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第30話 喧嘩


 翌朝だった。

 ロドリゲスが来た。

 カルテルの六人を引き取った。

 手短に礼を言って、去った。

 六人は、ホテルの食堂で朝食を取っていた。

 誰も多くは喋らなかった。

 ヴィクトルがコーヒーを飲んでいた。

 マルティネスがパンをちぎっていた。

 ヨナタンは窓の外を見ていた。

 サラは静かに食べていた。

 ダリアはジョンの隣に座っていた。

 ジョンは食事に手をつけていなかった。

 しばらくして、ジョンが言った。

 「ダリア」

 「何?」

 ジョンは前を向いたまま言った。

 「ウクライナに帰れ」

 テーブルが、静かになった。

 ダリアはジョンを見た。

 「……何て言ったの」

 「ウクライナに帰れ。今すぐではない。だが、帰れ」

 「……なぜ」

 「俺の側は危険だ。昨夜も分かっただろう」

 「……」

 「カルテルはまた来る。次はもっと多く来る」

 「……」

 「守れる保証はない」

 ダリアは、ジョンを見ていた。

 しばらく、何も言わなかった。

 それから、静かに立ち上がった。

 椅子を引く音がした。

 「外で話しましょ」

 声が、低かった。

 ホテルの裏手だった。

 路地に面した小さなスペースだった。

 ダリアはジョンと向き合った。

 「……本気で言ってるの」

 「本気だ」

 「帰れって」

 「そうだ」

 ダリアは少し間を置いた。

 「理由を全部言いなさいよ」

 「言った。危険だ。守れない」

 「それだけ?」

 「……それだけだ」

 ダリアの目が、変わった。

 「ジョン」

 「何だ」

 「私のことを、何だと思ってるの」

 ジョンは答えなかった。

 「守ってあげるお姫様? 足手まといの民間人? それとも——」

 ダリアは言葉を止めた。

 それから、続けた。

 「私はね、ジョン。売春婦だったのよ」

 ジョンは、ダリアを見た。

 「知ってる」

 「知ってるなら聞きなさい。ちゃんと聞いて」

 ダリアは、ジョンから目を逸らさなかった。

 「何十人もの男と寝た。生きるために。他に方法がなかったから」

 「……」

 「絶望だった。毎日が絶望だった。でも、それより前から絶望だった」

 「……」

 「父が死んだ。兄が死んだ。戦争で。一日で二人いなくなった。母はその後、病気で死んだ。私だけが残った」

 ダリアの声は、震えていなかった。

 怒っていた。

 「生きる意味が分からなかった。でも死ねなかった。死ぬ勇気もなかった。だから生きてた。それだけだった」

 「……」

 「その時に、あのドキュメンタリーを見た」

 ジョンは、ダリアを見ていた。

 「一回見て、二回見て、三回見た。何度も見た。三年間、見続けた」

 「……なぜだ」

 「なぜだと思う?」

 「……」

 「現実だったからよ」

 ダリアは続けた。

 「映画じゃない。ドラマじゃない。本物の人間が、本物の命を懸けて、本物の誰かを守っていた。スヨンさんを愛していた。仲間を信じていた。銃弾を受けても立ち上がった」

 「……」

 「本物の愛があった。本物のヒーローがいた。絶望の中で、それだけが唯一の希望だった」

 風が吹いた。

 ダリアの金髪が揺れた。

 「キーウの路地で、あなたを見た瞬間に分かった。これが現実になったって。夢じゃないって」

 「……」

 「軽い気持ちでついてきたわけじゃない。三年分の気持ちがあった」

 ジョンは何も言わなかった。

 ダリアは続けた。

 声が少し高くなった。

 怒りが出てきていた。

 「あなたに盾になってもらった。何発も撃たれながら、離さなかった。あの時、私の気持ちは変わった」

 「……」

 「恋だったものが、愛になった。分かる?」

 「……」

 「恋は希望。愛は覚悟よ。あなたのそばにいると決めた。死んでもいいと思った。でも、あなたが死なせなかった」

 ジョンは、ダリアを見ていた。

 「……だから、帰れと言っている。危険だ」

 ダリアは、少し黙った。

 それから、また言った。

 声が、今度は低くなった。

 「ジョン、ドキュメンタリーに柏木さんが出てくるわよね」

 ジョンは、少し止まった。

 「……出てくる」

 「私、全部見た。柏木さんのことも知ってる」

 「……」

 「強い人だった。仲間思いだった。でも、目を逸らして逃げた。守るべき人から、守るべき気持ちから」

 「……」

 「その結末も知ってる」

 風が止んだ。

 「ジョンは柏木さんじゃない。分かってる」

 ダリアは、まっすぐジョンを見た。

 「でも今、柏木さんみたいになってる」

 ジョンは、ダリアを見た。

 「……違う」

 「違わないわよ。私を帰そうとしてる。目を逸らして逃がそうとしてる。それが柏木さんのやり方だった」

 「……俺は守ろうとしている」

 「守りたいなら側にいさせなさいよ」

 「……危険だ」

 「危険なのは分かってる」

 「……分かっていない」

 「分かってるって言ってるでしょ!」

 声が大きくなった。

 ダリアは、両手を握りしめていた。

 「気づいてるでしょ、ジョン。私の気持ちに気づいてるでしょ」

 「……」

 「気づいてて目を逸らすのは罪よ。スヨンさんへの冒涜でもある」

 ジョンは、ダリアを見た。

 「……それは違う」

 「どう違うの」

 「……スヨンは——」

 「スヨンさんは亡くなった。あなたに幸せになってほしいって言いながら」

 ジョンは、何も言えなかった。

 「私はスヨンさんの代わりじゃない。あの人にはなれない。なろうとも思わない」

 「……知ってる」

 「じゃあ私を私として見なさいよ」

 「……見ている」

 「見てない。見てたら帰れなんて言えない」

 ダリアは、少し息を吸った。

 声が、少し柔らかくなった。

 でも、まだ怒っていた。

 「ジョン。私はずっと絶望の中にいた。三年間、あなたのドキュメンタリーだけが希望だった。その希望が本物になった。あなたが本物だった。あなたの愛が本物だった」

 「……」

 「それを、帰れの一言で終わらせるの?」

 ジョンは、答えなかった。

 「答えなさいよ」

 ジョンは、ダリアを見た。

 「……」

 「答えてよ、ジョン」

 ジョンは少し間を置いた。

 「……守れない時が来るかもしれない」

 ダリアは、その言葉を聞いた。

 しばらく黙った。

 「……スヨンさんのことを言ってるの」

 ジョンは、答えなかった。

 答えなかったことが、答えだった。

 ダリアは、ジョンを見た。

 「ジョン」

 「……」

 「守れなかった時のことを、今から恐れてどうするの」

 ジョンは何も言わなかった。

 「守れなかったら、その時に泣けばいい。後悔すればいい。でも今は——」

 ダリアは、一歩近づいた。

 「今は、側にいさせて」

 ジョンは、ダリアを見た。

 金髪だった。

 青い目だった。

 スヨンとは全然違う顔だった。

 でも、目が似ていた。

 怖がっていても、まっすぐ見る目が。

 「……」

 ジョンは、何かを言おうとした。

 言えなかった。

 ダリアが言った。

 「分かった?」

 ジョンは少し間を置いた。

 「……分かった」

 ダリアは、少し息を吐いた。

 「……遅い」

 「……そうかもしれない」

 「もっと早く分かりなさいよ」

 「……努力する」

 ダリアは、ジョンを見た。

 まだ少し怒っていた。

 でも、目が少し違った。

 「……泣きそうだわ」

 「……泣いていい」

 「泣かないわよ」

 「……そうか」

 「あなたの前では泣かない」

 「……なぜだ」

 「……まだ負けた気がするから」

 ジョンは、少し間を置いた。

 「……喧嘩じゃない」

 「喧嘩よ」

 「……俺は」

 「喧嘩よ。そして私が勝った」

 ジョンは何も言わなかった。

 ダリアは、ジョンのマフラーを少し直した。

 何も言わずに。

 それから、ホテルに戻っていった。

 ジョンは、一人で路地に立っていた。

 しばらく動かなかった。

 「……スヨン」

 小さく呟いた。

 返事はなかった。

 でも、どこかで、笑っている気がした。

 「……うるさい」

 日本語だった。

 白いマフラーが、風に揺れた。


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