第43話 バンコクの初めて
朝六時に、ヴァン・ダムが来た。
ダリアがまだ寝ていた。ドアをノックした。返事がなかった。もう一回ノックした。「開いてる」という声がした。入った。ダリアがベッドの上でシーツを被っていた。
「起きろ」
「今何時ですか」
「六時だ」
「早すぎます」
「柔軟は体が温まる前にやれ。基本だ」
「それ本当ですか」
「本当だ」
ダリアはシーツを被ったまま少し黙った。「……五分だけ待ってください」
「一分だ」
「三分」
「一分だ」
ダリアは起き上がった。目が開いていなかった。ヴァン・ダムはそれを見て満足そうに頷いた。「いい判断だ」
毎朝これが続いていた。
訓練は施設の中庭で行われた。
突撃隊の施設だった。
ダリアは最初にここに来た時、少し足が止まった。見覚えがあった。画面の中で何百回も見た場所だった。あの柱、あのフェンス、あの木。全部知っていた。知っているはずなのに、実際に立つと全然違った。画面より広かった。暑かった。地面がリアルだった。
ヴァン・ダムが横から言った。「何をしている」
「……見ていました」
「見るのは後でいい。まず柔軟だ」
ダリアは地面に座った。開脚を始めた。筋肉が悲鳴を上げた。
「もっと開け」
「これ以上は無理です」
「無理ではない。痛いだけだ」
「痛いのが無理です」
「慣れる」
「慣れますか」
「慣れる。俺が保証する」
ダリアはヴァン・ダムを見た。六十代のはずだった。体幹が鉄のようだった。「……あなた毎日これをやっているんですか」
「四十年間やっている」
「四十年」
「それが今の体だ」
ダリアは前に倒れながら言った。「……私もそうなりますか」
「お前次第だ」
「励ましてください」
「励ましは必要ない。やれば分かる」
ヴァン・ダムは容赦がなかった。毎朝六時に来た。一時間柔軟をさせた。一時間蹴りの基礎をやらせた。「高さが足りない」「軸がぶれている」「また同じミスだ」。褒めなかった。ただ、一度だけ「悪くない」と言った。その日の夜、ダリアはサラに電話してそれを報告した。サラが笑った。「それがヴァン・ダムの最大の褒め言葉よ」とサラは言った。ダリアはしばらく考えて「ジョンに言いたい」と思った。でも言わなかった。
食堂で、ナリンと同じテーブルになった。
偶然だった。他の席が埋まっていた。仕方なく向かいに座った。
ナリンはタイ人だった。小柄で、黒髪で、静かな目をしていた。
「はじめまして」とナリンは言った。英語だった。丁寧だった。「ダリアさん、ですよね」
「そうです」
「ナリンです。よろしくお願いします」
「……よろしく」
ナリンは微笑んだ。静かな笑いだった。感情が抑えられた笑い方だった。何かを背負っている人間の顔だと、ダリアには分かった。でも今は関係なかった。
「ジョンさんと、ずっと一緒にいたんですね」とナリンが言った。
「……一緒にいました」
「大変でしたか」
「大変でした」
「でも、ジョンさんが生きて帰ってきた」
「……生きて帰ってきました」
ナリンはまた微笑んだ。「よかった」と言った。声に、何かが混じっていた。安堵か、それとも別の何かか。「本当に、よかった」
ダリアはナリンを見た。
よかった、という言葉が引っかかった。
その言い方が引っかかった。
食事が終わった後、サラを捕まえた。「ナリンって誰ですか」と聞いた。
サラは少し間を置いた。「……ジョンの元恋人よ」
ダリアは固まった。
「昔の話よ」とサラは続けた。「色々あって。複雑な事情がある」
「複雑な事情」
「ええ。でも今は——」
「いいです」とダリアは言った。「分かりました」
「ダリア——」
「分かったと言いました」
その夜、ダリアは訓練場の隅でひとり540度回転蹴りの練習をした。一人でやった。誰も呼ばなかった。百回やった。足が痛かった。それでも続けた。
ドキュメンタリーで見た場所が、毎日少しずつリアルになっていった。
廊下。食堂。訓練場。局長室の前。あの窓。あのベンチ。全部知っていた。全部が、画面の外だった。
ジョンが回復してくると、あの廊下を歩くようになった。ゆっくりだった。肋骨がまだ痛んでいるから仕方なかった。
ダリアはその後ろを歩いた。
廊下の角を曲がった時、ジョンが立ち止まった。窓の外を見ていた。バンコクの景色だった。
ダリアはその隣に立った。
「ここ、知ってます」とダリアは言った。
「……知ってる?」
「第二話の三十四分くらい。あなたがここに立って外を見ていた。私、同じ場所に立ってみたかった」
ジョンはダリアを見た。それから窓の外を見た。
「……何が見えた」
「あなたが見ていたものと同じものが見えました」
「……何だ」
「バンコクです」とダリアは言った。「ただのバンコクです。でも、あなたが見ていたバンコクと同じ場所で、私も同じものを見ています」
ジョンは少し間を置いた。「……それで、どうだった」
「違いました」
「……違った?」
「画面で見るより、暑かった」
ジョンは何も言わなかった。でも少し笑った気がした。気がしただけかもしれなかった。
ある昼、食堂でファリダーが隣に座ってきた。
タイ人だった。落ち着いた雰囲気の女性だった。コンバットシャツにタイシルクのスカーフを巻いていた。
「ダリアさんですね」
「そうです」
「ファリダーです。よろしくお願いします」
また元気そうな女だ、とダリアは思った。それからすぐに考えた。この人もジョンと知り合いだろうか。長い付き合いだろうか。特別な何かがあるだろうか。
「ジョンさんとは、長いお付き合いですか」とダリアは聞いた。
「ええ、長いですよ」とファリダーは答えた。
そうか、とダリアは思った。長いのか。
「どんな関係ですか」
「同僚です」とファリダーは言った。「ずっと一緒に戦ってきた仲間です。それだけですよ」
「……それだけ」
「それだけです。あの人、こっちが何かしようとしても全然気づかないんですよね」とファリダーは笑いながら言った。「鈍いというか、そういうことに全然興味がないというか」
ダリアは少し間を置いた。「……知ってます」
「でしょう」
「よく知ってます」
ファリダーはダリアを見た。少し笑った。「ダリアさんには気づいたみたいですけど」
ダリアは答えなかった。
顔が少し赤くなった。
夕方、ヴァン・ダムが来た。
「今日の訓練だ」
「夕方もやるんですか」
「やる」
「朝もやりました」
「だから夕方もやる」
ダリアは立ち上がった。訓練場に向かった。ヴァン・ダムがついてきた。
柔軟を三十分やった。蹴りの練習を三十分やった。「高さが出てきた」とヴァン・ダムが言った。ダリアは止まった。
「……今、褒めましたか」
「事実を言った」
「褒めましたよね」
「高さが出てきたと言った。褒めていない」
「でも——」
「もう一回やれ」
ダリアはため息をついてもう一回やった。
五十回目をやった時、ヴァン・ダムが言った。「悪くない」
ダリアは止まった。「……今確かに言いましたよね」
「聞こえたなら聞こえた通りだ」
「もう一回言ってください」
「言わない。五十一回目をやれ」
ダリアは五十一回目をやった。
やりながら思った。
ここはドキュメンタリーで見たバンコクではなかった。画面の中の場所でもなかった。あの人が生きてきた場所だった。それが今、自分の場所になりつつあった。
暑かった。足が痛かった。ナリンのことがまだ引っかかっていた。
それでも、悪くなかった。




