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幕間 世界が止まった夜


 Netflixグアダラハラ緊急編集室——正確には、急遽借り上げたホテルの一室——では、ジェームズ・パークが三十六時間ぶりにコーヒーを飲んでいた。飲んでいた、というより、カップを持ったまま固まっていた。

 テーブルの上にラップトップが三台並んでいた。全員の目が充血していた。サラ・ミラーは椅子の上で膝を抱えていた。マイケル・チェンは床に座り込んでいた。編集担当のリャン・ファンはキーボードの上に額を置いていた。生きていた。たぶん。

 「……流れた」とジェームズが言った。

 「流れた」とマイケルが繰り返した。

 「本当に流れた」

 「流れたよ」

 二人はしばらく黙った。

 彼らは二年間、ジョン・ドゥを追いかけていた。タイを離れた男が、どこに行ったのか。何をしているのか。生きているのか。手がかりが出るたびに現地に飛んだ。イラク。ウクライナ。ベトナム。そして、メキシコ。

 メキシコで、ようやく追いついた。

 追いついたら、救急車が襲われていた。

 男が時速百キロで走る救急車から飛び移るのをカメラで撮った。

 車が横転して男が吹き飛ぶのをカメラで撮った。

 別の車が突っ込んでくるのを、ランドローバーで体を張って止めた。

 その後、男に「カメラを回すな」と三回言われて、三回とも「回してます」と答えた。

 その全部が映像に入っていた。

 二年分の追跡映像と合わせて、七十二時間で編集した。七十二時間、誰も寝ていない。サラ・ミラーは途中で二回泣いた。一回はジョンがダリアを守って被弾するシーンで。もう一回は理由が分からなかった。疲労だと思う。

 編集が上がった瞬間に、本社の許可を取らずに流した。

 「これは解雇されるかもしれない」とマイケルは言っていた。「でも流す」と言って、流した。

 今、再生数が止まっていなかった。

 SNSが燃えていた。

 『TAKIMOTO IS BACK』がトレンドの一位になった。二位が『#JohnDoe』、三位が『#メキシコのランドローバー』だった。

 ツイッターには一秒ごとに新しい投稿が来ていた。

 「救急車から飛び移る人間がいる」「いない」「いた」「映像がある」「本物か」「本物だ」「タイの騎士が蘇った」「いや元々死んでなかった」「二年間どこにいたんだ」「メキシコにいた」「なんでメキシコ」「知らない」「白いマフラーが見えた」「スヨンのマフラーだ」「分かる人間は分かる」。

 Redditでは、救急車からSUVへの飛び移りシーンを「物理的に可能か」というスレッドが立った。二千件のコメントがついた。結論は「可能だが常人には無理」だった。

 TikTokには、飛び移りシーンのスローモーション解析動画が三十分後に上がった。百万回再生を超えた。

 YouTubeのコメント欄は崩壊していた。日本語、英語、スペイン語、タイ語、アラビア語、ロシア語、ウクライナ語が混在していた。

 ウクライナ語のコメントが一つ、多くの「いいね」を集めていた。「あの金髪の女の子、ウクライナ人だと思う。540度回転蹴り、スカートで披露したのは草だけど、かっこいい」。

 メキシコ政府の広報室では、担当者が三人、画面を見て黙っていた。

 再生数が一億を超えた頃、広報室長が言った。「……出国命令、見直しましょうか」

 誰も反論しなかった。

 ベルギー。

 ジャン・クロード・ヴァン・ダムは、スマートフォンで映像を見ていた。

 最初のシーンから、最後のシーンまで、三回繰り返して見た。

 特に問題のシーンを四十回見た。

 飛び移りのシーン。ガラスを肘で割るシーン。車内での戦闘。横転。そして、金髪の女性が披露した、あの蹴り。

 ヴァン・ダムはスマートフォンを置いた。しばらく考えた。

 それから立ち上がった。

 「Helena!」と呼んだ。秘書が来た。「Netflixの番号は分かるか」「はい、あります」「電話してくれ」「……またですか」「まただ」

 秘書はため息をついてから、電話した。

 Netflixグアダラハラ編集室。

 マイケル・チェンのスマートフォンが鳴った。見た。知らない番号だった。出た。

 「もしもし」

 「Netflixか」

 ベルギー訛りの英語だった。

 「……はい」

 「ヴァン・ダムだ」

 マイケルは三秒固まった。「……はい」

 「映像を見た」

 「……はい」

 「弟子が蘇った」

 「……はい」

 「それだけではない。女の子も使った」

 「……あの蹴りのことですか」

 「あれは540度回転蹴りだ。完璧ではない。フォームが荒い。だが使えた。センスがある」

 「……」

 「俺が教える」

 マイケルは床に座り込んでいるサラを見た。サラが「どうした」という顔をした。マイケルは口パクで「ヴァン・ダム」と伝えた。サラの目が見開いた。

 「あのー」とマイケルは言った。「その件は、本人たちに確認が必要で——」

 「確認はいい。俺が行く。場所はメキシコか」

 「……今は病院にいます。二名が」

 「病院か。では退院してから」

 「でも、スケジュールが——」

 「俺のスケジュールは調整する。問題ない」

 「……」

 「それより、あの女の子に伝えてくれ。フォームを直せば、もっと高く蹴れる。開脚が足りない」

 マイケルは少し黙った。「……伝えます」

 「頼む。それから、もう一つ」

 「何ですか」

 「あの白いマフラーの男に伝えてくれ。お前が思っていたよりずっと早く戻ってきた、と。俺は保証したはずだ」

 マイケルは、一年半前にヴァン・ダムが言った言葉を思い出した。「いつか、必ず使う時が来る。俺が保証する」。

 「……伝えます」

 電話が切れた。

 マイケルはスマートフォンを持ったまま、しばらく動かなかった。

 「どうした」とジェームズが聞いた。

 「ヴァン・ダムが来るそうです。グアダラハラに」

 「……なぜ」

 「ダリアさんに540度回転蹴りを教えると言っています。開脚が足りないそうです」

 編集室が静かになった。

 リャン・ファンがキーボードの上から顔を上げた。「……俺、まだ夢を見てるのかな」

 「夢じゃない」

 「夢じゃないのか」

 「夢じゃない」

 リャン・ファンはまたキーボードの上に顔を戻した。「……死にそう」

 「俺たちは全員死にそうだ」とジェームズは言った。「でも最高のものが撮れた」

 サラが膝を抱えたまま言った。「……本当にそうね」

 「後悔はないか」

 「ない。一ミリも」

 「よし」

 ジェームズはコーヒーを飲んだ。冷たかった。構わなかった。

 窓の外で、グアダラハラの朝が始まっていた。

 世界は、まだ燃えていた。


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