第2話 噂
街には、噂が流れる速さがある。
新聞はない。テレビはほとんど映らない。インターネットは繋がったり切れたりする。だから、人の口が街の神経だった。市場で、路地で、宿の軒先で、人々は話す。話すことで、生きていることを確かめる。
その週、街で最も多く語られたのは、一人の男の噂だった。
市場の香辛料屋、ウンム・ハリドは六十二歳だった。
夫は五年前に死に、息子は戦争に取られた。今は一人で店を続けている。続けることしか、生きる術がなかった。
彼女は、チェックポイントで起きた出来事を見ていた。
老人が荷物を叩きつけられた。黒い眼帯の男が現れた。金を出し、老人を通した。
「あの男、誰だい」
隣の布屋の女房に聞いた。
「知らない。でも、昨日も見たよ。廃墟の近くで、子供たちにナツメヤシをやってた」
「外国人かい」
「そう見える。でも、少しアラビア語が分かるみたいだった」
「名前は」
「ジョン、とか言ってたって」
ウンム・ハリドは腕を組んだ。
「ジョン……苗字は」
「ないってさ」
「……変わった男だね」
宿の主人、アブ・サリムは五十八歳だった。
この街で生まれ、この街で育ち、この街で宿を続けてきた。戦争が来ても、勢力が変わっても、宿だけは残った。旅人には宿がいる。それだけが理由だった。
黒い眼帯の男が泊まってから、一週間が経った。
毎朝、男は黙ってチャイを受け取り、礼を言い、外に出る。夜に戻る。それだけだった。
だが、男が出た後、必ず誰かが話を持ってきた。
「あの男、略奪者を三人素手でやったらしい」 「怪我人を病院に運んだって」 「チェックポイントで老人を助けた」 「子供にパンを買ってやった」
アブ・サリムは、男が帰るのを待った。
夜、男が玄関に入ってきた。
「お帰り」
「……ただいま」
少し間があった。
「一つ聞いていいか」
男は足を止めた。
「なぜ、ここにいる」
男は少し考えた。
「歩いていたら、着いた」
「どこから来た」
「覚えていない」
「どこへ行く」
「分からない」
アブ・サリムは男の目を見た。右目だけが光っている。嘘ではなかった。本当に、空っぽだった。
「明日も泊まるか」
「……朝になれば分かる」
「そうか」
鍵を差し出した。
「部屋は同じでいい。好きなだけいろ」
男は小さく頷いた。
「助かる」
それだけ言って、階段を上がっていった。
アブ・サリムは、その背中を見送った。
何者かは分からない。
だが——この街に必要な何かを、この男は持っていた。
少年の名前は、ファリスといった。
十一歳。家族はいない。兄と二人で生きていた。
あの日から、ファリスは男を探すようになった。
市場。宿の近く。廃墟の陰。
男は、いつも一人で歩いていた。
そして、何かが起きる場所には、必ずいた。
ある日、ファリスは声をかけた。
「ジョン」
男が振り向いた。
「……またお前か」
「毎日いるじゃん」
「歩いてるだけだ」
「なんで歩いてるの」
「足があるから」
ファリスは顔をしかめた。
「その答え、嫌い」
男は、わずかに笑った。
「ジョン、強いよな」
「大したことはない」
「嘘だ。全部見てる」
「……見てたのか」
「うん。毎日」
男は少しだけ困った顔をした。
「ストーカーか」
「違う。護衛だ」
「護衛?」
「俺がジョンを守る」
しばらく沈黙。
「……逆だろ」
「逆じゃない。この街のこと、全部知ってる」
男は煙草に火をつけた。
「名前は」
「ファリス」
「……案内料は」
「いらない。飯でいい」
「飯か」
「ナツメヤシじゃ足りない」
男は立ち上がった。
「行くぞ」
「今?」
「腹減ってるんだろ」
「……減ってる!」
同じ頃、街外れの廃工場。
カーリムは煙草を吸っていた。
「ジョンという男がいます」
部下が言った。
「知っている」
「チェックポイントで我々の邪魔をし、略奪者を排除し、怪我人を運び——」
「知っている」
短く遮った。
「どこの人間だ」
「不明です」
「組織は」
「単独のようです」
カーリムは煙を吐いた。
「……放っておけ」
「しかし——」
「今はいい。一人の男だ」
部下は下がった。
カーリムは窓の外を見た。
ただ歩いて、ただ助ける男。
それが、一番厄介だった。
政府軍駐屯地。
ラシードは報告書を見ていた。
「身元不明。武器なし。素手で制圧」
眉をひそめた。
「……何だそれは」
「不明です」
「CIAか」
「分かりません」
「MI6か」
「分かりません」
「……民間か」
「金を取らず、助けるだけです」
ラシードは椅子にもたれた。
「それが一番面倒だな」
副官は黙った。
「接触する。話を聞く」
夜。
宿の食堂。
ファリスは夢中で食べていた。
「うまいか」
「うまい」
「そうか」
「ジョン、食べないの」
「食べてる」
「少ない」
「足りてる」
ファリスはスープを飲み干した。
「街中、ジョンの話してる」
「迷惑だ」
「なんで」
「目立ちたくない」
「いいことしてるのに」
ジョンは答えなかった。
窓の外を見た。
「……ここに長くいるの」
「分からない」
「またいなくなる?」
「その可能性は高い」
「……また会える?」
「生きていればな」
ファリスは少し黙った。
「死ぬ気ないだろ」
「ない」
「絶対?」
「死んでたまるか」
ファリスは笑った。
「それ、好き」
ジョンは小さく息を吐いた。
「そうか」
食事を終え、外に出た。
「帰れるか」
「余裕」
「そうか」
三歩進んで、ファリスは振り返った。
「明日もいる?」
ジョンは空を見た。
「……朝になれば分かる」
ファリスは笑って走っていった。
ジョンは宿に戻った。
噂は広がっている。
面倒になる。
分かっていた。
それでも——
足は止まらなかった。
明日も、歩く。
体が動く限り。




