プロローグ
砂が、風に運ばれていた。
イラク北部。モスルから東へ三十キロ。名もない街。地図にも載らない市場。石造りの建物が並ぶ路地を、白いマフラーを巻いた男が歩いていた。
黒いMA-1。ジーンズ。スニーカー。黒い眼帯。
観光客ではない。軍人でも、記者でも、支援団体の人間でもない。
ただ、歩いていた。
午後の市場は熱気に満ちていた。香辛料の匂い。焼けた鉄の匂い。羊の獣臭。アラビア語とクルド語が入り混じり、喧騒は絶えない。
男は屋台でチャイを一杯買った。
代金を払うとき、店主がちらりと男の顔を見た。黒い眼帯。無精髭。四十代か。どこの国の人間か分からない顔。
だが、何も言わなかった。男も何も言わなかった。
チャイを受け取り、路地の端に立つ。
白いマフラーの端を風が揺らした。
男は無意識にそれを押さえた。
一口飲む。熱い。甘い。
それだけだった。
男はジョン・ドゥと名乗っていた。
本名かどうかは、誰も知らない。本人も、もう気にしていなかった。
右目だけで市場を眺める。
子供が走る。老人が荷物を運ぶ。女たちが布を広げ、値段を交渉している。
どこにでもある午後だった。
こんな場所にも、そんな時間はある。
マフラーを少し直す。
首元に細いチェーンがある。Tシャツの下に隠れている。先に何がついているのかは見えない。
男は、それには触れなかった。
チャイを飲み干し、カップを返す。
また歩き出す。
そのときだった。
声がした。
路地の奥。石壁の陰。
怒鳴り声と、子供の泣き声。
アラビア語だった。意味はだいたい分かる。
「黙れ」「金はどこだ」
男の足が止まる。
聞こえていた。
聞こえていたのに――動かなかった。
一秒。
二秒。
その間に、体が先に動いた。
考えるより早く。
理由を探すより前に。
角を曲がる。
狭い空間。石壁に囲まれた袋小路。
三人の男が、一人の少年を囲んでいた。
十歳前後。痩せた体。裸足。顔に古い傷。
三人は銃を持っていた。AKの銃口が少年に向いている。
その間に、男は立っていた。
三人が振り向く。
黒いジャケット。黒い眼帯。白いマフラー。
「なんだ、お前は」
アラビア語。
男は少しだけ考えた。
「ジョン・ドゥ」
英語で答えた。
「……は?」
「名前だ」
三人は顔を見合わせる。
銃口が少年から男へ移る。
男は動かない。
三本の銃口を、右目で受け止める。
怖くないわけではない。
だが――
「その子から離れろ」
声は低く、静かだった。
怒鳴らない。脅さない。ただ告げる。
「撃つぞ」
「撃てばいい」
「……何だと?」
「撃てばいいと言った」
一瞬の沈黙。
三人の顔が歪む。
目がおかしかった。
恐れていない目ではない。
――死ぬことを前提にしていない目だった。
「選べ」
男が言う。
「今すぐ消えるか、俺に殴られるか」
風が抜ける。
マフラーが揺れる。
一人が引き金に指をかけた。
その瞬間、男は動いていた。
一歩。半歩。体が斜めに滑る。
銃声。弾が壁を削る。
左の男の手首を掴む。捻る。銃が落ちる。肘が顎を打つ。崩れる。
流れを止めない。
右へ回り込み、二人目の腕を絡める。体ごと引き、三人目へ叩きつける。
二人まとめて倒れる。
三秒だった。
男は見下ろした。
三人は動けない。
動く気力もない。
「消えろ」
這うように、三人は去った。
静寂。
少年が壁に張り付いたまま、男を見ている。
大きな目。怯えと、驚きと、何か別の感情。
男はしゃがんだ。目線を合わせる。
「怪我は?」
英語。
少年は首を振る。
「そうか」
少年が言う。
震える声。アラビア語。
「……なんで助けた?」
男は少し考えた。
「さあな」
立ち上がる。
マフラーを直す。
少年はまだ見ている。
「怖くないのか? 銃、向けられてた」
男は路地の外を見る。
砂埃。遠くの喧騒。
小さく言う。
「死ぬ気はない」
それから、ほんの少し間を置いて。
「死んでたまるか、と思ってる」
日本語だった。
少年には分からない。
だが、表情で理解した気がした。
「ありがとう」
少年が言う。
男は軽く頷いた。
そして、また歩き出す。
白いマフラーが、砂の中で揺れていた。




