第37話 親衛隊
ダリアのスマートフォンが鳴ったのは、昼過ぎだった。
発信者を見た。固まった。サラが気づいて「どうしたの」と聞いた。ダリアはスマートフォンをサラに向けた。
画面には、ウクライナ語で名前が表示されていた。
サラが止まった。「……これ、本物?」
「分からない」とダリアは言った。「でも番号が合ってる」
ゼレンスキー大統領からだった。
スマートフォンが鳴り続けた。ダリアはそれを見ていた。四回。五回。六回。
止まった。
「出なかったの?」とサラが聞いた。
「うん」
「なんで」
ダリアは少し考えた。「……今は忙しいから」
「メキシコにいながらウクライナ大統領の電話を忙しいで断るの、あなたくらいよ」
「また後でかかってくると思う」
「かかってきたら?」
「その時も考える」
サラはしばらくダリアを見た。それから小さく笑った。「重症ね」
「知ってる」とダリアは言って、スマートフォンをベッドの上に置いた。
同じ頃、病院の屋上でヴィクトルと局長が話していた。
グアダラハラの空が広かった。夕方に近づいていて、空の端が薄く橙色に変わり始めていた。
局長は手すりに手を置いて、街を見ていた。ヴィクトルはその隣に立っていた。二人とも、しばらく何も言わなかった。
「これからどうするつもりだ」と局長が聞いた。
「決めていない」とヴィクトルは答えた。「ジョンが動くところに、俺もいる。それだけだ」
「突撃隊に入る気はないか」
「ない」
「理由は」
「俺は突撃隊の人間じゃない。あの連中と並ぶつもりもない。それぞれのやり方がある」
局長は頷いた。「ジョンは?」
「戻るつもりはないと言っていた」
「サラたちは」
「三人も同じだ。組織に戻る気はない」
「ダリア・コワレンコは」
ヴィクトルは少し間を置いた。「あの女は最初から組織の人間じゃない。でも止まらない」
「知っている」
局長は空を見たまま、少し黙った。それから口を開いた。
「お前たち全員、王室騎士の親衛隊だ」
ヴィクトルが局長を見た。「……どういう意味だ」
「突撃隊でもない。王室犯罪対策局でもない。そのどちらにも属さない」
「組織がなければ、法的な根拠も——」
「ある」と局長は言った。「王室騎士には、直属の親衛隊を持つ権利がある。タイの慣習法に基づく。御方がお認めになっている」
ヴィクトルはしばらく黙った。「……本当か」
「本当だ。俺が作った」
「作ったのか」
「御方のお許しをいただいて、作った。昨夜のうちに」
ヴィクトルは、局長の横顔を見た。この男はいつもそういう男だった。外交問題は後で何とかすると言いながら、夜のうちに根回しを終えている。
「命令権は誰にある」と聞いた。
「御方と瀧本以外にはない」
「……お前にも?」
「俺にもない」
ヴィクトルは少し間を置いた。「それでは、お前が困るだろう」
「困る」と局長はあっさり言った。「だが、仕方がない。騎士にはそういうものだ」
「なぜ命令権を持たない」
「騎士だからだ」
局長は手すりから手を離して、ヴィクトルの方を向いた。
「タイを守れとも言わない。御方が言うのは、人を守れ、だ。どの人間を守るかは、騎士が自ら判断する。組織の命令ではなく、自分の目で見て、自分の頭で考えて、動く。それが騎士だ」
ヴィクトルは黙って聞いていた。
「だから、ジョンはジョンのまま生きていられる。名前を変えても、組織を離れても、止まれない体を持ったまま、世界を歩ける。親衛隊という形があれば、タイ王室府が動ける。ダリア・コワレンコの国籍の問題も、法的な保護も、全部つながってくる」
「……よく考えた」
「昨夜考えた」
「一晩で?」
「瀧本が絡むといつもそうなる」
ヴィクトルはかすかに笑った。珍しいことだった。「その男は、人を動かすのが上手い。本人は気づいていないが」
「気づいていないから動かせる」と局長は言った。
二人はまた黙った。街の音が遠くから聞こえた。
「一つだけ言っておく」と局長は続けた。「これは辛い道だ。命令がないということは、全て自分で判断しなければならない。正しいかどうか、誰も保証しない。間違えても、組織が守ってくれない。全部、自分で引き受ける」
「……分かっている」
「本当に分かっているか」
「俺は三十年、自分で判断してきた。組織の命令に従って動いた時代もあった。従わなかった時代もあった。どちらが正しかったかは、今でも分からない」
局長は頷いた。「だから聞いた」
「だが」とヴィクトルは言った。「それがお前たちの生き方だろう、とお前は言うつもりだったんじゃないか」
局長は少し止まった。それから、また前を向いた。「……言うつもりだった」
「先に言われた」
「そうだな」
「その通りだ」とヴィクトルは言った。「俺には、それ以外の生き方が分からない」
「ジョンも同じだ」
「あの男が止まったら、もう瀧本勝幸じゃない」
「そうだ」
「だから止まれない」
「そうだ」
二人はまた黙った。空の橙色が、少し濃くなっていた。
ヴィクトルが言った。「親衛隊、か」
「気に入らないか」
「名前はどうでもいい」
「ではいいな」
「……ジョンが何と言うか」
「言わなくてもいい」と局長は言った。「あの男は既に動いている。名前なんかなくても止まらない。名前は周りのためにある」
ヴィクトルは空を見た。バンコクの空ではなかった。モスクワの空でもなかった。グアダラハラの空だった。それでも、どの空とも同じ色をしていた。
「一つ聞いていいか」
「なんだ」
「御方は、ジョンのことをどう思っている」
局長は少し考えた。それから言った。「『我が騎士よ』と呼んでいる」
ヴィクトルは何も言わなかった。
「それ以上でも、それ以下でもない」と局長は続けた。「あの男にとって、それで十分だと思っている」
「……そうかもしれない」
「そうだ」
局長はコートを整えた。「降りるか。瀧本の顔を見に行く」
「笑えるか、あの男の顔を見て」
「笑えない。でも見に行く」
「なぜだ」
「心配だからだ」
ヴィクトルはその答えを聞いた。局長がそういうことを素直に言う男だということを、今日初めて知った気がした。
二人は屋上を離れた。夕暮れのグアダラハラに、街の明かりが一つずつ灯り始めていた。




