第45話 白バイ
ガレージの扉を開けた時、匂いがした。
オイルの匂いだった。金属の匂いだった。革の匂いだった。どこかに染みついた、古いバンコクの空気の匂いだった。ジョンは扉の前で少し立ち止まった。知っている匂いだった。体が知っていた。
薄暗いガレージの奥に、シートを被せられたバイクがあった。
白いシートだった。形で分かった。BMWだった。R1250 GS。前に乗っていたのと同じ車種だった。
ジョンはゆっくりと近づいた。シートに触れた。埃が積もっていなかった。誰かが定期的に手入れをしていた。
左側の壁にロッカーがあった。鍵がかかっていなかった。開けた。
白いBDUが掛かっていた。白いプレートキャリアが並んでいた。白バイ隊員用のロングブーツが床に置かれていた。ヘルメットがあった。ホルスターがあった。全部、揃っていた。全部、待っていたように揃っていた。
「久しぶりだろ」
声がした。
振り向いた。
ジョンソンがガレージの入口に立っていた。腕を組んでいた。いつも通りの顔だった。特別な顔をしていなかった。
「いつから準備していた」
「お前が帰ってきた日から」
ジョンは少し黙った。
「乗ってきたらどうだ」
ジョンソンが何かを投げた。
金属の音がした。
ジョンの右手が、それを受け取っていた。
鍵だった。
見ていなかった。考えていなかった。体が動いていた。手の中に、冷たい金属の重さがあった。
ジョンは鍵を見た。
ジョンソンを見た。
ジョンソンは何も言わなかった。腕を組んだまま、壁に背をもたせかけていた。
ジョンはロッカーを見た。
しばらく、そのまま立っていた。
それから、ブーツに手を伸ばした。
白いBDUを着た。
白いプレートキャリアを身につけた。
白バイ隊員用のロングブーツを履いた。
ホルスターをつけた。ベレッタM92FSを納めた。ロドリゲスからもらった銃だった。守るための銃だと、あの男は言っていた。
最後に、白いマフラーを巻いた。
鏡はなかった。確認しなかった。必要がなかった。
ヘルメットを手に持って、バイクに近づいた。シートの端を掴んだ。引いた。白いシートが滑り落ちた。
BMWが現れた。
白かった。傷一つなかった。エンジンがかかっていないのに、今にも動き出しそうだった。
ジョンはシートにまたがった。
革の感触があった。体がそれを知っていた。何年も乗っていた時の記憶が、体に残っていた。
鍵を差した。
回した。
パトライトが点灯した。赤と青の光がガレージの壁を走った。
サイレンが鳴った。
エンジンをかけた。
低い振動がシートから体に伝わってきた。BMWのエンジン音だった。どこかの記憶と、完全に同じ音だった。
ジョンはヘルメットを被った。
ジョンソンがガレージの扉を開けた。
バンコクの光が入ってきた。朝の光だった。
ジョンはアクセルを回した。
白バイが動き始めた。
ダリアはガレージの外に立っていた。
サイレンの音を聞いて来た。なんの音か分からなかった。足が動いていた。
ガレージの扉が開いて、パトライトの光が地面を走った。
白いバイクが出てきた。
白いBDUだった。白いプレートキャリアだった。ヘルメットの横から、白いマフラーが見えた。
ダリアは止まった。
知っていた。ドキュメンタリーで何百回も見ていた。でも、画面の中の話だった。映像の中の人間だった。
白バイがダリアの横を通り過ぎた。
風が来た。マフラーが揺れた。
バンコクの朝の光の中を、白いバイクが走っていった。パトライトが光りながら、サイレンが鳴りながら、遠ざかっていった。
ダリアは、その背中を見ていた。
目が熱くなった。こらえなかった。
涙が出た。
ドキュメンタリーで何百回見ても、これは見たことがなかった。バンコクの朝の道を、本物が走っていた。本物のサイレンだった。本物のパトライトだった。本物の白いマフラーが、風に揺れていた。
遂に、この目で見た。
ダリアは泣きながら、その背中が見えなくなるまで見ていた。




