第44話 答え
施設に来て三日目の夜、ヴィクトルは食堂に来た。
遅い時間だった。隊員たちは引き上げているはずだった。だが食堂の奥のテーブルに、三人がいた。書類が山積みになっていた。タブレットが二台開いていた。コーヒーのカップが人数分より多かった。途中で誰かが諦めて帰ったらしかった。
ハーパー、ルノー、ミュラーの三人だった。
ヴィクトルがカウンターでコーヒーを注いでいると、ハーパーが顔を上げた。「ヴィクトルさん」
「邪魔か」
「邪魔じゃないです。むしろ」とハーパーは隣の椅子を引いた。「助かります。人がいた方が眠気が飛ぶので」
ヴィクトルは座った。コーヒーを飲んだ。甘かった。砂糖を抜いてくれと言ったことがあったが、「甘くしないとタイコーヒーじゃない」と言われた。以来何も言っていない。
三人の書類を見た。数字と地名と人名が並んでいた。「何の仕事だ」
「今日の後処理です」とルノーがフランス訛りの英語で言った。疲れた顔だった。「負傷者の記録、装備の損耗報告、メキシコ政府への外交文書の草案——」
「分かった。大変だな」
「毎回こうです」とハーパーが言った。「隊員たちが派手にやると、こちらの仕事が増える。比例しています」
「ジョンのせいか」
三人が少し間を置いた。「主にそうです」とルノーが答えた。
ミュラーは書類から目を離さないまま言った。「統計を取ったことがある。ジョン関連の案件は、他の全員の合計より書類が多い」ドイツ訛りの重い声だった。「一人で組織の事務量を二倍にする男だ」
「それは凄いな」
「凄くない」とミュラーは言った。「だが結果は出ている。否定もできない」
しばらく書類の音だけが続いた。ヴィクトルはコーヒーを飲みながら三人を見ていた。
「お前たちは、元軍人だと聞いた」
「そうです」とハーパーが答えた。「私は米陸軍。ルノーはフランス外人部隊。ミュラーはドイツ連邦軍」
「階級は」
「私とルノーは大尉でした。ミュラーは大佐です」
ヴィクトルはミュラーを見た。ミュラーはまだ書類を見ていた。大佐。命令を出す側の人間だ。
「なぜ辞めた」
ハーパーが答えた。「私は退役後にPMCに入りました。だが金のために動くのが嫌になった。それだけです」
ルノーが続けた。「私はアフリカで傭兵をやっていました。ある日、自分が何のために銃を持っているか分からなくなった。辞めました」
ミュラーは書類を置いた。初めてヴィクトルを正面から見た。「私は、命令の結果を後で自分の目で見た。それだけだ」
「どんな結果だ」
「言う必要はない」とミュラーは言った。「お前にも似たような結果があるだろう。そういう顔をしている」
ヴィクトルは少し黙った。「ある」
「なら分かる」
「分かるか」
「分かる」とミュラーは言った。「命令を出す側は、現場が見えていない。地図の上で駒を動かしている。結果が数字になって上がってくる。その数字の向こうに何があるか、考えない訓練を受けている。私もそうだった」
「なぜ考えなかった」
「考えると命令が出せなくなるからだ。組織というのはそういうものだ。合理的に機能するために、感情を切り離す。私はそれが得意だった。だから大佐になった」
ヴィクトルはコーヒーを飲んだ。「お前の命令で、現場の人間が動いた」
「そうだ」
「その現場の人間が、お前の知らないところで何かをした」
「そうだ」
「それがお前の結果か」
ミュラーは少し間を置いた。「そうだ」
食堂が静かになった。バンコクの夜が窓の外にあった。
ルノーが口を開いた。「私たちは三人とも、別々の理由で辞めた。だが今、同じ場所にいる」
「なぜここに来た」とヴィクトルが聞いた。
「仲間に引き抜かれたからです」とハーパーが言った。「ジョンソンが私を探してきた。ルノーはマリーに声をかけられた」
「ミュラーは」
「ルノーとマリーが二人でベルリンまで来た」とミュラーが言った。「事務所のドアをノックして、『タイに来い』と言った。断る理由がなかった」
「なぜ断らなかった」
「ドイツで軍事コンサルタントをしていた。書類仕事だった。面白くなかった」とミュラーは言った。「それだけだ」
「正義のためではないのか」
「正義のためでもある」とルノーが言った。「だが最初の理由は、仲間に頼まれたからだ。それで十分だった」
ヴィクトルはルノーを見た。「壊れた、というのは」
「限界を超えた、ということです。組織の論理に限界を感じて、辞めることを選んだ。そういう人間は、もう同じことでは壊れない。別の理由で動ける」
「目の前にいる人間のためにか」
「局長の言葉です」とハーパーが言った。「よく知っていますね」
「ジョンから聞いた」
ミュラーが言った。「ヴィクトル。お前は現場で命令を受けた側だった。私は命令を出した側だった。立場は逆だ。だが辿り着いた場所は同じだ。なぜだと思う」
ヴィクトルは少し考えた。「結果を見たからだ。立場は関係ない」
「そうだ」とミュラーは言った。「命令を出した人間も、受けた人間も、結果の前では同じだ。私がそれを理解するのに、大佐になるまでかかった。時間がかかりすぎた」
「俺も時間がかかった」
「人間というのはそういうものだ」とミュラーは言って、書類を再び手に取った。「だから書類が増える。お互い様だ」
ヴィクトルはコーヒーを飲み干した。三人を見た。元大尉が二人、元大佐が一人。夜中に書類と格闘していた。疲れていた。止まっていなかった。
「お前たちも、感染したのか」
「感染?」とハーパーが聞いた。
「止まれない病気だ」
三人は顔を見合わせた。ルノーが少し笑った。「もしかしたらそうかもしれません」
「自覚はなかった」とハーパーが言った。
「私は局長から感染したと思っていた」とミュラーが言った。「根は同じかもしれないが」
ヴィクトルは立ち上がった。「仕事の邪魔をした」
「邪魔じゃなかったです」とハーパーが言った。「おかげで眠気が飛びました」
ヴィクトルは食堂を出た。廊下に出ると、施設の夜の空気があった。
命令を出した人間も、受けた人間も、拒否した人間も、同じ場所にいる。書類を書いている。コーヒーを飲んでいる。止まっていない。
悪くない答えだと、ヴィクトルは思った。
翌日の午前、訓練場の隅にニコライがいた。
一人でシャドーボクシングをしていた。見えない蹴りが空気を切っていた。足の怪我は完全に治っていた。
ヴィクトルは訓練場の入口から、しばらくそれを見ていた。
ニコライが止まった。振り向かずに言った。「来ていたんですか」
ロシア語だった。
「来ていた」とヴィクトルはロシア語で答えた。
ニコライが振り向いた。表情がなかった。それがニコライの顔だった。昔から変わっていなかった。
「来ましたね」
「来た」
「タイにいると聞きました」
「そうだ」
「ジョンと一緒に、とも」
「そうだ」
また沈黙があった。訓練場には他に誰もいなかった。バンコクの朝の陽射しが斜めに入っていた。
ニコライが言った。「拘置室で、あなたは話せないと言いました」
「言った」
「今も話せませんか」
ヴィクトルは少し間を置いた。「今は話せる」
「何が変わりましたか」
「時間が経った。それだけだ」
ニコライはヴィクトルを見た。拘置室で向き合った時と同じ顔だった。傷が増えていた。それでも体の芯は変わっていなかった。
「一つ聞いていいですか」
「聞け」
「2014年のことです」
ヴィクトルは答えなかった。
「あなたは命令に従いました。私は拒否しました。どちらが正しかったか、ずっと分からなかった」とニコライは言った。声に感情がなかった。ただ事実を確認するような声だった。「今でも分かりません」
「俺もだ」
「あなたも分からないんですか」
「分からない。お前が正しかったかもしれない。俺が正しかったかもしれない。どちらも正しくなかったかもしれない」
「……」
「答えが欲しいなら」
ヴィクトルは訓練場の中央に歩いた。立ち止まった。振り向いた。「かかってこい」
ニコライは少し間を置いた。「……それが答えですか」
「言葉の答えは持っていない。体の答えなら出せる」
ニコライはヴィクトルを見た。拘置室以来、ずっと持ち続けていた問いを、今ここで出した。
ニコライは構えた。ヴィクトルも構えた。
最初に動いたのはニコライだった。
見えない蹴りだった。軸足を一切動かさず、蹴り足だけが空気を切った。ヴィクトルが体を引いた。当たらなかった。すぐに二発目が来た。今度は引けなかった。腕で受けた。重かった。七年でニコライは強くなっていた。
ヴィクトルは下がらなかった。前に出た。体重を使った。ニコライの間合いを潰した。組み技が入ろうとした。ニコライが低く動いて逃げた。また距離を作った。蹴りが来た。また来た。また来た。ヴィクトルは受け続けた。前に出続けた。下がらなかった。
やがてニコライが止まった。息が上がっていた。ヴィクトルも止まった。どちらも限界ではなかった。でも止まった。
「……降参しないんですか」とニコライが言った。
「お前こそ」
「私は降参しません」
「俺もだ」
二人は向き合ったまま、しばらく息を整えた。
ニコライが言った。「答えは出ましたか」
「出た」
「何ですか」
「お前は強くなった。俺より速い。だが、俺は倒れなかった。お前が拒否した。俺が従った。どちらも、今ここにいる。それが答えだ」
ニコライは少し黙った。「……納得できない答えですね」
「俺もそう思う」
「なぜそれが答えなんですか」
「答えが欲しかったから来た。来たら、お前がいた。戦った。どちらも立っている。それ以上の答えは、俺には出せない」
ニコライは訓練場の床を見た。それから空を見た。「……あなたは変わりましたか」
「変わった」
「何が変わりましたか」
「国のために動くのをやめた。それだけだ」
「単純じゃなかったはずですが」
「単純じゃなかった。だが、時間が経つと単純に見える。そういうものだ」
ニコライはヴィクトルを見た。「また来ますか。タイに」
「分からない」
「ジョンと一緒に動いているんでしょう」
「そうだ」
「ならまた来る」とニコライは言った。「あの人は必ずまた戻ってくる。いつもそうだ」
ヴィクトルは少し笑った。「知っている」
その夜、局長室にハーパーが来た。
「訓練場でニコライとヴィクトルが戦っていたそうです」
「怪我は」
「両名とも問題ありません」
局長は書類を見ながら言った。「決着はついたか」
「どちらも倒れなかったそうです」
「引き分けではない。二人とも立っていた。それが答えだ」
ハーパーは少し考えた。「局長には分かるんですか」
「分かる。俺も似たような答えを出したことがある」
「いつですか」
「昔だ」と局長は言った。「書類を続けろ。三十五件残っている」
「三十四件です。さっき一件片付きました」
「では三十四件だ」
ハーパーは頷いて書類に戻った。局長は窓の外を見た。バンコクの夜だった。どこかでヴィクトルがまた甘いコーヒーを飲んでいる気がした。




