第39話 本家
引き金を引く前に、ヴィクトルが動いた。
動いていないはずだった。床に叩きつけられて、動かなくなっていたはずだった。だがヴィクトル・ザハロフという男は、叩きつけられたくらいでは止まらなかった。元スペツナズ・アルファの体は、意識より先に動いた。
床から飛び起きてディエゴの銃腕に組みついた。M93Rが天井に向いた。暴発した一発が蛍光灯を砕いて、病室の半分が暗くなった。ヴィクトルはディエゴの腕を極めようとした。サンボの関節技だった。ディエゴは極められる前に体を回転させ、逆にヴィクトルの腕を引っ張って壁に叩きつけようとした。
だが今度は、局長が来た。
ムエタイの肘が横からディエゴの顔面に入った。鼻から血が出た。ディエゴの体が傾いた。局長は続けた。膝が腹に入った。脇腹に肘が入った。かつて陸軍で格闘教官をしていた男の連撃で、初めてディエゴが後退した。一歩、また一歩。
ヴィクトルが正面に回った。サンボの組み手でディエゴの体を崩しにかかった。局長が横から圧力をかけた。二人でディエゴを挟んだ。
ディエゴは笑っていた。
血が唇を伝っていても、笑っていた。押されながら、後退しながら、笑っていた。「いいぞ」と言った。「こっちの方が面白い」
それでも押された。廊下側の壁から、窓側に向かって、じりじりと追い詰められていった。
そこで、床を這う音がした。
三人が一瞬だけ見た。
ジョンが、床を這っていた。
肋骨が折れていた。顎を打たれていた。足が言うことを聞かなかった。それでも這っていた。
壁に手をついた時、廊下の方角から声が聞こえた気がした。
実際には聞こえていなかった。病院の音だった。でもジョンには聞こえた。患者を誘導するサラの声。ダリアが何かを叫んでいる声。逃げ遅れた誰かに、ダリアが手を差し伸べている姿。
ディエゴは愉しんでいた。
最初からそうだった。誰かが苦しんでいることを、愉しんでいた。それが、この男の戦う理由だった。
ジョンの戦う理由は、違った。
膝で体を支えて、立ち上がろうとした。一度崩れた。また起き上がろうとした。
ディエゴが笑った。「まだ動くのか」
ジョンは答えなかった。答える息が、なかった。壁を伝って、ようやく立った。足が震えていた。それでも立っていた。
シラットの構えを取った。
乱れていた。綺麗ではなかった。師から教わった流れるような動きではなかった。血と痛みと折れた骨と、それでも止まれない何かだけで作った構えだった。
ヴィクトルと局長の連撃が続いていた。ディエゴは窓まで五歩のところまで追い詰められていた。そこにジョンが加わった。
乱れたシラットだった。それでも、シラットだった。
相手の動きを借りる技術だった。ヴィクトルと局長の圧力をディエゴが受け流そうとした瞬間、その流れにジョンが乗った。押されている力を使って崩した。ディエゴの体軸が初めて大きく傾いた。
三人の連撃が、一つになった瞬間があった。
ムエタイの肘が顔面に入り、サンボが体を崩し、シラットが流れに乗って背中を押した。ディエゴが窓に向かって二歩、よろめいた。
窓まで、一歩だった。
ディエゴは窓を背にして立った。血で赤くなった唇で、まだ笑っていた。「三人がかりか」と言った。声に怒りはなかった。
少し間を置いた。本当に、不思議そうな顔だった。
「お前らが必死になる理由が、俺には分からない」
三人は動かなかった。
「守るとか、誓いとか、仲間とか。俺には一度も分からなかった」ディエゴはジョンを見た。「だが」
笑った。最初から最後まで変わらない、あの笑いだった。
「そこが最高に愉しかった」
ジョンはヴィクトルを見た。局長を見た。二人が頷いた。言葉はなかった。
ジョンは息を吸った。
折れた肋骨が悲鳴を上げた。無視した。震える足で体重を乗せた。痛みは全部、後でいい。今だけ、動け。
跳んだ。
空中で体が回った。
一回転、二回転——540度。
ヴァン・ダムに教わった技だった。コピーではなかった。ディエゴがコピーした技の、本物だった。
踵がディエゴの胸に入った。
全体重が乗った一撃だった。
ディエゴの体が窓に激突した。ガラスが割れた。割れた音よりも、ディエゴが笑った声の方が、一瞬だけ大きかった。
それから、夜の外に消えた。
三階だった。
下から、重い音がした。
病室に、静寂が戻った。
ジョンは窓枠に手をついた。ガラスの破片が掌に刺さったが、どうでもよかった。外の暗闇を見た。ディエゴが落ちた場所を見た。動いていなかった。
夜風が病室に入ってきた。
グアダラハラの夜の風だった。
ヴィクトルが壁に背をつけて、深く息を吐いた。局長が床に片膝をついて、汗を拭った。
廊下の音が止まっていた。ヨナタンとマルティネスが制圧を終えたらしかった。しばらくして、マルティネスが病室のドアを開けた。顔に血がついていた。それを見て、病室の様子を見て、窓の外を見た。
「……終わったのか」
誰も答えなかった。
マルティネスは窓の外を見た。それから、ジョンを見た。「お前が仕留めたのか」
ジョンは窓枠から手を離した。足が崩れそうだった。壁に寄りかかって、かろうじて立った。
「……三人でやった」
マルティネスは少し黙った。それから言った。「かっこいいな」
「うるさい」
「ほめてるんだよ」
ジョンは答えなかった。窓の外を、もう一度見た。
ディエゴ・ソリスは、最後まで笑っていた。
その声だけが、まだ耳に残っていた。




