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第51話 罠


 ヨナタンがチェンマイに入ったのは水曜日の朝だった。

 単独行動だった。マルティネスに「北に行く」とだけ送り、返信を待たずに出た。陳の別荘名義の建物を自分の目で確認したかった。地図と衛星写真だけでは分からないものがある。

 建物は山の中腹にあった。表向きは農業法人の管理施設だった。フェンスが高かった。監視カメラが四方についていた。人の出入りは少なかったが、出入りする人間の動きが農業とは違った。農民は体が前に傾く。荷物を運ぶ体の使い方がある。あそこにいる人間の動きは違った。

 ヨナタンは山の斜面から双眼鏡で六時間見た。確信を持って戻った。

 報告をサラに送った。「チェンマイの建物、確認した。中に人がいる。農業施設ではない。移送の中継地点だと思われる」

 サラからの返信が来るまで、いつもより時間がかかった。「分かったわ。ミュラーと協議する」

 陳の部下から報告が上がったのは、その翌朝だった。

 「チェンマイの施設を外部から監視した人間がいます。六時間、山の斜面に潜んでいました」

 陳はコーヒーを飲みながら聞いた。「特定できるか」

 「映像があります。ヨナタン・レヴィと思われます。ドキュメンタリーに出てくる人物です」

 陳はコーヒーカップを置いた。「チェンマイまで来た」

 「はい」

 「早かったな」

 「どうしますか」

 陳は少し考えた。三週間のつもりだった。だが相手が中継地点まで辿り着いたなら、もう時間がない。証拠が揃う前に動かれれば、全てが崩れる。

 「動く」と陳は言った。「今日だ」

 ダリアは水曜日の午後、支援センターからの帰り道を歩いていた。

 いつものルートだった。市場の横を抜けて、大通りに出て、バイクタクシーで基地まで戻る。三十分のコースだった。

 市場の中は賑やかだった。果物の匂い、香辛料の煙、怒鳴り合うような値段交渉の声。ダリアはそれが好きだった。バンコクの市場には生きている感じがあった。

 路地に入った時、前から男が二人来た。

 それだけだった。

 次に気づいた時、ダリアは車の中にいた。手首に何かが巻かれていた。目の前が暗かった。頭が重かった。

 サラのスマートフォンが鳴ったのは午後四時過ぎだった。

 基地の食堂にいた。ミュラーと資料を見ていた。

 画面を見た。知らない番号だった。出た。

 「サラ・コールマン」と声がした。男の声だった。落ち着いていた。日本語訛りのない英語だった。「ダリア・コワレンコを預かっている」

 サラは立ち上がった。ミュラーが顔を上げた。

 「誰だ」

 「名前は関係ない。話を聞いてほしい」

 「ダリアを出せ」

 「後で話せる。今は私の話を聞いてくれ」

 サラは歯を食いしばった。「何が望みなの」

 「単純だ。チェンマイの施設への関心をやめてほしい。港の調査もやめてほしい。財団への関心も。全部やめれば、ダリアは明日の朝に戻る」

 「証拠は」

 「ダリアが元気だという証拠か」

 電話の向こうで少し間があった。

 「ダリア」という声がした。

 「……サラ」とダリアの声がした。かすれていたが、意識はあった。「大丈夫。頭が少し痛いだけ」

 「怪我は」

 「ないわ。でも——」

 電話が戻った。「確認できたか」

 「できた」とサラは言った。「条件を繰り返せ」

 「捜査をやめろ。それだけだ。シンプルだろう」

 「考える時間をくれ」

 「二時間だ」と男は言った。「それ以上は待てない」

 電話が切れた。

 サラはスマートフォンを見た。ミュラーが立っていた。「聞こえていた」

 「どうするの」

 「ジョンに言う」とミュラーは言った。

 「でも——」

 「もう隠す段階ではない。ジョンに言う。私が言う」

 サラはミュラーを見た。ミュラーの顔が、いつもと少し違った。固かった。

 「ミュラー」

 「何だ」

 「ジョンに言ったら、どうなる」

 「動く」

 「陳の思う通りになる」

 「なるかもしれない」とミュラーは言った。「だが隠したまま動く方が、もっと危ない。ジョンが後で知った時、誰も止められなくなる。今告げれば、まだ方向を一緒に考えられる」

 サラは少し間を置いた。「……そうね」

 「行くぞ」

 ジョンは訓練場の隅で白バイの整備をしていた。

 ミュラーが来た。サラが後ろにいた。

 「ジョン」とミュラーが呼んだ。

 ジョンは顔を上げた。二人の顔を見た。

 何も言わなかった。

 でも手が止まった。

 「ダリアが拉致された」とミュラーは言った。「陳偉強という男の関係者によるものだ。今日の午後、市場の近くで」

 ジョンはミュラーを見た。それからサラを見た。

 「……いつから知っていた」

 サラが答えた。「陳の名前が出たのは三日前よ。ダリアが狙われる可能性はミュラーが指摘した。あなたに言えば動くと思って——」

 「どこにいる」

 サラが止まった。

 「ダリアが、どこにいる」

 「まだ分からないわ。電話があっただけで——」

 「電話の番号は」

 「追跡を——」

 「追跡している間に動かれる」

 ジョンは立ち上がった。工具を置いた。白バイを見た。

 「ジョン」とミュラーが言った。「一人で動くな。陳は用意周到な男だ。動きを読まれている」

 「……知ってる」

 「ならなぜ——」

 「動く準備をしているだけだ」とジョンは言った。「一人で行くとは言っていない」

 ミュラーは少し間を置いた。

 「条件は何だ」と聞いた。

 「捜査をやめろ。それだけだ」とサラが答えた。「二時間以内に返事をしろと言われた」

 「返事はするな」とジョンは言った。

 「しなければダリアが——」

 「返事をしない方が、陳は動けない。返事があれば、こちらの考えが分かる。ない方が読めない」

 ミュラーがジョンを見た。「それは正しい」

 「ヴィクトルはどこだ」

 「訓練場にいる」

 「呼べ。ヨナタンとマルティネスも」

 「サラは」と、サラが聞いた。

 ジョンはサラを見た。

 「お前は証拠を続けろ」

 「え?」

 「陳は取引を持ちかけてきた。つまり証拠が怖い。だから捜査をやめさせようとしている。やめなければ、陳は焦る。焦れば手を打つ。手を打てば、場所が分かる」

 サラは少し黙った。「……ダリアを餌にして、陳を炙り出す」

 「ダリアを餌にしているのは陳だ。こちらは陳の焦りを使う。違う」

 ミュラーが言った。「理にかなっている」

 「でも危険じゃないの、ダリアに」

 「一番危険なのは、陳に時間を与えることだ」とジョンは言った。「早く終わらせる」

 白バイに触れた。エンジンキーを確認した。

 「……ダリアに言っておくべきことがある」とサラが言った。

 ジョンは振り向いた。

 「助けに行くって、伝えたいの。方法があれば」

 「伝わる」とジョンは言った。

 「どうやって」

 「行けば伝わる」

 それだけ言って、全員を集める場所に向かった。


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