第47話 書類戦争
バンコク郊外に、土地があった。
かつて聖域と呼ばれた場所だった。犯罪組織の拠点だった。突撃隊が潰した後、所有者が消えて更地になっていた。局長はその土地を見て、三秒考えて、ハーパーに電話した。「買え」とだけ言った。
三週間後、建物が建ち始めた。
居住区、訓練場、車両保管庫、医療室、会議室、それから事務室。事務室だけ、局長が「広くしろ」と指示を出した。理由は一ヶ月後に判明した。
「王室騎士親衛隊」の設立が正式に認められた日、局長はジョンに一枚の書類を渡した。
「拠点の住所だ。今日から、お前たちはここで動く」
「突撃隊の施設を使えばいいんじゃないか」
「政治的に問題がある」
「どういう意味だ」
「議会から文句が来た。王室直属の部隊が対策局の施設を間借りするのは越権だ、と」
「……面倒だな」
「外交問題は後で何とかする。施設は今日から使える」
ジョンは書類を見た。バンコク郊外の住所が書いてあった。「金はどこから出る」
「心配するな」
「心配する」
「外交問題は——」
「後で何とかする、だろう」
「その通りだ」
局長はさっさと次の書類に移った。
翌日、全員で拠点に移った。
広かった。きれいだった。まだ新しい匂いがした。
ジョンが各部屋を確認している間に、ミュラーが事務室の机を並べていた。ナターシャがパソコンを設置していた。二人とも何も言わなかった。淡々とやっていた。
マルティネスが事務室を覗いた。「俺は何をすればいい」
ナターシャがマルティネスを見た。「書類を書いてください。入隊手続きです。七枚あります」
「七枚」
「七枚です」
マルティネスは椅子に座った。ペンを取った。最初の一枚を見た。「……タイ語か」
「タイ語です。王室騎士親衛隊はタイ王室の直属組織です。公用語はタイ語になります」
「俺、タイ語はそんなに——」
「ミュラーが翻訳した補助シートがあります」
マルティネスは補助シートを見た。「……ドイツ語訛りのタイ語だ」
「失礼な」とミュラーが言った。書類から目を離さなかった。「正確なタイ語だ。タイ人に確認を取った」
マルティネスは書き始めた。
問題は午後に始まった。
全員分の入隊書類を集めた時、ナターシャが各書類を並べた。
マルティネスの書類——スペイン語で書いてあった。補助シートを参照した形跡が全くなかった。
ナターシャはマルティネスを見た。「スペイン語ですね」
「読みやすいだろう」
「タイ語で書いてください」
「もう一回?」
「もう一回です」
ヨナタンの書類——ヘブライ語で書いてあった。整然としていた。丁寧な字だった。内容は完璧だと思われた。誰も読めなかった。
サラが書類を持ってヨナタンに行った。「これ、何語」
「ヘブライ語だ」
「英語で書いてと言ったはずよ」
「言っていない」
「言ったわよ」
「言っていない。ミュラーは英語で統一しろと言った覚えがないと言っていた」
サラはミュラーを見た。「ミュラー、英語で統一と言ったわよね」
ミュラーは少し間を置いた。「言っていない」
「……え?」
「公用語はタイ語だ。英語ではない」
サラは固まった。「……タイ語で書けということ?」
「その通りだ」
「私……タイ語は日常会話しかできないんだけど」
「補助シートがある」
「ドイツ語訛りのタイ語ね」
「正確なタイ語だ」とミュラーは繰り返した。「タイ人に確認を——」
「分かったわ、分かった」
サラは補助シートを持って自分の席に戻った。ヨナタンを連れて行った。
ヴィクトルの書類はまだ来ていなかった。ナターシャがヴィクトルを探した。訓練場の隅にいた。壁にもたれて目を閉じていた。
「ヴィクトルさん、書類が——」
「後でやる」
「締め切りが今日です」
「あと何時間ある」
ナターシャは時計を見た。「三時間です」
「十分だ」
「十分ではないと思いますが」
「三時間あれば十分だ」
ナターシャは事務室に戻った。
ジョンの書類はデスクの上に置いてあった。ナターシャが手に取った。
タイ語で書かれていた。きれいな字だった。
ただし様式が違った。
欄外に細かい注釈が書いてあった。書式が縦書きになっていた。捺印の位置が日本の公文書の様式になっていた。
ナターシャはミュラーに持っていった。「これ……」
ミュラーは書類を見た。しばらく見た。「内容は合っている」
「でも様式が」
「タイ語で書かれている。内容も正確だ」
「縦書きで」
「……縦書きで」
「捺印の位置が」
「……日本様式で」
ミュラーは少し考えた。「書き直してもらうか」
「書き直してもらいましょう」
「だが、内容が正確なのは認める」
「そうですね」
「……苦労した形跡がある」
ナターシャはジョンの書類を見た。確かに、タイ語できちんと書いてあった。補助シートを何度も参照した形跡があった。「苦労しましたね」
「苦労した。だが様式が違う」
「様式が違います」
二人は少し黙った。
「……どうしましょう」
「もう一回書いてもらう」
「ジョンに?」
「ジョンに」
「怒りますかね」
「怒らない。あの男は怒らない。ただ、また日本様式で出してくる可能性がある」
「どうすれば」
「サンプルを渡す。タイ様式の、記入済みのサンプルを」
「ありますか」
「マルティネスのスペイン語版がある。内容は合っていた。あれをタイ語に直してサンプルにする」
「……回り道ですね」
「書類仕事というのはそういうものだ」
ミュラーは言って、また自分の作業に戻った。
夕方、ヴィクトルが事務室に現れた。
締め切り三十分前だった。
書類を七枚、ナターシャに渡した。
ナターシャが確認した。タイ語だった。様式は正確だった。内容も問題なかった。
「……完璧ですね」
「やれば早い」
「最初からやっていただければ」
「締め切りに間に合った」
「間に合いました」
「問題ない」
ヴィクトルは事務室を出た。
ナターシャはミュラーを見た。ミュラーは何も言わなかった。書類を読んでいた。
「ミュラーさん」
「何だ」
「ヴィクトルさんの書類、完璧でした」
「知っている」
「なぜ知っているんですか」
「あの男は、やると決めたら完璧にやる。ただしギリギリまでやらない」
「……どうして分かるんですか」
「同じタイプだからだ」
ナターシャはミュラーを見た。ミュラーは書類を読んでいた。表情が変わっていなかった。
ダリアが事務室のドアから顔を出した。「何か手伝えることある?」
ナターシャとミュラーは顔を見合わせた。
「……ヨナタンさんのヘブライ語の書類を、タイ語に直してもらえますか」
「タイ語分かるの?」
「分かるんですか?」とナターシャが聞き返した。
「日常会話くらいなら」
「……お願いします」
「補助シートはある?」
「ドイツ語訛りのタイ語の補助シートがあります」
「……それしかないの?」
「それしかありません」
ダリアは少し間を置いた。「やるわ」と言って入ってきた。
夜、書類が全部揃った。
ナターシャは束を揃えながら言った。「全員分、揃いました」
「ご苦労だった」とミュラーが言った。
「マルティネスさんが三回書き直しました」
「知っている」
「ジョンが二回書き直しました。二回目はほぼ正確でした。捺印の位置だけ直しました」
「ご苦労だった」
「ヨナタンさんはダリアさんが直してくれました」
「よかった」
「サラさんは一回で正確でした」
「さすがだな」
「ヴィクトルさんは完璧でした」
「知っている」
「ヴィクトルさんとサラさんだけ一回で通りました」
「知っている」
ナターシャは束を見た。七人分の書類が揃っていた。一日かかった。「……これが毎回あるんですか」
「親衛隊が動くたびに報告書が必要になる。任務報告、経費精算、装備使用記録、負傷者記録」
「負傷者記録」
「ジョンが動くたびに必要になる。月に何枚書くかは分からないが、多いと思え」
ナターシャは少し黙った。「……前の組織でもそうでしたか」
「前の組織でもそうだった」とミュラーは言った。「ジョンに関係する書類は他の全員の合計より多くなる。統計を取ったことがある。経験則だ」
「……覚悟しておきます」
「それがいい」
事務室の電気が最後まで消えなかった。バンコクの夜が窓の外にあった。




