第36話 局長、動く
ウィチャイ局長がグアダラハラ市庁舎の会議室に入ってきた時、メキシコ側の関係者は三人いた。内務省の地方局長。州知事の補佐官。それから、明らかに何かを警戒している顔の弁護士が一人。
ウィチャイは席に着く前に名刺を三枚置いた。「タイ王室犯罪対策局、局長のウィチャイ・スリヤウォンです。よろしくお願いします」。流暢な英語だった。穏やかな声だった。
内務省の地方局長が口を開いた。「局長閣下、わざわざお越しいただきましたが、今回の件については既に結論が出ています。六名全員に出国命令が——」
「存じています」とウィチャイは言った。「それについて話し合いに来ました」
「話し合いの余地はありません。メキシコの法律に基づく正式な命令です」
「なるほど」
ウィチャイは頷いた。穏やかだった。それが、相手を少し不安にさせた。
「一つ確認させてください。あなた方が追い出そうとしている六名が、今回の件でどういう行動を取ったか、正確に把握されていますか」
「把握しています。無許可で武装し、メキシコ国内で複数の武装集団と交戦した。これが問題です」
「その武装集団というのは、人身売買組織と、警察に偽装したカルテルですね」
「……それは捜査中の——」
「つまり、民間人を守った。警察に偽装した犯罪組織を無力化した。それが問題だ、と」
補佐官が口を挟んだ。「問題は手続きです。正規の許可なく——」
「ロドリゲス局長とモラレス検察官が許可を出しました」
「その二名は——」
「殺されました。カルテルに。許可を出したその夜に」
会議室が静かになった。
ウィチャイはテーブルに書類を出した。「これは、ロドリゲス局長とモラレス検察官が正式に発行した武器携行許可書です。日付も印章も本物です。確認していただけますか」
弁護士が書類を受け取って見た。顔が少し変わった。
ウィチャイは続けた。「つまり、あなた方が追い出そうとしている六名は、正規の許可を得て行動し、メキシコ市民を守り、カルテルと戦った。その許可を出した当局者二名が、カルテルに暗殺された。そして今、許可を出してもらった側が出国命令を受けている」
「……」
「これをメキシコ政府の公式見解として、国際社会に説明されるおつもりですか」
地方局長の顔色が変わった。「脅しですか」
「事実を申し上げています」とウィチャイは穏やかに言った。「脅しではありません。ただ、この件がどういう文脈で語られるか、ご確認いただきたかった」
補佐官が言った。「それでも、外国の武装集団がメキシコ国内で活動することは——」
「タイがいつ、タイ国民だけを守ると言いましたか」
全員が止まった。
ウィチャイは静かに続けた。「世界の平和は、タイの平和です。タイ王室犯罪対策局は、タイ国内の犯罪と戦うだけでなく、世界のどこであれ、人が傷つけられる場所で戦います。これは局の設立理念であり、タイ王室の意思です」
「……それは国際法上——」
「国連憲章の人権保護条項と、難民に関する国際条約があります。被害者の保護を優先した行動は、各国の国内法に優先する場合があります。必要であれば、国連人権理事会に照会することも可能です。もちろん、それをするつもりはありませんが」
弁護士が補佐官に何かを囁いた。補佐官の表情が動いた。
地方局長が言った。「局長閣下、あなたの言いたいことは分かりました。しかし——」
「六名は、今、病院にいます。二名が重傷です。移動できる状態ではない」
「それは——」
「人道的な観点から、出国命令の執行を二週間、猶予していただきたい。その間に、カルテルとの件についても、正式な証言を提供します。ロドリゲス局長とモラレス検察官の死についても」
会議室が静かになった。
ウィチャイは席を立った。「ご検討ください。私はホテルにいます。今夜中にご連絡いただければ幸いです。もし連絡がなければ、明朝、タイ大使館を通じて外交ルートで正式に要請します。その場合、多少、話が大きくなるかもしれませんが」
それだけ言って、会議室を出た。
廊下でマルティネスが待っていた。「どうでしたか」
「二週間もらえる」とウィチャイは言った。「たぶん」
「たぶん、ですか」
「夜中に連絡が来る。来なければ、明朝、大使館に電話する」
「……本当に国連に持ち込むつもりでしたか」
「持ち込めるかどうかは、また別の話だ」
マルティネスは少し黙った。「局長、それって——」
「外交問題は、後で何とかする」
ウィチャイはコートを整えながら歩き始めた。「まず動く。それだけだ。瀧本と同じだ」
マルティネスは局長の後ろを歩きながら言った。「局長と瀧本が同じだとは思いませんでした」
「俺も思いたくはない」
病院に着いた時、夜だった。
ウィチャイはマルティネスに「先に行け」と言って、一人で廊下を歩いた。ダリアの病室の前で止まった。ドアが少し開いていた。中から声が聞こえた。
ジョンの声だった。
ダリアの声だった。
言い合っているようだった。笑っているようでもあった。
ウィチャイは少し聞いた。それから、静かに息を吐いた。
ドアをノックした。
声が止まった。「入れ」とジョンが言った。
ウィチャイはドアを開けた。ジョンが振り向いた。驚いた顔をした。珍しかった。この男が驚く顔をするのは珍しかった。
「局長……」
「久しぶりだ、瀧本」
ダリアがジョンを見た。「瀧本?」
ウィチャイはダリアを見た。「ダリア・コワレンコさんですね」
「はい」
「初めまして。タイ王室犯罪対策局の局長です」
ダリアは少し緊張した顔をした。ウィチャイは椅子を引いて座った。「元気そうで何よりです」
「撃たれましたけど」
「それでも生きている。元気ということです」
ダリアは少し間を置いた。「……タイ的な考え方ですね」
「そうかもしれません」
ウィチャイはジョンを見た。ジョンは何も言わなかった。二年分の何かが、その顔にあった。
「瀧本、見せたいものがある」
ウィチャイは書類を一枚取り出した。テーブルに置いた。
ジョンは書類を見た。「……何だ、これは」
「読んでみろ」
ジョンは書類を手に取った。タイ語だった。英訳が添付されていた。しばらく読んでいた。
それから、ウィチャイを見た。「……ダリアに渡すのか、これを」
「そうだ」
ジョンはダリアを見た。ダリアは首を傾けた。「何の書類?」
ジョンは何も言わなかった。ウィチャイが代わりに言った。「タイ国籍取得の申請書です。記入して、署名して、必要書類を添付すれば、手続きが進みます」
ダリアが固まった。「……タイ国籍?」
「突撃隊の隊員は全員、タイ帰化しています。あなたも、もしよければ」
「でも、私は突撃隊の隊員じゃ——」
「ジョン・ドゥの関係者です。それで十分です」
ダリアはジョンを見た。ジョンはウィチャイを見た。「局長、これは——」
「ジョンを追い詰めているわけではない」
ウィチャイは澄ました顔で言った。「ただ、選択肢を提供しているだけだ。ダリアさんが希望するなら、手続きを進める。希望しないなら、それでいい」
「……」
「ただし、ジョンの行くところには危険がある。タイ国籍があれば、タイ王室府が動ける。それだけのことだ」
ジョンは書類を見た。ダリアも書類を見た。
ダリアが言った。「タイ人になる、ということですか」
「そうです」
「……タイ語、話せませんけど」
「ジョンも最初は話せなかった」
ダリアはジョンを見た。ジョンは少し目を逸らした。
ウィチャイは立ち上がった。「急がなくていい。二週間、時間があります。ゆっくり考えてください」
そう言いながら、内心では少し楽しんでいた。この男が追い詰められる顔を見るのは、久しぶりだった。
「ジョン」とウィチャイは言った。「一つだけ聞いていいか」
「……何だ」
「この二年、どうだった」
ジョンは少し間を置いた。
「……止まれなかった」
ウィチャイは頷いた。「そうか」
「局長も、同じだろう」
「俺は止まれたことがない。生まれてこの方」
ダリアが言った。「局長も感染してるんですか」
ウィチャイは少し止まった。それからダリアを見た。「感染?」
「体が動く前に心が動く。止まれなくなる。それを感染って言うんです、私たちは」
ウィチャイはジョンを見た。ジョンは天井を見ていた。
「……なるほど」とウィチャイは言った。「なら、俺は最初から感染していたことになる」
「重症ですね」
「重症だ」
ウィチャイはドアに向かった。「ゆっくり休め。明日からまた忙しくなる」
「出国命令は」とジョンが言った。
「二週間、猶予をもらう予定だ」
「猶予、か」
「外交問題は、後で何とかする」
ジョンは少し間を置いた。「……局長の口癖だな」
「そうだ」とウィチャイは言った。ドアを開けた。「お前の口癖が『死んでたまるか』なら、俺の口癖はそれだ」
ドアを閉めた。
廊下に出た。
マルティネスが待っていた。「どうでした」
「うまくいった」
「ジョンとダリアの件も?」
ウィチャイは歩きながら言った。「あとは勝手にやる。俺がやることはやった」
「書類を渡しただけじゃないですか」
「それで十分だ」
マルティネスは局長の顔を見た。どこかで笑っているように見えた。
「局長、楽しんでましたか」
「楽しんでいない」
「楽しんでましたよね」
「……少しだけ」




