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第28話 敬意


 警察が来たのは、三十分後だった。

 マルティネスがパブロと姉のエルナに事情を聞いていた。

 スペイン語だった。流暢だった。

 エルナは泣きながら話した。

 マルティネスは静かに聞いていた。

 サイレンが路地に響いた。

 警察車両が二台、路地の入口に停まった。

 制服の警察官が四人降りてきた。

 倒れている三人の男を見た。

 バンを見た。

 ジョンを見た。

 警察官の一人が、マルティネスに話しかけた。

 スペイン語だった。

 マルティネスが答えた。

 しばらくやり取りが続いた。

 それから、マルティネスがジョンに言った。

 「署まで来てほしいそうだ」

 「……また逮捕か」

 「逮捕じゃないと言ってる。事情を聞きたいだけだと」

 「……ベトナムと同じ台詞だな」

 「そうだな。でも雰囲気が違う」

 ジョンは警察官を見た。

 確かに、違った。

 銃口を向けてこなかった。

 手錠を出してこなかった。

 距離を保って、静かに立っていた。

 「……分かった。行く」

 警察官が、ジョンの膝を見た。

 アスファルトで裂けていた。血が乾き始めていた。

 何かを言った。

 マルティネスが訳した。

 「手当てをしてからでいいと言っている」

 ジョンは少し間を置いた。

 「……構わない。このままで行く」

 マルティネスが訳すと、警察官は頷いた。

 それだけだった。

 警察署に着いた。

 連行と呼ぶには、静かすぎた。

 署内に入ると、廊下の警察官たちがジョンを見た。

 視線が集まった。

 だが、誰も何も言わなかった。

 通された部屋は、取調室ではなかった。

 応接室だった。

 ソファがあった。

 テーブルにコーヒーが置かれていた。

 ジョンは少し間を置いてから、座った。

 しばらくして、男が入ってきた。

 五十代だった。

 制服ではなかった。

 私服だった。

 背筋が真っ直ぐだった。

 目が静かだった。

 男は、ジョンの向かいに座った。

 英語で話し始めた。

 ゆっくりと。丁寧に。

 「私はロドリゲスと申します。グアダラハラ広域犯罪捜査局の局長です」

 ジョンは、男を見た。

 「……ジョン・ドゥだ」

 「存じています」

 ロドリゲスは、ファイルを一冊テーブルに置いた。

 「今日のことから話しましょうか」

 「……どうぞ」

 「今日あなたが救出した女性、エルナ・ガルシアと言います。二十三歳です」

 「……そうか」

 「彼女は、ローレンソ・カルテルという組織に狙われていました」

 ジョンはコーヒーには手をつけなかった。

 ロドリゲスを見ていた。

 「ローレンソ・カルテルは、この地域を中心に人身売買と麻薬の密売を行っている組織です。規模は大きくない。だが、残忍で、執拗だ」

 「……」

 「今日、あなたが倒した三人はその末端構成員です。あなたのおかげで、エルナさんは助かった」

 「……それだけを言いに来たわけではないだろう」

 ロドリゲスは少し笑った。

 「そうです」

 ファイルを開いた。

 「ジョン・ドゥ。タイ国籍。元王室犯罪対策局特別強襲部隊。タイ王室騎士団叙任者」

 ジョンは、ロドリゲスを見た。

 「……よく調べた」

 「Netflixのドキュメンタリーを見ました」

 「……」

 「私だけではない。うちの署員も全員見ています」

 ジョンは少し間を置いた。

 「……それで」

 「先に、お礼を言わせてください」

 ロドリゲスは立ち上がった。

 深く、頭を下げた。

 「エルナさんを助けていただき、ありがとうございました」

 ジョンは、ロドリゲスを見た。

 何も言えなかった。

 ロドリゲスは座り直した。

 「次に、現状をお伝えしたい。聞いていただけますか」

 「……聞く」

 ロドリゲスはファイルを繰った。

 「グアダラハラは、複数のカルテルが勢力を争っている街です。今日救出したのはローレンソ・カルテル。他にも、ビジャレアル組織、サントス・ファミリアなど、大小合わせて八つの組織が活動しています」

 「……」

 「人身売買、麻薬、臓器密売。それぞれの組織が、それぞれのルートで動いています」

 「……警察は」

 「戦っています。だが、正直に言えば、追いつかない」

 ロドリゲスは、ジョンを見た。

 「今日あなたが倒した三人は、明日には別の三人に替わります。カルテルは人員が豊富だ」

 「……知っている」

 「タイでも同じでしたか」

 「……似ていた」

 沈黙が流れた。

 ロドリゲスが言った。

 「一つ、お願いがあります」

 ジョンは待った。

 「帰国していただけませんか」

 ジョンは、ロドリゲスを見た。

 「……追い出したいわけではない。誤解しないでほしい」

 ロドリゲスは続けた。

 「あなたは、今日だけでも三人を制圧した。それは事実です。助けられた命もある。それも事実です」

 「……」

 「だが、ここは違う。タイとは違う。カルテルは組織だ。一人を仕留めれば、家族ごと報復される。あなたの仲間も、一緒にいる女性も、危険に晒される」

 ジョンは、テーブルを見た。

 「……」

 「あなたのことが心配なのです」

 ロドリゲスは、静かな声で言った。

 「ドキュメンタリーを見た。あなたがどういう人間か、少しは分かった気がします」

 「……」

 「止まれない人間だということも、分かります」

 「……」

 「だからこそ、お願いしたい。ここで止まってほしい。ここだけは」

 ジョンは、ロドリゲスを見た。

 悪い男ではなかった。

 正しいことを言っていた。

 「……考える」

 ロドリゲスは頷いた。

 「それで十分です」

 立ち上がった。

 「今夜は泊まっていってください。宿を用意します」

 「……いい」

 「いいえ、用意します。あなたの膝の手当てもしなければ」

 「……」

 「それから、一つだけ聞いていいですか」

 「……何だ」

 ロドリゲスは、ジョンのマフラーを見た。

 「その白いマフラーは、ずっとつけているのですか」

 ジョンは少し間を置いた。

 「……そうだ」

 「大切なものですか」

 「……そうだ」

 ロドリゲスは頷いた。

 「そうですか」

 それだけ言って、部屋を出た。

 ジョンは一人になった。

 応接室は静かだった。

 コーヒーは冷めていた。

 ジョンは、白いマフラーに触れた。

 少し色が褪せていた。

 傷がついていた。

 血の染みが残っていた。

 「……スヨン」

 小さく呟いた。

 返事はなかった。

 当然だった。

 だが、不思議と、近くにいる気がした。

 廊下から、マルティネスの声が聞こえてきた。

 スペイン語だった。

 署員と何かを話しているらしかった。

 笑い声が聞こえた。

 ジョンは、その声を聞いていた。

 しばらくして、ドアがノックされた。

 「入れ」

 マルティネスが入ってきた。

 「どうだった」

 「……帰国を勧められた」

 「帰るのか」

 ジョンは少し間を置いた。

 「……考える」

 「考える、ってことは考えるんだな」

 「……そうだ」

 「帰らないってことじゃないのか」

 「……帰るかもしれない」

 マルティネスは、ジョンを見た。

 珍しいことだった。

 ジョンが「帰るかもしれない」と言ったことが。

 「……ロドリゲスさん、いい人だったか」

 「……そうだ」

 「何を言われた」

 「……カルテルは組織だ。仲間が危険に晒されると言われた」

 「……」

 「正しいことを言っていた」

 マルティネスは少し考えた。

 「ジョン」

 「何だ」

 「お前が決めたことに、俺たちはついていく」

 「……」

 「行くなら行く。帰るなら帰る」

 「……」

 「でも、一つだけ言っていいか」

 「……言え」

 マルティネスは、まっすぐジョンを見た。

 「お前は今、一人じゃない」

 ジョンは、マルティネスを見た。

 「……知ってる」

 「知ってるなら、一人で決めるな」

 「……」

 「みんなで決めろ。そういう話だろ、これは」

 ジョンは少し間を置いた。

 「……分かった」

 夜、署の応接室に六人が集まった。

 ロドリゲスが手配してくれた。

 ジョンが話した。

 ロドリゲスから聞いたことを、全員に伝えた。

 誰も口を挟まなかった。

 最後まで聞いた。

 ジョンが言った。

 「……みんなで決めたい」

 全員が、ジョンを見た。

 しばらく誰も言わなかった。

 ダリアが口を開いた。

 「ジョン」

 「何だ」

 「あなた、今日子供と握手してたわよね」

 「……した」

 「名前、聞いたの?」

 「……パブロだ」

 「パブロか」

 「……そうだ」

 ダリアは少し間を置いた。

 「あの子、また姉が攫われるかもしれない。そう思わない?」

 ジョンは答えなかった。

 「……私は帰らない」

 ダリアは言った。

 「帰る場所もないし、帰りたくもない。でもそれだけじゃなくて——」

 パブロの顔を思い浮かべているようだった。

 「あの子が、また泣くのを見たくない」

 サラが言った。

 「私も残るわ。サラ・コールマンはメキシコのカルテルごときで逃げないわよ」

 ヨナタンが言った。

 「残る。ジョンがいるから」

 マルティネスが言った。

 「俺はメキシコ系だぞ。故郷みたいなもんだ。逃げるわけにいかない」

 ヴィクトルが言った。

 「俺も残る」

 それだけだった。

 理由は言わなかった。

 ジョンは、全員を見た。

 「……ロドリゲスに伝える必要がある」

 「伝えましょ」

 ダリアが言った。

 「危険だと分かった上で残ると」

 「……そうだ」

 マルティネスが言った。

 「ロドリゲスさん、怒るかな」

 「怒らないわよ」

 サラが言った。

 「なんで分かるの」

 「いい人だから。怒っても、最終的には認めてくれるわ」

 ヴィクトルが言った。

 「俺が話す。ロドリゲスと直接話す」

 「スペイン語話せるのか」

 「話せない。英語で話す」

 「……」

 「共通の言語がある。どちらも、守りたいものがある人間だ」

 ジョンは、ヴィクトルを見た。

 「……頼む」

 ヴィクトルは頷いた。

 夜が、深くなっていた。

 グアダラハラの街に、静けさが戻っていた。

 警察署の窓から、街の明かりが見えた。

 どこかで、音楽が流れていた。

 ジョンは窓の外を見ていた。

 白いマフラーが、換気の風に揺れた。

 「……朝になったら分かる」

 誰にでもなく、呟いた。

 ダリアが隣に来た。

 「もう決まったでしょ」

 「……そうかもしれない」

 「絶対そうよ」

 「……」

 二人は、窓の外を見た。

 グアダラハラの夜は、静かだった。

 でも、その静けさの下に、何かが動いていた。

 ジョンには分かった。

 「……止まれないな」

 日本語だった。

 ダリアには意味が分からなかった。

 でも、声の色は分かった。

 覚悟の決まった声だった。


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