはため息をついた。「まあ、局長は何とかするな」
「一つ聞く」とヨナタンが言った。「ダリアの状態を確認する手段があるか」
「電話があった番号に折り返せる」とミュラーが言った。「だが向こうが出るかどうか」
「出なくていい」とジョンは言った。「かければ陳が察知する。今は陳に俺たちの動きを読ませ続ける。返事もしない。電話もしない。何もしていないように見せる」
「ダリアが心配ではないのか」とヨナタンが言った。感情のない声だった。ただ聞いていた。
「心配だ」とジョンは言った。「だから早く終わらせる」
それ以上は言わなかった。
ミュラーが地図を片付けた。「ヴィクトル、ヨナタン、今夜出発できるか」
「できる」とヴィクトルが言った。
「装備は」
「最小限でいい。見つかりにくい格好で行く」
「マルティネスは陳の財団事務所の周辺を見ていてくれ。誰かが動けばすぐに報告する」
「了解だ」とマルティネスが言った。「ちなみに俺、スペイン語しか話せないけど、中国語を話す人間とどうやって情報収集すればいい」
「テキーラを使え」とヨナタンが言った。
「……ヨナタン、お前それ笑いを狙ったか」
「狙っていない。テキーラは有効だと言っている」
「初めてジョークっぽいこと言ったな」
「ジョークではない」
マルティネスは少し笑って立ち上がった。
隣の部屋でサラが資料を見ていた。
財団の資金の流れを追いながら、頭の一部はずっとダリアのことを考えていた。
電話でのダリアの声。かすれていた。でも意識はあった。「大丈夫。頭が少し痛いだけ」——あの言い方はダリアらしかった。痛くても大丈夫と言う。弱みを見せない。
サラは書類をめくった。
三週間と言っていた。でも三日で動かれた。計算が崩れたのはこちらではなく陳の方だった。ヨナタンがチェンマイまで行ったからだ。陳が焦った。
それはジョンが言った通りだった。「陳を焦らせれば手を打つ。手を打てば場所が分かる」。
ダリアが動かされた。つまり場所が分かりつつある。
サラは一枚の書類を引いた。チェンマイの別荘建物の登記情報だった。農業法人の名義になっていた。法人の代表者を調べると、陳の財団の関連人物が出てきた。
「ミュラー」と声をかけた。
ミュラーが来た。
「チェンマイの建物、やっぱり繋がってる。農業法人の代表者が財団の元理事だわ」
ミュラーは書類を見た。「証拠として使えるか」
「使えると思う。もう一本繋がれば完璧よ」
「それを探してくれ」とミュラーは言った。「ヨナタンたちが入る前に証拠が揃えば、陳は法的にも逃げられない」
「いつ入るの」
「今夜出発する。明日の夜明け前に現場に着く予定だ」
サラは頷いた。「分かったわ。もう一本探す」
ミュラーが出ていこうとした。
「ミュラー」
「何だ」
「ジョンは大丈夫かしら」
ミュラーは少し間を置いた。「何が心配だ」
「動けないことよ。あの人、じっとしているのが一番苦手だから」
「知っている」とミュラーは言った。「だが今夜は動かない。ちゃんと理解している」
「本当に?」
「基地の外に白バイが出ない限りは大丈夫だ」
「出たら」
「その時は誰も止められない」
ミュラーは出ていった。サラは資料に戻った。
夜の十一時、ヴィクトルとヨナタンが基地を出た。
車だった。目立たない色の、古い国産車だった。マルティネスが用意した。
ジョンは駐車場で二人を見送った。
ヴィクトルが窓を開けた。「動くな」
「動かない」
「本当に動かないか」
「……動かない」
ヴィクトルは少し間を置いた。「……信じる」
車が出ていった。
ジョンは駐車場に一人残った。
白バイを見た。シートが掛けてあった。エンジンキーはポケットの中にあった。
手が触れた。
そのまま、離した。
基地の中に戻った。
陳の携帯に報告が入ったのは深夜だった。
「ジョン・ドゥは基地にいます。動いていません」
「他のメンバーは」
「確認中です。二名が夜に外出した形跡があります。北方向と思われます」
陳は少し考えた。「二名か」
「ヴィクトル・ザハロフとヨナタン・レヴィと思われます」
「ジョンは動いていない」
「はい」
陳は窓の外を見た。バンコクの夜だった。
ジョンが動いていない。それは想定通りだった。ダリアを抑えている限り、あの男は動けない。
二名が北に動いた。それも想定の範囲だった。場所を探させている。見つからなければ問題ない。
「チェンマイの警備を強化しろ」と陳は言った。「増員しろ。二十名は入れろ」
「ダリア・コワレンコはどうしますか」
「そのままでいい。手を出すな。ただし、移動させる準備をしておけ。見つかりそうになればすぐに動かす」
「分かりました」
電話が切れた。
陳は椅子に深く座った。
ジョン・ドゥは動かない。計算通りだ。
一つだけ気になることがあった。ジョンが動かないのは分かった。ではなぜジョンは返事もしてこないのか。交渉を引き延ばしているのか。それとも別の何かを考えているのか。
陳は長く考えた。
答えは出なかった。




