第41話 退場
役人が来たのは朝の八時だった。
スーツを着ていた。三人組だった。顔に疲労と困惑が混ざっていた。昨夜から眠っていないのが分かった。最大のカルテルが一夜で壊滅した。病院が戦場になった。三階の窓から人間が落ちた。メキシコ政府の広報室はまだ声明を出せていなかった。担当者が何を言えばいいか分からなかったからだ。
リーダー格の役人がサラに書類を差し出した。スペイン語だった。マルティネスが受け取って読んだ。
「即日出国命令です」とマルティネスが言った。「四十八時間の猶予もなし」
「患者がいる」とサラが言った。「動かせない人間が五人いる」
「医療搬送の手配は政府が行います」と役人が言った。マルティネスが訳した。「費用も政府負担です。ただし、今日中にメキシコを出てください」
「理由は」
マルティネスが聞いた。役人は少し間を置いてから答えた。
「これ以上、外国の部隊がメキシコ国内で活動することは認められません」
「外交問題か」
「……そういうことです」
局長が病室の入口に立っていた。包帯が頭に巻かれていた。肋骨が折れていても、立っていた。役人を見て言った。「分かった。手配を頼む」
役人は少し安堵した顔になった。押し問答になると思っていたらしかった。「ご協力に感謝します」
「感謝はいらない」と局長は言った。「ただ一つだけ聞いていいか」
「何でしょう」
「この判断を、あなた方は正しいと思っているか」
役人は答えなかった。
局長は追及しなかった。「外交問題は後で何とかする」とだけ言って、病室に戻った。
搬送の準備に二時間かかった。
担架が六台並んだ。車椅子が一台。ダリアだけが自力で歩けた。サラが車椅子を押した。ジョン、ヴィクトル、局長、マルティネス、ヨナタンが担架に乗せられた。点滴のスタンドが担架ごとに一本ずつついていた。廊下に並べると壮観だった。壮観というより、悲惨だった。
病院のスタッフが廊下に出てきていた。看護師たちだった。昨夜、サラの指示で動いた人たちだった。誰も何も言わなかった。ただ立っていた。
サラが一人一人に頭を下げた。マルティネスがスペイン語で何か言った。短かった。看護師の一人が泣いていた。
担架が動き始めた。
病院の外に出た瞬間、音が来た。
声だった。
人の声だった。
病院の周囲に、人が集まっていた。何百人いるか分からなかった。道路の両側が人で埋まっていた。警察が規制線を張っていた。それでも人が増え続けていた。押し寄せていた。規制線が揺れていた。
誰が集まったのか分からなかった。ニュースを見た人間か、SNSで知った人間か、口コミで来た人間か、全部だったかもしれなかった。グアダラハラの朝の路上に、人が溢れていた。
救急車が六台、列をなして停まっていた。
最初の担架が外に出た瞬間に、歓声が上がった。
それは歓声というより、もっと混じりけのない何かだった。拍手だった。叫び声だった。スペイン語が聞こえた。泣いている声が混じっていた。子供の声が聞こえた。
マルティネスが担架の上から人群れを見た。目を細めた。スペイン語で何かを聞こえないくらいの声で呟いた。
「何て言ってる」とヨナタンが隣の担架から聞いた。
「ありがとう、って言ってる」とマルティネスは言った。「みんなそれだけ言ってる」
警察が規制線を必死に押し返していた。人波が動くたびに線が揺れた。まるで暴動の手前のような熱量だった。でも誰も暴れていなかった。ただそこにいたかった人間たちだった。
ダリアが歩きながら群衆を見た。
見知らぬ顔ばかりだった。でも全員こちらを見ていた。スペイン語が分からなかった。それでも何を言っているか分かった。
目が熱くなった。こらえた。こらえきれなかった。
サラが隣を歩きながら言った。「泣いていいわよ」
「泣いてない」
「泣いてるわよ」
「泣いてない」
「……そうね」
ジョンの担架が外に出た。
歓声が一段上がった。
ジョンは担架の上から空を見ていた。グアダラハラの青い空だった。人の声が聞こえていた。拍手が聞こえていた。自分に向けられているのか、全員に向けられているのか、分からなかった。
白いマフラーが、朝の風に揺れた。
何も言わなかった。
言葉が、なかった。
救急車が走り始めた。列をなして走った。
規制線の向こうの人たちが、走る救急車に向かって手を振っていた。スペイン語の声が続いていた。救急車の窓からは外が見えなかった。でも声は聞こえた。走っても走っても、声が続いた。
マルティネスが救急車の天井を見ながら言った。「……俺、メキシコ系でよかった」
誰も何も言わなかった。
それで十分だった。
空港は静かだった。
政府の人間が動線を確保していた。報道陣は遮断されていた。医療スタッフだけが動いていた。担架が六台、車椅子が一台、点滴スタンドが六本、搭乗口に向かって進んだ。
チャーター機だった。機内は医療仕様になっていた。担架のまま乗れた。
局長が乗り込む前に、振り返った。メキシコの空を少し見た。
役人の一人が近くに立っていた。見送りに来たらしかった。
局長は役人を見た。「あの街の人たちに、伝えてくれ」
「……何をですか」
「守れてよかった、と」
役人は黙っていた。
局長は機内に入った。
飛行機が滑走路を走り始めた頃、ジョンは窓の外を見ていた。
グアダラハラの街が遠ざかっていった。タコスを食べなかった、とぼんやり思った。ダリアに約束したのに。
隣でダリアが言った。「次は絶対食べましょ」
「……聞こえてたのか」
「顔に書いてあった」
「……そうか」
飛行機が浮いた。
窓の外に空が広がった。
バンコクと同じ色だった。
メキシコの空が、どこまでも続いていた。
この判断が世界中から批判されるのは、もう少し後のことだった。




