第46話 バンコクの1日
バンコクの朝は早い。
市場が動き始めていた。屋台の煙が上がっていた。バイクタクシーが走っていた。クラクションが鳴っていた。どこかで誰かが怒鳴っていた。子供が走っていた。犬が寝ていた。いつものバンコクだった。
そこにサイレンが聞こえた。
白いバイクだった。
パトライトが朝の光の中で光っていた。白いBDU、白いプレートキャリア、白いマフラー。
歩道を歩いていた老人が足を止めた。屋台のおじさんが振り向いた。バイクタクシーの運転手が目を丸くした。
「……あれ、タキモトじゃないか」
「タキモトが帰ってきた」
「白バイだ、白バイが戻ってきた」
声が広がっていった。
最初の事案は走り出して七分後だった。
交差点で車が止まっていた。ハザードが点滅していた。男が窓から顔を出して叫んでいた。スペイン語だった。
ジョンはバイクを寄せた。
「何だ」
「妻が、妻が産まれそうで——」
後部座席を見た。タイ人の女性が座っていた。顔が青かった。額に汗が光っていた。呼吸が速かった。
「何ヶ月だ」
「九ヶ月と三週——あと二週間あるはずだったんですが」
「赤ちゃんはそういうものだ」とジョンは言った。「後ろに乗れ」
「え?」
「奥さんをここに乗せろ。病院まで行く」
「でも三人は——」
「旦那は走って来い。病院の名前は」
「チュラロンコン病院です」
「近い。行くぞ」
女性を後ろに乗せた。細い腕が背中に回ってきた。しっかり掴んでいた。
「落とさない」
ジョンは言った。
サイレンを鳴らした。アクセルを回した。渋滞の間をすり抜けた。対向車線に出た。また戻った。路地を抜けた。信号を三つ無視した。
八分で病院の正面に着いた。
「着いた」
後ろの女性が降りた。ナースが走ってきた。車椅子が来た。
女性がジョンを振り返った。タイ語で何かを言った。ジョンには全部は分からなかった。でも最後の一言は分かった。
「ありがとう」
「ゆっくり産め」
ジョンはアクセルを回した。
次の事案は三十分後だった。
路地の入口で女性が叫んでいた。バイクが一台、猛スピードで逃げていくところだった。
ジョンはすれ違いざまに見た。バイクの男の手に、バッグがあった。女性のものだろう。
追った。
路地に入った。狭かった。屋台の隙間を縫った。洗濯物が干してある路地を通った。角を曲がった。
引ったくり犯のバイクが前にあった。
ジョンはアクセルを上げた。距離が縮まった。横に並んだ。
男がジョンを見た。白いBDUを見た。パトライトを見た。目が大きくなった。
「止まれ」
男は止まらなかった。逆に加速した。
ジョンは前に出た。男の前に割り込んだ。バイクを横に倒した。道を塞いだ。
男がブレーキをかけた。間に合わなかった。男のバイクがジョンのバイクに当たった。二台とも倒れた。
ジョンは立ち上がった。男も立ち上がろうとしていた。ジョンが先だった。男の首根っこを掴んだ。
「バッグ」
男はバッグを離した。
路地の入口まで男を引きずって戻った。女性がいた。近所の人間が集まっていた。
「これか」
女性が頷いた。泣いていた。
ジョンはバッグを渡した。男を地面に転がした。
「警察に連絡しろ」と周囲に言った。「俺は行く」
「ありがとう!」と誰かが叫んだ。
「ありがとうタキモト!」と別の誰かが叫んだ。
ジョンはバイクを起こした。エンジンをかけた。走り出した。
昼前に、強盗事案があった。
銃声が聞こえた。宝石店の前だった。男が三人、バイクに乗って逃げていくところだった。店主が玄関で倒れていた。撃たれていたが、肩だった。致命傷ではなかった。
ジョンは追った。
三台が一斉に散った。ジョンは先頭の一台に絞った。路地に入った。市場の横を抜けた。高架下に入った。出た。また路地に入った。
前のバイクが急ブレーキをかけた。行き止まりだった。
男が降りた。銃を向けた。
ジョンはバイクを止めなかった。
男が一発撃った。外れた。
ジョンはバイクから飛んだ。男に体当たりした。銃が飛んだ。男が壁に当たった。ジョンが腕を取った。関節を極めた。
「動くな」
男は動かなかった。
「仲間はどこへ行った」
男は答えなかった。
「答えなくていい。警察が来る」
サイレンが聞こえ始めていた。遠くから近づいていた。
ジョンは男を壁に押しつけたまま待った。
昼過ぎに、迷子がいた。
四歳か五歳だった。路地の角で泣いていた。周囲に大人がいたが、誰も親ではなかった。
ジョンはバイクを止めた。
しゃがんだ。目線を合わせた。
「名前は」
子供は泣いていた。
「家はどこだ」
泣いていた。
「お母さんの名前は」
泣いていた。
ジョンは少し考えた。ポケットに何か入っていないか探した。何も入っていなかった。
「……腹は減ってるか」
子供が泣くのを止めた。少しだけ。
「減ってるなら食べさせてやる。その後で家を探す」
子供がジョンを見た。泣いた目で見た。
「……うん」
ジョンは立ち上がった。近くの屋台からカオマンガイを買った。子供に渡した。子供が食べ始めた。
食べている間にジョンは周囲に聞いた。この子を知っているか。親を見たか。一人で歩いているのを見た人間はいるか。
三人目に聞いた屋台のおばさんが「ああ、あそこの子じゃないか」と言った。二本先の路地の、食料品店の子だという。
食べ終わった子供を連れて行った。
店主の女性が飛び出してきた。子供を抱きしめた。泣いていた。ジョンに向かって何かを言った。
ジョンは分からなかった。でも意味は分かった。
「気をつけろ」
それだけ言って、バイクに戻った。
夕方、市場に差し掛かった時だった。
「タキモト!」
声がした。女の声だった。
振り向く前に、誰かがジョンの腕を掴んだ。
市場の中のおばさんだった。顔に見覚えがあった。果物を売っている人だった。
「戻ってきたじゃないか! どこ行ってたんだ! 心配したんだぞ!」
タイ語だった。早かった。ジョンには半分しか分からなかった。
「少し遠くに行っていた」
「遠く? どこだ! 二年もいなかったじゃないか!」
「メキシコとか色々」
「メキシコ!?」
おばさんが叫んだ。市場の中に声が響いた。
それを聞いた別のおばさんが来た。「タキモトが帰ってきた!」と叫んだ。それを聞いたおじさんが来た。別のおばさんが来た。魚を売っていたおじさんが手を拭きながら来た。香辛料屋のおばあさんが来た。
五人になった。七人になった。十人になった。
ジョンはもみくちゃになっていた。
肩を叩かれた。背中を叩かれた。腕を掴まれた。頬に触られた。「痩せたじゃないか」と言われた。「顔色が悪い」と言われた。「怪我したのか」と言われた。「飯は食べてるか」と言われた。全部タイ語だった。早くて半分しか分からなかった。
「食べてる」
「嘘つけ」
おばさんが果物を押しつけてきた。別のおばさんがタイ料理の袋を押しつけてきた。おじさんが飲み物を押しつけてきた。
ジョンはバイクのシートに荷物が山になっていくのを見ていた。
「……多い」
「持って帰れ」
「全部は持てない」
「持って帰れ」
「……分かった」
おばあさんがジョンの手を両手で包んだ。タイ語で何かを言った。ゆっくりだった。
ジョンには全部分かった。
「お前は帰ってくるたびにボロボロだ。でも、毎回帰ってくる。それでいい」
ジョンは少し間を置いた。
「……ありがとう」
「次は二年も空けるなよ」
「善処する」
「善処じゃない、約束しろ」
「……善処する」
おばあさんは笑った。諦めた顔で笑った。ジョンの手を一度だけ強く握って、離した。
夜、施設に戻った時、バイクのシートに荷物が積まれていた。果物と、料理と、飲み物と、おばあさんがくれた何かよく分からない袋が一つ。
ダリアが待っていた。
「遅かったわね」
「色々あった」
「白バイで出ると色々あるのよ、バンコクは」
「知ってる」
「知ってて出たの?」
「……知っていた」
ダリアはシートの上の荷物を見た。「何これ」
「もらった」
「誰に」
「市場の人たちに」
ダリアは荷物を見た。それからジョンを見た。
「……人気者ね」
「そうでもない」
「そうでもあるわよ」
ジョンはバイクのエンジンを切った。ヘルメットを外した。白いマフラーが夜風に揺れた。
「明日も出るの?」
「出る」
「また色々あるわね」
「……そうだな」
「私も連れて行って」
ジョンは少し間を置いた。
「……後ろに乗るか」
「乗る」
「危ないぞ」
「知ってる」
「……分かった」
ダリアは笑った。バンコクの夜が、二人の後ろにあった。




