表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
50/73

第46話 バンコクの1日


 バンコクの朝は早い。

 市場が動き始めていた。屋台の煙が上がっていた。バイクタクシーが走っていた。クラクションが鳴っていた。どこかで誰かが怒鳴っていた。子供が走っていた。犬が寝ていた。いつものバンコクだった。

 そこにサイレンが聞こえた。

 白いバイクだった。

 パトライトが朝の光の中で光っていた。白いBDU、白いプレートキャリア、白いマフラー。

 歩道を歩いていた老人が足を止めた。屋台のおじさんが振り向いた。バイクタクシーの運転手が目を丸くした。

 「……あれ、タキモトじゃないか」

 「タキモトが帰ってきた」

 「白バイだ、白バイが戻ってきた」

 声が広がっていった。

 最初の事案は走り出して七分後だった。

 交差点で車が止まっていた。ハザードが点滅していた。男が窓から顔を出して叫んでいた。スペイン語だった。

 ジョンはバイクを寄せた。

 「何だ」

 「妻が、妻が産まれそうで——」

 後部座席を見た。タイ人の女性が座っていた。顔が青かった。額に汗が光っていた。呼吸が速かった。

 「何ヶ月だ」

 「九ヶ月と三週——あと二週間あるはずだったんですが」

 「赤ちゃんはそういうものだ」とジョンは言った。「後ろに乗れ」

 「え?」

 「奥さんをここに乗せろ。病院まで行く」

 「でも三人は——」

 「旦那は走って来い。病院の名前は」

 「チュラロンコン病院です」

 「近い。行くぞ」

 女性を後ろに乗せた。細い腕が背中に回ってきた。しっかり掴んでいた。

 「落とさない」

 ジョンは言った。

 サイレンを鳴らした。アクセルを回した。渋滞の間をすり抜けた。対向車線に出た。また戻った。路地を抜けた。信号を三つ無視した。

 八分で病院の正面に着いた。

 「着いた」

 後ろの女性が降りた。ナースが走ってきた。車椅子が来た。

 女性がジョンを振り返った。タイ語で何かを言った。ジョンには全部は分からなかった。でも最後の一言は分かった。

 「ありがとう」

 「ゆっくり産め」

 ジョンはアクセルを回した。

 次の事案は三十分後だった。

 路地の入口で女性が叫んでいた。バイクが一台、猛スピードで逃げていくところだった。

 ジョンはすれ違いざまに見た。バイクの男の手に、バッグがあった。女性のものだろう。

 追った。

 路地に入った。狭かった。屋台の隙間を縫った。洗濯物が干してある路地を通った。角を曲がった。

 引ったくり犯のバイクが前にあった。

 ジョンはアクセルを上げた。距離が縮まった。横に並んだ。

 男がジョンを見た。白いBDUを見た。パトライトを見た。目が大きくなった。

 「止まれ」

 男は止まらなかった。逆に加速した。

 ジョンは前に出た。男の前に割り込んだ。バイクを横に倒した。道を塞いだ。

 男がブレーキをかけた。間に合わなかった。男のバイクがジョンのバイクに当たった。二台とも倒れた。

 ジョンは立ち上がった。男も立ち上がろうとしていた。ジョンが先だった。男の首根っこを掴んだ。

 「バッグ」

 男はバッグを離した。

 路地の入口まで男を引きずって戻った。女性がいた。近所の人間が集まっていた。

 「これか」

 女性が頷いた。泣いていた。

 ジョンはバッグを渡した。男を地面に転がした。

 「警察に連絡しろ」と周囲に言った。「俺は行く」

 「ありがとう!」と誰かが叫んだ。

 「ありがとうタキモト!」と別の誰かが叫んだ。

 ジョンはバイクを起こした。エンジンをかけた。走り出した。

 昼前に、強盗事案があった。

 銃声が聞こえた。宝石店の前だった。男が三人、バイクに乗って逃げていくところだった。店主が玄関で倒れていた。撃たれていたが、肩だった。致命傷ではなかった。

 ジョンは追った。

 三台が一斉に散った。ジョンは先頭の一台に絞った。路地に入った。市場の横を抜けた。高架下に入った。出た。また路地に入った。

 前のバイクが急ブレーキをかけた。行き止まりだった。

 男が降りた。銃を向けた。

 ジョンはバイクを止めなかった。

 男が一発撃った。外れた。

 ジョンはバイクから飛んだ。男に体当たりした。銃が飛んだ。男が壁に当たった。ジョンが腕を取った。関節を極めた。

 「動くな」

 男は動かなかった。

 「仲間はどこへ行った」

 男は答えなかった。

 「答えなくていい。警察が来る」

 サイレンが聞こえ始めていた。遠くから近づいていた。

 ジョンは男を壁に押しつけたまま待った。

 昼過ぎに、迷子がいた。

 四歳か五歳だった。路地の角で泣いていた。周囲に大人がいたが、誰も親ではなかった。

 ジョンはバイクを止めた。

 しゃがんだ。目線を合わせた。

 「名前は」

 子供は泣いていた。

 「家はどこだ」

 泣いていた。

 「お母さんの名前は」

 泣いていた。

 ジョンは少し考えた。ポケットに何か入っていないか探した。何も入っていなかった。

 「……腹は減ってるか」

 子供が泣くのを止めた。少しだけ。

 「減ってるなら食べさせてやる。その後で家を探す」

 子供がジョンを見た。泣いた目で見た。

 「……うん」

 ジョンは立ち上がった。近くの屋台からカオマンガイを買った。子供に渡した。子供が食べ始めた。

 食べている間にジョンは周囲に聞いた。この子を知っているか。親を見たか。一人で歩いているのを見た人間はいるか。

 三人目に聞いた屋台のおばさんが「ああ、あそこの子じゃないか」と言った。二本先の路地の、食料品店の子だという。

 食べ終わった子供を連れて行った。

 店主の女性が飛び出してきた。子供を抱きしめた。泣いていた。ジョンに向かって何かを言った。

 ジョンは分からなかった。でも意味は分かった。

 「気をつけろ」

 それだけ言って、バイクに戻った。

 夕方、市場に差し掛かった時だった。

 「タキモト!」

 声がした。女の声だった。

 振り向く前に、誰かがジョンの腕を掴んだ。

 市場の中のおばさんだった。顔に見覚えがあった。果物を売っている人だった。

 「戻ってきたじゃないか! どこ行ってたんだ! 心配したんだぞ!」

 タイ語だった。早かった。ジョンには半分しか分からなかった。

 「少し遠くに行っていた」

 「遠く? どこだ! 二年もいなかったじゃないか!」

 「メキシコとか色々」

 「メキシコ!?」

 おばさんが叫んだ。市場の中に声が響いた。

 それを聞いた別のおばさんが来た。「タキモトが帰ってきた!」と叫んだ。それを聞いたおじさんが来た。別のおばさんが来た。魚を売っていたおじさんが手を拭きながら来た。香辛料屋のおばあさんが来た。

 五人になった。七人になった。十人になった。

 ジョンはもみくちゃになっていた。

 肩を叩かれた。背中を叩かれた。腕を掴まれた。頬に触られた。「痩せたじゃないか」と言われた。「顔色が悪い」と言われた。「怪我したのか」と言われた。「飯は食べてるか」と言われた。全部タイ語だった。早くて半分しか分からなかった。

 「食べてる」

 「嘘つけ」

 おばさんが果物を押しつけてきた。別のおばさんがタイ料理の袋を押しつけてきた。おじさんが飲み物を押しつけてきた。

 ジョンはバイクのシートに荷物が山になっていくのを見ていた。

 「……多い」

 「持って帰れ」

 「全部は持てない」

 「持って帰れ」

 「……分かった」

 おばあさんがジョンの手を両手で包んだ。タイ語で何かを言った。ゆっくりだった。

 ジョンには全部分かった。

 「お前は帰ってくるたびにボロボロだ。でも、毎回帰ってくる。それでいい」

 ジョンは少し間を置いた。

 「……ありがとう」

 「次は二年も空けるなよ」

 「善処する」

 「善処じゃない、約束しろ」

 「……善処する」

 おばあさんは笑った。諦めた顔で笑った。ジョンの手を一度だけ強く握って、離した。

 夜、施設に戻った時、バイクのシートに荷物が積まれていた。果物と、料理と、飲み物と、おばあさんがくれた何かよく分からない袋が一つ。

 ダリアが待っていた。

 「遅かったわね」

 「色々あった」

 「白バイで出ると色々あるのよ、バンコクは」

 「知ってる」

 「知ってて出たの?」

 「……知っていた」

 ダリアはシートの上の荷物を見た。「何これ」

 「もらった」

 「誰に」

 「市場の人たちに」

 ダリアは荷物を見た。それからジョンを見た。

 「……人気者ね」

 「そうでもない」

 「そうでもあるわよ」

 ジョンはバイクのエンジンを切った。ヘルメットを外した。白いマフラーが夜風に揺れた。

 「明日も出るの?」

 「出る」

 「また色々あるわね」

 「……そうだな」

 「私も連れて行って」

 ジョンは少し間を置いた。

 「……後ろに乗るか」

 「乗る」

 「危ないぞ」

 「知ってる」

 「……分かった」

 ダリアは笑った。バンコクの夜が、二人の後ろにあった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ