第40話 それでも朝は来る
病院の三階が、静かになった。
静かというのは、戦闘が終わったという意味だった。混乱という意味では、まだ始まったばかりだった。
廊下に患者が出てきていた。悲鳴を上げている者、壁に張り付いて動けない者、逆に何が起きたか確かめようと歩き回る者。看護師が二人、泣きながら走っていた。どこかで子供が泣いていた。入院患者の子供だった。
サラ・コールマンはその光景を一秒見て、動いた。
「落ち着いて」とスペイン語で言った。流暢ではなかったが、はっきりしていた。「私はサラ・コールマン。タイ王国突撃隊だ。今から指示を出す。従ってくれ」
看護師の一人が止まった。サラを見た。
「まず患者をそれぞれの病室に戻せ。廊下に出ていると危険だ。戻せない患者は、一番奥の処置室に集めろ」
「警察は」と看護師が聞いた。
「来ない」とサラは言った。「今夜は私たちだけだ。それでいい。動いてくれ」
看護師は一秒だけ迷って、動いた。人間というのは、確信を持った人間の声に従う生き物だった。サラはそのことを、CID時代に覚えた。
廊下の指示をしながら、サラは病室を確認した。
ジョン。ヴィクトル。局長。マルティネス。ヨナタン。
五人全員が、床か壁際に倒れていた。
立っているのは、自分とダリアだけだった。
ダリアは病室に入った瞬間に、迷わなかった。
一番ひどい順番を判断した。ジョンが一番重かった。次に局長とヴィクトルが拮抗していた。マルティネスとヨナタンはまだ意識があった。
ヨナタンの肩の傷を最初に確認した。貫通していた。出血が多かったが、動脈ではなかった。「ヨナタン、押さえてられる?ちゃんとよ、しっかり」
「できる」とヨナタンが言った。声が掠れていた。
「絶対離さないでね」
次にマルティネスに行った。脇腹を押さえていた。刃物だった。手をどけさせて確認した。深かった。内臓には届いていないと判断した。「痛いのは分かるけど、これ押さえてて」と言って、清潔なタオルを当てた。
「痛い」とマルティネスが言った。
「知ってる。我慢して」
「もうちょっと優しく」
「後でするわよ。今は動かないで」
局長の頭部からの出血を確認した。頭蓋骨は大丈夫だと判断した。肋骨が数本いっていた。呼吸は安定していた。「局長、大丈夫ですか。聞こえますか」
「聞こえる」と局長は言った。
「動かないでください。すぐ戻ります」
ヴィクトルは肩が外れていた。背中を強打していた。それでも意識があった。「ヴィクトル、肩外れてるわよ。後で入れるから、絶対自分で動かさないで」
「分かった」
「絶対よ」
「分かった」
「もう一回言うわよ、絶対——」
「分かった」
ダリアは頷いて、最後にジョンに来た。
肋骨が複数折れていた。顎を強打していた。掌に深いガラスの破片が刺さっていた。それだけではなかった。内出血の可能性があった。呼吸が浅かった。意識が薄かった。
ダリアはジョンの顔を確認した。目が半分開いていた。
「ジョン」と呼んだ。
「……ん」
「聞こえてる?」
「……聞こえてる」
「また死にかけてるわよ」
「……知ってる」
「毎回これよね、本当に」
「……すまない」
「謝る元気があるなら動かないで」とダリアは言って、処置を始めた。手が動いていた。手順を覚えていた。止血、気道確保、体位の固定。ぎこちなかったが、正確だった。処置しながら喋り続けた。「肋骨また折れてるし、ガラスも刺さってるし、どうしてこうなるの毎回。信じられない。普通の人は窓から人を蹴り落とさないわよ」
「……蹴り落とした」
「自慢しないで」
サラが病室に戻ってきた。廊下の整理がひと段落していた。病室の状況を見渡して、ダリアを見た。
「やれてるの?」
「やれてる」
「ジョンは」
「重い。でも死なない」
「根拠は」
「いつも死なないから」
サラはそれを聞いて、少し笑った。笑うような状況ではなかった。それでも笑った。「確かにそうね」
マルティネスが壁に寄りかかったまま言った。「なあダリア」
「何」
「お前、なんで処置できるんだ。医者でもないだろ」
ダリアは手を止めずに答えた。「ヴィクトルに教わった」
「ヴィクトルに?」
「ウクライナで。最初に会った時から、暇があれば教えてくれた」
マルティネスはヴィクトルを見た。ヴィクトルは壁に背をつけて目を閉じていた。
「なんで教えたんだ」
ヴィクトルは目を開けずに言った。「分かってた」
「なんで分かった」
「……こいつがそういう男だから」
ジョンのことだった。全員が分かった。
マルティネスは少し黙った。「なあダリア。もう一回聞くけど」
「何よ」
「なんでヴィクトルに教わる気になったんだ。最初から」
ダリアは一瞬だけ手を止めた。それからまた動かした。
「ジョンがすぐ死にかけるから」
病室が静かになった。
静かになってから、マルティネスが言った。「……それ、笑っていいのか」
「笑わないで」
「でも」
「笑わないで」
「……分かった」
ヨナタンが言った。「笑った」
「見てたの?」
「見てた。マルティネスも笑ってた」
「笑ってない」
「笑ってた」
マルティネスは肩で笑った。脇腹が痛んで「いた」と言った。それでも笑っていた。
サラが言った。「全員、今夜死なないわよね」
「死なない」とマルティネスが言った。
「死なない」とヨナタンが言った。
ヴィクトルは目を閉じたまま言った。「死なん」
局長は目を開けて天井を見たまま言った。「死ぬか」
ジョンは目が半分開いたまま言った。
「……死んでたまるか」
ダリアは手を動かし続けながら、少しだけ顔をそむけた。
泣いていなかった。
泣いていなかったが、目が少し光っていた。
夜が明け始めた頃、窓の外が青くなっていた。
グアダラハラの夜明けだった。
ダリアは床に座って、壁に背をもたせかけていた。処置が終わっていた。五人全員、死んでいなかった。
サラが隣に座った。しばらく二人で黙って窓の外を見ていた。
「疲れたの?」とサラが聞いた。
「疲れた」
「よくやったわ」
「……サラこそ」
また少し黙った。
「ダリア」
「何」
「あなた、強くなったわね」
ダリアは窓の外を見たまま言った。「そうかな」
「そうよ。ウクライナで会った時と、全然違うわ」
「……ジョンが、すぐ死にかけるから」
サラは笑った。今度は堪えなかった。「もうそれ、あなたの口癖になってるわよ」
「なってないわよ」
「なってるわよ」
ダリアは少し黙って、それから言った。「でも、本当のことだから」
「本当のことね」
「うん」
夜明けの空が、少しずつ色を変えていった。
五人が生きていた。
それだけで、十分だった。




