第38話 崩壊
夜の九時を過ぎた頃、マルティネスが廊下の窓から外を見て、ヴィクトルを呼んだ。声には出さなかった。顎をしゃくっただけだった。
ヴィクトルが隣に立って駐車場を見た。昼間まであった警察の巡回車が、一台もない。路地の角に立っていた制服の警官も消えていた。病院の正面入口を固めていた二人も、いなかった。
「全員か」
「気づいたのは今だ。いつ消えたかは分からない」
ヴィクトルは廊下を見渡した。患者が一人、点滴スタンドを押しながら歩いていた。看護師が記録を書いていた。普通の病院の夜だった。こちら側だけが、違っていた。「サラを呼べ。ジョンの病室に全員集める」
マルティネスはもう走っていた。
五人がジョンの病室に集まった。局長だけが椅子に座っていた。ヴィクトルが短く話した。警察が消えた。内部に人間がいる。本気の連中が来る。
局長は椅子から立ち上がり、コートを脱いで椅子に掛けた。「時間は」
「ない」
ジョンはベッドから降りて壁際に立った。肋骨が痛んだが、顔には出さなかった。「病院のスタッフと患者を逃がす必要がある。裏口から」
「私がやるわ」とサラが言った。「ダリアを連れて誘導する」
ジョンはサラを見た。「頼む」
サラはすでにドアに向かっていた。
ヴィクトルがヨナタンとマルティネスに顔を向けた。「廊下と正面階段を抑えろ。ここには通すな」
ヨナタンは頷いた。マルティネスはナイフを確認しながら言った。「俺、スペイン語で怒鳴れるから有利だな」
「それだけか」
「それだけじゃないけどな」
二人が出ていき、病室に残ったのはジョンと局長とヴィクトルの三人になった。局長は手首を回した。ムエタイの構えを取る前の、昔からの癖だった。「瀧本、立てるか」
「立てる」
「嘘をつくな」
「……立てる」
局長は怒った顔で、笑った。「信じてやる」
最初に聞こえたのはエンジン音ではなく、一階のどこかでガラスが割れる音だった。怒号が続いた。銃声が二発。マルティネスが何かをスペイン語で怒鳴り返す声がして、廊下の奥で格闘音が始まった。
足音が増えてきた。病院の構造を知っている動き方だった。下調べをしてきた連中だった。
ドアが開いた瞬間にヴィクトルが動き、入ってきた男の腕を掴んで壁に叩きつけた。続いて入ってきた男の腹に、局長の膝が入った。重い音がした。三人目にジョンが対応した。シラットの入り方で崩して、関節を取り、折れる直前で止めた。
それでも来た。次々に来た。
ヴィクトルが二人を同時に掴んで互いに叩きつけ、局長が肘打ちで一人を沈め、ジョンが蹴りを入れた。動きが少し遅かった。肋骨が言うことを聞かなかった。
それでも動き続けた。
やがて廊下が静かになった。
静かになったのではなかった。足音が、止まったのだった。
ドアの向こうに、一人の気配があった。
ゆっくりとドアが開いた。
黒いスーツだった。紅いベストだった。オールバックの長身で、手に持っているのはM93Rだった。
ジョンの体から何かが抜けた。
柏木だった。
柏木のはずがなかった。柏木は死んだ。ジョンが知っている。それでも同じ服で、同じ銃で、同じ立ち方でそこに立っていた。一秒か二秒、ジョンは動けなかった。
男がジョンを見て笑った。「Hola」
スペイン語だった。柏木の声ではなかった。その声でジョンは戻ってきた。
「ディエゴ・ソリスだ」と男は英語に切り替えて言った。流暢だった。「お前たちのことは全部知っている。ドキュメンタリーを何十回も見た。面白かった。タイで軍を相手にしたんだろ。だから直接やりたかった」
怒りがなかった。恨みもなかった。ただ、楽しんでいた。
局長が動いた。ムエタイの踏み込みで膝を使う間合いまで一気に入った。ディエゴは下がらなかった。左のジャブが来て局長の頭が揺れ、右のフックで局長がたたらを踏んだ。それでも局長は前に出た。膝を入れようとした瞬間、ボディへの右フックが脇腹に刺さった。
陸軍の格闘教官だった男が、膝をついた。
ディエゴは見下ろして笑った。「ムエタイか。悪くない」
ジョンが動いた。シラットで流れるように入り、距離を作って肘と膝を使った。当たった。ディエゴが動いた。ジョンは追った。
だがディエゴは下がらなかった。前に出てきた。ジャブ、ストレート、ジョンはそれを捌いた。ボディへの左フックが来た時、肋骨に直撃した。折れている場所だった。視界が白くなった。膝が落ちて、立て直そうとした瞬間に右のアッパーが顎を跳ね上げた。
ジョンは床に落ちた。蛍光灯が見えた。立ち上がろうとした。足が言うことを聞かなかった。
ディエゴがジョンを見下ろし、それから自分の足を上げた。
空中で回転した。
540度だった。
ジョンの技だった。ヴァン・ダムに教わった技だった。自分の技が自分に向かってくるのを見ながら、かろうじて体を逃がした。それでも着地の払いが足首に当たり、壁に手をついてようやく立っていた。
「知ってるか」とディエゴが言った。「この技、ドキュメンタリーで見てから練習した。お前の動きを全部コピーした。楽しかったぞ」
ヴィクトルが来た。正面から、全体重でぶつかった。ディエゴが壁まで押された。首に腕が入ろうとした瞬間、ディエゴが低く潜って腰にしがみつき、持ち上げた。
ヴィクトルが天井を見た。
床に叩きつけられた。動かなくなった。
廊下ではまだヨナタンとマルティネスの音がしていた。大人数を相手にしていた。来られなかった。
ジョンは床にいた。局長は壁際にいた。ヴィクトルは動かなかった。
ディエゴがゆっくりとジョンに近づいた。M93Rを抜いた。
ジョンの銃だった。突撃隊の銃だった。
銃口が額に向いた。
ディエゴは笑っていた。楽しそうだった。怒っていなかった。恨んでいなかった。ただ楽しかった。それだけだった。
「面白かった」とディエゴは言った。「本当に面白かった。また来い。次も相手してやる」
引き金に、指がかかった。




