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第49話 影


 港の監視を始めて四日目の夜、サラは資料の中に一つの名前を見つけた。

 陳偉強。タイ名はウィチャン・チェン。五十二歳。バンコク生まれの中国系二世。教育支援財団の理事長で、タイ国内の十数校に奨学金を出している。地元のコミュニティからの信頼は厚く、王室関連の慈善行事にも顔を出す。警察の記録には一切の問題がない。

 問題がない人間が、なぜここに出てくるのか。

 サラは資料を重ねた。港の倉庫の所有者をたどっていくと、三つのペーパーカンパニーを経由して、陳が理事を務める別の財団に行き着いた。財団の活動拠点はバンコク市内の文化交流センターで、中国語教室や書道教室を開いている。近隣の評判は良く、地域の子供たちが通う場所として知られていた。

 その建物の地下に、港のコンテナ輸送記録と一致する搬入記録があった。

 サラは三時間かけて確認した。間違いではなかった。

 「ヨナタン」と送った。深夜だったが、返信は三十秒で来た。「何だ」

 「倉庫の上に人がいる。財団の名前が出た。陳偉強という男だ」

 しばらく間があった。「知っているか」

 「調べ始めた。お前は」

 「知らない。だが調べる」

 「明日、ミュラーとハーパーにも入ってもらう。一人で抱えるな」

 「分かった」

 サラは資料を閉じた。窓の外にバンコクの夜があった。

 陳偉強。慈善家。理事長。タイ社会に根を張った人間。

 こういう男が一番厄介だと、CID時代に上司が言っていた。腐ったものは臭いで分かる。だが腐っていないふりが上手い人間は、臭いを出さない。気づいた時にはもう中まで食われている。

 翌朝、ミュラーが陳偉強のファイルを開いて最初に言ったのは「よく育てた組織だ」という言葉だった。

 食堂のテーブルに資料が広がっていた。ハーパーがデータを並べ、サラが追加の情報を書き込み、ミュラーが全体を見ていた。

 「財団が三つ。関連企業が七つ。全部合法だ」とミュラーは言った。「どれを叩いても、次が出てくる」

 「フロント企業の構造ね」とサラが言った。

 「そうだ。だが精度が高い。一つ一つが本当に機能している。奨学金は実際に支払われている。文化交流センターは本当に子供が通っている。慈善行事は本当に開かれている」

 「本物の善行で、本物の犯罪を隠す」

 「そういうことだ。尻尾がつかみにくい理由はそこだ。この男は悪事だけをやっているのではない。善事と悪事を混ぜている。だから全体が腐って見えない」

 ハーパーが地図を出した。「拠点が三ヶ所あります。バンコク市内の文化交流センター、港の倉庫、それからチェンマイ近郊に別荘名義の建物があります」

 「チェンマイか」とミュラーが言った。「国境が近い」

 「ミャンマーまで車で二時間です」

 ミュラーは地図を見た。三点を指でたどった。「バンコクで集めて、チェンマイを経由してミャンマーへ送る。港は輸送ルートの一つだ」

 「合ってると思うわ」とサラが言った。「港のコンテナと財団の搬入記録が一致した。品名は教材と食料品になっている」

 「教材」とハーパーが繰り返した。「文化交流センターの教材として輸送している、という名目ですか」

 「そう見える」

 「合法的な輸送ルートを使って人を動かしている」とミュラーが言った。「巧妙だ。非常に巧妙だ」

 「倒せるかしら」とサラが言った。

 ミュラーは少し間を置いた。「倒せる。ただし時間がかかる。証拠を積み上げるのに三週間は見た方がいい。急げば逃げられる」

 「三週間」

 「それだけの精度がある組織だ。一週間では崩れない」

 サラは頷いた。「分かったわ。ヨナタン、マルティネスと連携して動く。局長にも報告する」

 「待て」とミュラーが言った。

 サラが顔を上げた。

 「一つ確認したい。この男はドキュメンタリーを見ているか」

 「……見ていると思うわ。なぜ」

 「この男が頭脳で動く人間なら、私たちの動き方も研究している。誰が何をするか、誰が弱点になるか、全部計算している可能性がある」

 食堂が少し静かになった。

 「つまり」とサラが言った。「私たちが陳を調べている間、陳も私たちを調べているかもしれない」

 「可能性の話だ」とミュラーは言った。「だが可能性として持っておけ」

 ハーパーが口を開いた。「陳の動きを監視する必要がありますね。こちらが先か、向こうが先か」

 「向こうが先なら」とサラは言いかけて、止まった。

 止まってから、ある考えが頭に来た。

 支援センターで出会ったウクライナ人の女性。あの子がこのルートから来ていた可能性がある。ダリアがその子と話した。ダリアが情報をサラに持ってきた。それがこの捜査の入口だった。

 「ミュラー」

 「何だ」

 「この捜査、ダリアから始まっている」

 ミュラーはサラを見た。「知っている」

 「もし陳がこちらを研究しているなら、ダリアが入口だったことも知っている」

 ミュラーは少し間を置いた。「……そうなる」

 「ダリアが狙われる可能性がある」

 「ある」

 サラは立ち上がった。「ジョンに言うわ」

 「待て」とミュラーが言った。

 「なぜ」

 「ジョンに言えば、ジョンが動く。ジョンが動けば、陳に察知される。陳が察知すれば、証拠を隠す時間を与える」

 「でもダリアが——」

 「私が言いたいのは、急ぐなということだ。今すぐ言えとは言っていない」

 サラはミュラーを見た。ミュラーの顔は変わっていなかった。表情が読めなかった。でも言っていることは正しかった。

 「……いつ言えばいい」

 「監視体制が整ってからだ。ダリアを守る準備ができてから言え。今言えば、ジョンが一人で動く。それが一番危ない」

 サラは椅子に戻った。資料を見た。三週間という言葉が頭に残った。

 三週間、ダリアには言わない。ジョンにも言わない。

 そう決めた瞬間、サラは自分がどれだけ重いものを持ったか理解した。

 その日の午後、陳偉強はバンコク市内の財団事務所にいた。

 来客があった。若い部下だった。

 「報告があります」

 「聞こう」

 「支援センターに動きがあります。捜査官と思われる人間が接触した外国人女性に、別の外国人女性が継続的に関わっています」

 陳は書類から目を離さなかった。「名前は」

 「ダリア・コワレンコ。ウクライナ人です。ドキュメンタリーに出てくる人物です」

 「知っている」

 「どうしますか」

 陳はペンを置いた。椅子を引いて、窓の外を見た。バンコクの午後の光だった。

 「急がなくていい」と陳は言った。「まだ早い」

 「いつ動きますか」

 「向こうが本気で掘り始めた時だ。今はまだ表面を見ている段階だ」

 「どうやって分かりますか」

 「分かる」と陳は言った。「長くやっていると、相手の速度で分かる。急ぎ始めた時が、こちらが動く時だ」

 部下は頷いて出ていった。

 陳はまた窓の外を見た。

 ドキュメンタリーは三回見ていた。ジョン・ドゥという男の動き方を研究した。あの男の弱点は一つだった。体が動く前に頭が止まる状況を作ればいい。

 そのための駒は、もう決まっていた。


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