表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/73

第2話 噂


 街には、噂が流れる速さがある。


 新聞はない。テレビはほとんど映らない。インターネットは繋がったり切れたりする。だから、人の口が街の神経だった。市場で、路地で、宿の軒先で、人々は話す。話すことで、生きていることを確かめる。


 その週、街で最も多く語られたのは、一人の男の噂だった。





 市場の香辛料屋、ウンム・ハリドは六十二歳だった。


 夫は五年前に死に、息子は戦争に取られた。今は一人で店を続けている。続けることしか、生きる術がなかった。


 彼女は、チェックポイントで起きた出来事を見ていた。


 老人が荷物を叩きつけられた。黒い眼帯の男が現れた。金を出し、老人を通した。


 「あの男、誰だい」


 隣の布屋の女房に聞いた。


 「知らない。でも、昨日も見たよ。廃墟の近くで、子供たちにナツメヤシをやってた」


 「外国人かい」


 「そう見える。でも、少しアラビア語が分かるみたいだった」


 「名前は」


 「ジョン、とか言ってたって」


 ウンム・ハリドは腕を組んだ。


 「ジョン……苗字は」


 「ないってさ」


 「……変わった男だね」





 宿の主人、アブ・サリムは五十八歳だった。


 この街で生まれ、この街で育ち、この街で宿を続けてきた。戦争が来ても、勢力が変わっても、宿だけは残った。旅人には宿がいる。それだけが理由だった。


 黒い眼帯の男が泊まってから、一週間が経った。


 毎朝、男は黙ってチャイを受け取り、礼を言い、外に出る。夜に戻る。それだけだった。


 だが、男が出た後、必ず誰かが話を持ってきた。


 「あの男、略奪者を三人素手でやったらしい」  「怪我人を病院に運んだって」  「チェックポイントで老人を助けた」  「子供にパンを買ってやった」


 アブ・サリムは、男が帰るのを待った。


 夜、男が玄関に入ってきた。


 「お帰り」


 「……ただいま」


 少し間があった。


 「一つ聞いていいか」


 男は足を止めた。


 「なぜ、ここにいる」


 男は少し考えた。


 「歩いていたら、着いた」


 「どこから来た」


 「覚えていない」


 「どこへ行く」


 「分からない」


 アブ・サリムは男の目を見た。右目だけが光っている。嘘ではなかった。本当に、空っぽだった。


 「明日も泊まるか」


 「……朝になれば分かる」


 「そうか」


 鍵を差し出した。


 「部屋は同じでいい。好きなだけいろ」


 男は小さく頷いた。


 「助かる」


 それだけ言って、階段を上がっていった。


 アブ・サリムは、その背中を見送った。


 何者かは分からない。


 だが——この街に必要な何かを、この男は持っていた。





 少年の名前は、ファリスといった。


 十一歳。家族はいない。兄と二人で生きていた。


 あの日から、ファリスは男を探すようになった。


 市場。宿の近く。廃墟の陰。


 男は、いつも一人で歩いていた。


 そして、何かが起きる場所には、必ずいた。





 ある日、ファリスは声をかけた。


 「ジョン」


 男が振り向いた。


 「……またお前か」


 「毎日いるじゃん」


 「歩いてるだけだ」


 「なんで歩いてるの」


 「足があるから」


 ファリスは顔をしかめた。


 「その答え、嫌い」


 男は、わずかに笑った。


 「ジョン、強いよな」


 「大したことはない」


 「嘘だ。全部見てる」


 「……見てたのか」


 「うん。毎日」


 男は少しだけ困った顔をした。


 「ストーカーか」


 「違う。護衛だ」


 「護衛?」


 「俺がジョンを守る」


 しばらく沈黙。


 「……逆だろ」


 「逆じゃない。この街のこと、全部知ってる」


 男は煙草に火をつけた。


 「名前は」


 「ファリス」


 「……案内料は」


 「いらない。飯でいい」


 「飯か」


 「ナツメヤシじゃ足りない」


 男は立ち上がった。


 「行くぞ」


 「今?」


 「腹減ってるんだろ」


 「……減ってる!」





 同じ頃、街外れの廃工場。


 カーリムは煙草を吸っていた。


 「ジョンという男がいます」


 部下が言った。


 「知っている」


 「チェックポイントで我々の邪魔をし、略奪者を排除し、怪我人を運び——」


 「知っている」


 短く遮った。


 「どこの人間だ」


 「不明です」


 「組織は」


 「単独のようです」


 カーリムは煙を吐いた。


 「……放っておけ」


 「しかし——」


 「今はいい。一人の男だ」


 部下は下がった。


 カーリムは窓の外を見た。


 ただ歩いて、ただ助ける男。


 それが、一番厄介だった。





 政府軍駐屯地。


 ラシードは報告書を見ていた。


 「身元不明。武器なし。素手で制圧」


 眉をひそめた。


 「……何だそれは」


 「不明です」


 「CIAか」


 「分かりません」


 「MI6か」


 「分かりません」


 「……民間か」


 「金を取らず、助けるだけです」


 ラシードは椅子にもたれた。


 「それが一番面倒だな」


 副官は黙った。


 「接触する。話を聞く」





 夜。


 宿の食堂。


 ファリスは夢中で食べていた。


 「うまいか」


 「うまい」


 「そうか」


 「ジョン、食べないの」


 「食べてる」


 「少ない」


 「足りてる」


 ファリスはスープを飲み干した。


 「街中、ジョンの話してる」


 「迷惑だ」


 「なんで」


 「目立ちたくない」


 「いいことしてるのに」


 ジョンは答えなかった。


 窓の外を見た。


 「……ここに長くいるの」


 「分からない」


 「またいなくなる?」


 「その可能性は高い」


 「……また会える?」


 「生きていればな」


 ファリスは少し黙った。


 「死ぬ気ないだろ」


 「ない」


 「絶対?」


 「死んでたまるか」


 ファリスは笑った。


 「それ、好き」


 ジョンは小さく息を吐いた。


 「そうか」





 食事を終え、外に出た。


 「帰れるか」


 「余裕」


 「そうか」


 三歩進んで、ファリスは振り返った。


 「明日もいる?」


 ジョンは空を見た。


 「……朝になれば分かる」


 ファリスは笑って走っていった。





 ジョンは宿に戻った。


 噂は広がっている。


 面倒になる。


 分かっていた。


 それでも——


 足は止まらなかった。


 明日も、歩く。


 体が動く限り。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ