第50話 観察
陳偉強がダリア・コワレンコという名前を最初に知ったのは、三ヶ月前のことだった。
部下からの定期報告の中に、支援センターに継続的に通う外国人女性の情報があった。ウクライナ人。金髪。長身。流暢ではないがタイ語を話す。被害者の話を丁寧に聞く。信頼を得るのが早い。
名前で検索した。すぐに出た。
ドキュメンタリーに出てくる女だった。
陳は映像を確認した。メキシコの病院の廊下を走っていた。避難誘導をしていた。患者に手を差し伸べていた。戦闘員ではなかった。でも止まらなかった。
それからジョン・ドゥとの関係を調べた。映像を何度も止めながら見た。ジョンがダリアを盾にした場面。ダリアがジョンの処置をした場面。バンコクの朝、白バイで走るジョンをダリアが見送る場面。
陳は長い時間をかけて考えた。
この女が鍵だと判断したのは、一つの根拠からだった。ジョン・ドゥは自分が撃たれても止まらない。死ぬことを恐れていない。だが他人を盾にして動いた記録が一度もない。それがあの男の構造だった。守るために体が動く。守れなくなる状況を作れば——頭が止まる前に、体が固まる。
完璧な計算だった。
陳は部下に指示を出した。「ダリア・コワレンコを監視しろ。行動パターンを全部把握しろ。急がなくていい。丁寧にやれ」
一方でサラは、三週間という言葉と戦っていた。
毎朝証拠を積んだ。財団の資金の流れを追い、輸送記録を照合し、陳の周囲の人間関係を図にした。ヨナタンが港の監視を続けた。マルティネスが路地の情報屋から陳の評判を集めた。「いい人だよ」「寄付をたくさんする」「財団の奨学金で大学に行った子がいる」——そういう言葉ばかり出てきた。
ミュラーは毎晩資料を確認した。「着実だ」と言った。「三週間で行ける」
ナターシャが書類を整理した。ハーパーが各国の関連事例を調べた。
基地の中は静かに動いていた。
ダリアだけが、何も知らなかった。
ダリアは相変わらず支援センターに通っていた。
あのウクライナ人の女性——イリーナと言った——は別の場所に移っていた。サラが手配した安全な場所だった。ダリアはそこへ会いに行くこともあった。イリーナは少しずつ落ち着いてきていた。タイ語を少し覚えようとしていた。
センターで別の困窮者と話した。ロシア人の男性だった。ベトナム人の家族がいた。毎日誰かの話を聞いた。
ある日、センターからの帰り道にコンビニに寄った。レジの前で財布を探していると、隣に男が来た。中国系に見えた。感じのいい笑顔だった。
「大変そうですね」と流暢なタイ語で言った。
「ちょっと財布が」
「これでよければ」と男は小銭を差し出した。
「いいです、大丈夫です」とダリアは言って財布を見つけた。
男は笑って「失礼しました」と言い、出ていった。
ダリアはそれを特に気にしなかった。
その夜、男から報告が上がった。
「確認しました。行動パターンは把握しています。支援センターが月水金。帰り道が二ルートあります。基地への戻りは夕方が多い。一人で行動することがあります」
陳は報告を聞いた。「警備は」
「基地から出る時は一人のことが多いです。特に支援センターへは必ず一人で行きます」
「ジョンは」
「白バイで市内を回っています。センターとは別行動です」
陳は少し考えた。「まだ動くな」
「タイミングはいつですか」
「向こうの捜査が本格化した時だ。今はまだ探っている段階だ。本気で掘り始めれば、焦りが出る。焦れば確認が甘くなる。その時に動く」
「了解しました」
部下が出ていった後、陳は一人になった。
机の上にドキュメンタリーのスクリーンショットが並んでいた。ジョンの戦い方を分析したものだった。ムエタイ、シラット、540度回転蹴り。止まらない。撃たれても止まらない。怪我をしても止まらない。
だが人間には必ず止まる条件がある。
陳はそう信じていた。三十年この仕事をやってきて、例外を見たことがなかった。
ダリア・コワレンコが拘束された時、ジョン・ドゥは初めて止まる。それが陳の結論だった。
確信があった。
基地では、その夜も資料の照合が続いていた。
サラが一枚の書類を見つけた。財団の理事会の出席記録だった。三年前、陳が王室関連の慈善行事で撮影した写真の中に、見覚えのある顔があった。
タイの政財界の人間だった。
サラはその名前をミュラーに送った。深夜だったが、返信が来た。「知っている。厄介だ」
「どのくらい厄介なの?」
「陳を守る立場にある人間だ。直接叩けば政治問題になる」
「どうすれば」
「証拠が完璧でなければ動けない。完璧な証拠があれば、誰も守れない。それだけだ」
サラは画面を閉じた。
三週間という言葉が、また頭に戻ってきた。
ダリアはまだ知らない。ジョンも知らない。
それが正しい判断だと、今も思っていた。でも正しい判断が、いつまでも正しいとは限らない。
サラはもう一度資料を開いた。一日でも早く終わらせるために。




