第35話 告白
病室は静かだった。
ダリアは眠っていた。少なくとも、ジョンにはそう見えた。白いシーツの上に横たわって、目を閉じていた。点滴が腕に刺さっている。モニターが規則正しく音を立てていた。
ジョンは椅子を引いて、ダリアの隣に座った。
腕に包帯が巻かれていた。左腕が動きにくかった。肋骨が二本折れていると言われた。頭に縫合の跡があった。全部、昨夜のことだった。昨夜というより、今朝のことだった。
ジョンは、ダリアの顔を見ていた。
眠っている顔だった。怒っていない顔だった。しつこくない顔だった。強引でない顔だった。でも、その顔の主は、目が覚めれば全部そろう。ジョンはそれを知っていた。
「……ダリア」
声に出した。
返事がなかった。眠っていた。
「お前が生きていてよかった」
また返事がなかった。
ジョンはしばらく黙って、ダリアの顔を見ていた。それからまた口を開いた。眠っているから言えることがあった。
「俺は、スヨンを守れなかった。あの時、俺の体は動いていた。盾にもなった。それでも守れなかった」
モニターの音だけが聞こえていた。
「今度は、お前を守った。でも、お前が撃たれた。守り切れたとは言えない」
「……」
「それでも。お前が生きている。それだけで、俺には十分だ」
ジョンは、ダリアの手を見た。点滴の針が刺さっていた。少し躊躇してから、その手に自分の手を重ねた。
「お前のことが、心配だ」
それだけを言った。
嘘のない言葉だった。説明するより短くて、全部入っていた。
「ダリア・コワレンコ。お前は、俺の側にいろ」
病室に、沈黙が続いた。
モニターが音を立てていた。廊下で誰かが歩く音がした。外から車の音がした。
ジョンはもう少しそこにいようとした。
その時。
「こんなんで死んでたまるかボケェ!!」
ダリアが叫んだ。
目が開いていた。両目が、しっかりと開いていた。顔が真っ赤だった。
ジョンは固まった。
「……いつから起きていた」
「ずっと!」
「……」
「全部聞こえてた! 全部!」
「……」
「なんで眠ってる人間にそういうことを言うの!!」
「……眠っていると思ったからだ」
「眠ってなかった!」
「……なぜ黙っていた」
「聞きたかったから!」
ジョンは少し間を置いた。「……聞いてどうする」
「どうするって——」
ダリアは顔を背けた。シーツを掴んでいた。耳まで赤かった。
「……覚えておく」
「……そうか」
「ちゃんと覚えておく。全部。一字一句」
「……」
「後で何度でも言わせる」
「……言わない」
「言わせる」
「……」
ダリアはジョンを向いた。まだ顔が赤かった。でも、目は笑っていた。
「生きてた」
「……ああ」
「よかった」
「……俺もそう思う」
「どっちの話してるの」
「……両方だ」
ダリアは少し間を置いた。それから笑った。声を出して笑った。笑ったら傷が痛んだらしく、顔をしかめて「痛い」と言った。それでも笑っていた。
廊下では、別の話が動いていた。
サラ、マルティネス、ヨナタン、ヴィクトルが、病院の待合室に集まっていた。マルティネスがスマートフォンを持ったまま立っていた。
「ロドリゲスの部下から連絡が来た。カルテルが動いている。今夜中にまた来るかもしれない」
「病院に?」ヨナタンが聞いた。
「可能性がある。ジョンとダリアがここにいることは、もう知られている」
ヴィクトルが腕を組んだ。「ここは守れない。病院だ。一般の患者がいる」
「移動させるか」とサラが言った。
「どこへ」
「それを考えないといけないわ」
ヴィクトルは立ち上がった。「俺が外を確認する」
「一人でか」
「一人の方が速い」
それだけ言って廊下に出ていった。
マルティネスはサラを見た。「ヴィクトル、ああいう男だな」
「そうね」とサラは言った。「でも、一番頼りになる」
マルティネスは窓の外を見た。グアダラハラの朝が動き始めていた。市場が開き始めていた。普通の朝だった。こちら側だけが、普通ではなかった。
そこへ、制服の警察官が二人入ってきた。ロドリゲスの部下ではなかった。別の顔だった。
「外国人六名に、出国命令が出ています」
スペイン語だった。マルティネスが訳した後、全員が少し黙った。
「いつまでだ」とサラが聞いた。
「四十八時間以内です」
「患者がいる。動かせない」
「それは考慮します。ですが、命令は命令です」
警察官は書類を置いて出ていった。
マルティネスが書類を見た。「本物だ。メキシコ政府の印章がある」
「カルテルが動かしたのかしら」とサラが言った。
「それか、単純に厄介払いか。どちらにしても、結果は同じだ」
ヨナタンが言った。「ジョンに知らせるか」
「……少し待って」とサラは言った。「今は、そっとしておきましょ」
バンコク。王室犯罪対策局。
ウィチャイ局長は、ハーパーからの報告を聞き終えた後、しばらく天井を見ていた。
「……ロドリゲスが死んだか」
「はい。モラレスも。同じ夜に」
「六人の状態は」
「全員生存しています。ジョンが最も重傷です。ダリア・コワレンコも入院中です」
「ダリア・コワレンコ」と局長は繰り返した。「ウクライナ人か」
「はい。詳細は——」
「知っている。報告は読んだ」
ハーパーは少し黙った。「局長、メキシコから出国命令が出ています。四十八時間以内に」
「知っている」
「どうされますか」
局長は立ち上がった。窓の外を見た。バンコクの空だった。
「チケットを取れ」
「……どちらへですか」
「グアダラハラだ」
ハーパーは一瞬止まった。「局長自らが?」
「そうだ」
「理由を聞いていいですか」
局長はコートを手に取った。「瀧本が厄介なことになっている。俺が行く以外に何がある」
「……また瀧本が原因ですか」
「また瀧本だ」
局長はドアに向かいながら言った。声に、怒りはなかった。どこか、仕方がないというより、それを楽しんでいるような色があった。
「ハーパー、一つだけ聞いておく」
「何ですか」
「あの男が姿を消してから、何年になる」
「……二年です」
「二年か」
局長はドアを開けた。
「遅くなったな」
それだけ言って、廊下に出ていった。
グアダラハラ空港に、一人の男が降り立った。
夜だった。
コートを着ていた。
出口を出たところで、マルティネスが待っていた。
「局長」
「久しぶりだ、マルティネス」
「来てくれると思ってませんでした」
「来るに決まっている」と局長は言った。「瀧本はどこにいる」
「病院です。ダリアの病室に」
「今も?」
「今も。ずっとそこにいます」
局長は少し歩いてから、立ち止まった。
「……その女、大事なのか」
マルティネスは少し考えてから答えた。「大事だと思います。ジョン本人は認めませんが」
「認めない、か」
「ええ。でも、ずっと側にいます」
局長は頷いた。歩き始めた。「相変わらずだな、あの男は」
「相変わらずです」
「厄介な男だ」
「最高に厄介です」
「……だが」
局長はグアダラハラの夜空を見上げた。バンコクとは違う空だった。星の位置が違った。空気が違った。
「生きていた」
「生きてます」
「それだけで十分だ」
マルティネスは、局長の横顔を見た。何も言わなかった。
二人は、病院へ向かって歩き始めた。




