第33話 警官
サイレンが近づいた。
赤と青の光が、半壊したホテルの窓から差し込んだ。
「来た」
マルティネスが言った。
「警察か」
「そうだ。本物かどうかは——」
ヴィクトルが言った。
「待て」
全員が止まった。
「多すぎる」
ヴィクトルは窓から外を見た。
車両が五台。
制服の人間が降りてきた。
十人以上。
「警察がこの人数で来るか。今夜は遠ざかっていたのに」
「……おかしい」
ヨナタンが言った。
ジョンが言った。
「ダリア、下がれ」
「え?」
「下がれ」
その時、ロビーの扉が蹴破られた。
制服の男たちが雪崩れ込んできた。
「止まれ!」
スペイン語だった。
全員、銃を構えていた。
ジョンは手を上げた。
全員に目で伝えた。
動くな。
制服の男が一人、前に出た。
リーダーらしかった。
何かを叫んだ。
マルティネスが訳した。
「武器を置け、と言っている」
「……置く」
ジョンはゆっくり、ベレッタを床に置いた。
ヨナタンも置いた。
リーダーの男が何かを言った。
その目が、ダリアを見た。
ジョンは、その目を見た。
一瞬だった。
その目は、警察官の目ではなかった。
男が、一歩踏み出した。
ダリアに向かって。
もう一歩。
ダリアの体が、わずかに後ずさった。
男の右手が、動いた。
「ダリア——」
男が銃を引き抜いた。
銃口がダリアに向いた。
ジョンの体が動いた。
考える前に。
ダリアの前に飛び込んだ。
銃声が響いた。
左腕を、何かが貫いた。
次の瞬間。
後ろで、倒れる音がした。
ジョンは振り向いた。
ダリアが床にいた。
「——」
白が、赤くなっていった。
白いドレスが浮かんだ。
赤く染まっていく白いドレスが。
崩れ落ちる体が。
「スヨン——」
声が出かけた。
その瞬間。
金髪が見えた。
スヨンじゃない。
ダリアだ。
「今度は守り切って」
ダリアの声が耳の中にあった。
ジョンは、男を見た。
リーダーが、また銃口を向けようとしていた。
ジョンは立ち上がった。
腕から血が流れていた。
構わなかった。
声が、腹の底から出た。
言葉ではなかった。
雄叫びだった。
それが合図だった。
ヴィクトルが動いた。
マルティネスが動いた。
ヨナタンが動いた。
同時だった。
ヴィクトルは一番近い男の腕を掴んだ。
引き込んで、二人目に叩きつけた。
銃が飛んだ。
マルティネスは体ごとぶつかった。
肋骨が痛んだ。構わなかった。
相手の銃を持つ腕を取った。
床に叩きつけた。
ヨナタンは冷静に動いた。
右の男の手首を取った。
銃口を隣の男に向けた。
引き金を引かせた。
二人が同時に崩れた。
ジョンは、リーダーに向かった。
腕が痛かった。
血が出ていた。
止まらなかった。
男が銃を向けた。
体を回した。
銃口の外側に入った。
腕を取った。
ねじ上げた。
銃が落ちた。
肘が顎に入った。
男が崩れた。
膝が腹に入った。
男が床に転がった。
「サラ!」
ジョンが叫んだ。
「こっちよ!」
サラがダリアを引きずって、柱の陰に入っていた。
既に処置を始めていた。
ジョンは走った。
柱の陰に入った。
ダリアが床にいた。
目を閉じていた。
呼吸が、見えなかった。
サラが傷口を押さえていた。
手が、赤かった。
出血が多かった。
サラの顔を見た。
一瞬だけ、険しかった。
プロが見せる表情ではなかった。
それがジョンに、全部を伝えた。
「……状態は」
「今は黙って」
サラは答えなかった。
手を動かし続けていた。
ジョンは、ダリアの顔を見た。
青白かった。
動いていなかった。
「……ダリア」
返事がなかった。
「……」
ジョンは、サラを見た。
サラは手を止めなかった。
顔が、険しかった。
「サラ」
「黙って」
「……」
「今は黙っていて」
ジョンは、ダリアを見た。
動かなかった。
「……」
スヨンが浮かんだ。
あの日。
白いドレスが赤く染まった日。
間に合わなかった日。
今日も——
「ダリア」
声が、出なかった。
名前だけが、口の中にあった。
ダリア。
スヨンではなく、ダリア。
ジョンは、その事実を、静かに受け取った。
いつから切り替わっていたのか、分からなかった。
気づかないうちに、そうなっていた。
「……」
ダリアの手を握った。
冷たかった。
「……離さない」
誰にでもなく、呟いた。
マルティネスが来た。
ダリアを見た。
ジョンを見た。
何も言わなかった。
ヴィクトルが来た。
ロビーの男たちを確認した後、柱の陰を覗いた。
ジョンと目が合った。
ヴィクトルは、何も言わなかった。
ただ、頷いた。
それだけだった。
遠くから、別のサイレンが聞こえてきた。
今度は、本物だった。
マルティネスが言った。
「ジョン、こいつらの正体が分かった」
「……何者だ」
「カルテルだ。警察に成りすましていた」
「……」
「内部に人間がいたんじゃない。カルテルが警察の制服を用意した。一晩だけ使えばよかった」
ヴィクトルが言った。
「それがカルテルだ。金で何でも買う。一晩の偽装で、俺たちを終わらせようとした」
ジョンは、ダリアの手を握ったままだった。
「……終わらせられなかった」
誰に言うでもなく。
本物のサイレンが、近くなってきた。
救急車が来た。
担架が来た。
ダリアが運ばれていった。
サラが付き添った。
ジョンは立ち上がれなかった。
ヴィクトルが肩を掴んだ。
「立て」
「……」
「行け。ダリアの側にいろ」
ジョンは立ち上がった。
担架を追った。
グアダラハラの夜明けが、始まっていた。
空が、白から橙へ変わっていた。
バンコクと同じ色だった。
ジョンは、空を見た。
「……スヨン」
呟いた。
返事はなかった。
「……俺は、ダリアが心配だ」
言葉にすると、それが全てだった。
スヨンへの気持ちが消えたわけではなかった。
消えることはないと思った。
でも今、この瞬間——
ダリアのことだけが、頭にあった。
「……行ってくる」
誰にでもなく。
スヨンにでもなく。
自分に言い聞かせるように。
ジョンは担架を追って、走り始めた。




