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第42話 帰還


 スワンナプーム国際空港に着いたのは、夜だった。

 バンコクの夜だった。熱気があった。湿気があった。タイの匂いがした。タラップを降りる時、マルティネスが深く息を吸って言った。「帰ってきた」。誰も何も言わなかったが、全員が同じことを思っていた。

 担架が降ろされた。車椅子が出た。医療スタッフが待機していた。空港の関係者が動線を確保していた。報道陣の姿もあった。遠くから望遠レンズが向いていた。

 ダリアのスマートフォンが鳴った。

 画面を見た。ゼレンスキーと表示されていた。

 ダリアは画面を伏せた。

 「出ないの?」とサラが聞いた。

 「出ない」

 「なんで」

 「映像に使われる」とダリアは言った。「今ここで出たら、ウクライナのニュースが流れる。『ゼレンスキー大統領、メキシコから帰国したウクライナ人女性に直接連絡』。それだけでプロパガンダになる。私はそのためにメキシコにいたわけじゃない」

 サラは少し間を置いた。「……賢いわね」

 「賢くない。ただ、利用されたくないだけ」

 電話が切れた。三十秒後にまたかかってきた。ダリアは伏せたままにした。サラは何も言わなかった。

 「何回目だ」とヨナタンが担架の上から聞いた。

 「数えてない」とダリアは答えた。

 「数えた方がいい」

 「なんで」

 「記録になる」

 マルティネスが言った。「ゼレンスキーに何回無視されたかを記録するのか」

 「無視じゃない」とダリアは言った。「今は忙しいだけ」

 「忙しいのは分かるけど」

 「分かってる」

 電話がまた切れた。

 入国審査を抜けて到着ロビーに出た瞬間、前から人が来た。

 大柄だった。

 白髪で、日焼けしていて、信じられないくらい元気そうだった。六十代のはずだが、体の動きが三十代だった。笑顔だった。

 ジョンは担架の上からその男を見た。

 止まった。

 「……師匠」

 男はジョンを見た。それから担架全体を見た。それからダリアを見た。

 ジャン・クロード・ヴァン・ダムは、ダリアに向かって歩いた。

 「お前がダリアか」とフランス語訛りの英語で言った。「映像を見た。540度回転蹴り、スカートでやったのは感心しない。だが、センスはある」

 ダリアは固まっていた。「……あなたは」

 「ヴァン・ダムだ」

 「知ってます」

 「開脚が足りない。毎日百回やれ。話はそれからだ」

 ダリアはヴァン・ダムを見た。それからジョンを見た。それからヴァン・ダムを見た。「……私のために来たんですか」

 「そうだ」

 「ジョンのためじゃなくて」

 「あいつは教えた。お前はまだだ」

 ジョンが担架の上から言った。「……師匠」

 ヴァン・ダムがジョンを見た。「生きていたか」

 「……生きてる」

 「どんな状態だ」

 「……肋骨が数本。顎の強打。その他諸々」

 「また無茶をした」

 「……した」

 「反省しているか」

 「……してない」

 ヴァン・ダムは笑った。「正直でよろしい」それからダリアに向き直った。「まず柔軟から始める。蹴り足の高さが全然足りない。あの映像では腰の高さだった。胸の高さまで上げろ。そうすれば窓を破る前に顔面に入る」

 「窓を破る必要はもうないと思いますが」

 「次があるかもしれない」

 「次は——」

 「ある」

 ダリアは少し間を置いた。「……否定できない」

 「だろう」とヴァン・ダムは言った。「それがこの男の隣にいるということだ」

 ジョンは天井を見た。何も言わなかった。

 到着ロビーの奥から、人が来た。

 ジョンソンが来た。大きな体が人をかき分けて来た。担架を見下ろした。「生きてるか」

 「……生きてる」

 「また重傷か」

 「……また」

 「何回目だ」

 「……数えてない」

 ジョンソンは少し笑った。肩をすくめた。「相変わらずだ」

 ニコライが来た。無表情だった。ヨナタンの担架を見た。「肩か」

 「貫通した」とヨナタンが言った。

 「動くか」

 「動く」

 「なら問題ない」

 陳志明が来た。マルティネスを見た。「脇腹か」

 「刺された」

 「深さは」

 「内臓は無事だ」

 「なら問題ない」

 「問題あるだろ」

 「生きてる。問題ない」

 マルティネスは笑った。「お前ら相変わらずだな」

 ハーパーが来た。局長に書類を差し出した。「お帰りなさい、局長。至急確認が必要な案件が三十七件あります」

 「後でいい」

 「うち十二件は今日中に——」

 「後でいい」

 「承知しました」ハーパーは一拍置いた。「お帰りなさい」

 「ああ」と局長は言った。「帰ってきた」

 サラが周囲を見渡した。懐かしい顔が並んでいた。メキシコとは違う空気だった。追い出された場所ではなく、戻ってきた場所の空気だった。

 「ただいま」と小さく言った。

 誰かが「おかえり」と言った。誰が言ったか分からなかった。でも確かに聞こえた。

 ダリアはロビーを見ていた。

 見知らぬ顔と、見知った顔が混ざっていた。タイ語が飛び交っていた。英語が混じっていた。担架と車椅子と点滴スタンドが並んでいた。ヴァン・ダムが何かを言っていた。マルティネスが笑っていた。局長が書類を断っていた。ジョンソンがジョンの担架を一方的に押し始めていた。ジョンが「押すな」と言っていた。ジョンソンが「重傷者が自分で動くな」と言い返していた。

 バンコクだった。

 ダリアはスマートフォンを取り出した。

 着信履歴にゼレンスキーの名前が並んでいた。十四回だった。

 ダリアは着信履歴を閉じた。メッセージアプリを開いた。短く打った。

 「今は忙しい。後で連絡する」

 送信した。

 スマートフォンをポケットに入れた。

 「ダリア」とサラが呼んだ。「こっちに来て。紹介したい人たちがいる」

 「今行くわ」

 ダリアはロビーを歩いた。喧騒の中に入っていった。

 スマートフォンがまた鳴った。ゼレンスキーからではなかった。知らない番号だった。ウクライナの市外局番だった。

 ダリアは少し考えて、出なかった。

 後でいい。今はここにいる。


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