第1話 街が死んでいく
モスル近郊の街に、朝が来た。
来た、というより——ただ明るくなっただけだった。
夜が終わり、光が戻り、また一日が始まる。それだけのことだ。
希望でも何でもない。ただの時間の流れだった。
ジョン・ドゥは、安宿の窓から外を見ていた。
街の様子は、昨日と変わらない。
壊れたままの建物。修理される気配のない道路。路上に散らばったゴミ。
その間を、人々が俯いて歩いている。
急いでいるわけではない。
急ぐ場所がない。
それでも立ち止まらない。立ち止まれば、目をつけられるからだ。
紛争は、表向き終わっていた。
だが——終わっていない。
武装勢力の残党。
腐敗した政府軍。
略奪で生きる連中。
チェックポイントと称して金を毟る者たち。
敵も味方も、もう分からない。
分かるのは一つだけだ。
弱い者が死ぬ。
ジョン・ドゥは、チャイを飲んだ。
宿の主人が黙って置いていったものだ。
礼を言うと、主人は首を振った。
余計なことは話さない。
この街では、それが礼儀だった。
白いマフラーを巻く。
MA-1のジッパーを上げる。
外に出た。
午前中、ジョンは市場を歩いた。
目的はない。ただ歩く。
右目だけで、街を見ていた。
野菜を売る老婆。
布袋を抱えて歩く子供たち。学校が機能しているかは分からない。
パンを焼く男。路上で靴を磨く少年。
壊れた街の中で、人は生きていた。
その時、怒声が上がった。
市場の入り口。チェックポイント。
武装した男が四人。制服は着ているが、どこのものかは分からない。
もう、どうでもいいことだった。
老人が止められていた。
七十代。背は曲がり、両手に荷物を抱えている。
「通行料だ」
「持っていない。本当にない」
「嘘をつくな」
荷物が叩き落とされた。
野菜が転がり、籠が割れた。
ジョンの足が動いた。
「待て」
英語だった。
男たちが振り向く。
「何だ、お前は」
「通行人だ」
「通行料が必要だ」
「知ってる」
ジョンは金を出した。少し多めに。
「これで足りるか」
男たちは金を見る。十分だった。
リーダー格がそれを受け取り、顎で示す。
「行け」
老人は震える手で荷物を拾い集めた。
壊れた籠も、そのまま抱えた。
通り過ぎる際、小さく頭を下げる。
ジョンは何も言わなかった。
路地に入る。
煙草に火をつける。メンソール。
一口吸った。
これでよかったのか、考えない。
考えても意味がない。
金で解決できるなら、それでいい。
昼過ぎ。
廃墟のモスクの近く。
泣き声。
路地の奥。
五人の少年が、一人の少女を囲んでいた。
パンを奪おうとしている。
少女は離さない。泣きながら、それでも抱えている。
少年たちの目も必死だった。
ジョンは立ち止まった。
少しだけ見て、ポケットに手を入れる。
「おい」
全員が振り向いた。
ジョンは袋を見せる。乾燥ナツメヤシ。
「これをやる。そのパンは返せ」
少年たちは顔を見合わせる。
疑っている。
ジョンは袋を地面に置き、一歩下がった。
「取っていい」
少年たちは飛びついた。
少女はパンを抱えたまま、ジョンを見る。
「……ありがとう」
小さな声。
ジョンは頷いた。それだけだった。
夕方。
街外れの廃墟。
銃声。
ジョンは走っていた。
考えるより先に、体が動いていた。
倒れた男。腹を撃たれている。
その前に、武装した二人。
「財布はどこだ」
「……ない」
「嘘をつくな」
ジョンは間に立つ。
「やめろ」
銃口が向く。
「どけ。関係ない」
「ある」
「なぜだ」
「俺が決める」
銃口がこめかみに押しつけられる。
ジョンは男を見る。
右目だけで。
「撃てばいい」
静かだった。
虚勢ではない。
本気だった。
男の指が止まる。
一瞬。
ジョンは動いた。
手首を外に。銃口が逸れる。
発砲。弾は空へ。
肘打ち。崩れる。
振り返りざまに膝。
頭が下がったところに肘。
二人とも沈黙した。
ジョンはしゃがむ。
傷を見る。
深くはない。だが放置すれば死ぬ。
「動けるか」
頷き。
「病院は」
「……東、三百メートル」
肩を貸す。
歩き出す。
重い。
関係ない。
「……なぜ助ける」
「さあな」
「……何者だ」
「ジョン・ドゥ」
「どこの人間だ」
「忘れた」
病院に着く。
壁は崩れ、窓もない。
それでも人はいた。
看護師が駆け寄る。
男を引き渡す。
「名前は!」
「ジョン・ドゥ」
「住所は!」
「ない」
夜。
宿に戻る。
マフラーを外す。
チェーンを取り出す。
指輪。
しばらく見つめる。
「今日も、死なせなかった」
小さく言う。
報告のように。
外は暗い。
だが、どこかに灯りがある。
人が生きている灯りだ。
指輪を戻す。
横になる。
眠れるかは分からない。
それでも——
明日も歩く。
それだけは、分かっていた。




