第18話 ベトナム語が分からない
タンソンニャット国際空港。
到着ロビーに出た瞬間、六人は止まった。
熱気だった。
それからすぐに、看板が目に入った。
ベトナム語だった。
全員、読めなかった。
マルティネスが言った。
「……読めないな」
「読めない」
ヨナタンが答えた。
「タクシーの看板も読めない」
「看板はタクシーの絵があるから分かる」
「絵は読める」
「読めるっていうのか、それ」
ヴィクトルが周囲を見渡した。
「英語の看板もあるが……少ない」
「ベトナム語、誰か分かるか」
全員がジョンを見た。
ジョンは少し間を置いた。
「……分からない」
沈黙。
マルティネスが言った。
「お前、東南アジアに何年いたんだ」
「タイにいた」
「タイとベトナムは違うのか」
「違う」
「全然違うのか」
「全然違う」
「……そうか」
ダリアが言った。
「ジョン」
「何だ」
「ベトナム語、分からないの?」
「分からない」
「本当に?」
「本当だ」
「一言も?」
「……一言も」
ダリアは、ジョンを見た。
少し考えた。
「何語が分かるの」
「日本語、英語、タイ語、アラビア語、ロシア語」
「五つも分かるのに、ベトナム語は分からないの」
「行ったことがない言語は分からない」
「タイ語はなんで分かるの」
「三年以上いたから」
「三年いたら話せるの?」
「……話せるようになった」
「じゃあ三年いたら話せるようになるわね、ベトナム語も」
「……三年かかる」
「今から始めれば三年後には話せる」
「……三年後は別の場所にいるかもしれない」
「じゃあ今から覚えればいい」
「……」
後ろからマルティネスの声が聞こえた。
「待て。俺、ジョンよりタイに長くいるけど、タイ語大して話せないぞ」
「……覚えようとしたかどうかの問題だ」
「じゃあ俺が悪いのか」
「……そういうことだ」
「腹立つな」
ダリアは少し考えた。
「とりあえず、ありがとうって何て言うの」
「……カムオン、だ」
「カムオン?」
「そうだ。さっきガイドブックで調べた」
「今調べたの?」
「……さっき」
ダリアはジョンを見た。
何かが、変わった気がした。
タクシー乗り場で、全員が止まった。
運転手に何を言えばいいか、誰も分からなかった。
マルティネスがスマートフォンを出した。
「翻訳アプリだ」
「使えるか」
「使える。ちょっと待て」
マルティネスはホテルの名前を打ち込んだ。
翻訳アプリが音声を出した。
ベトナム語が流れた。
運転手が何か言った。
マルティネスはアプリに向けた。
翻訳が出た。
「『何人ですか』って言ってる」
「六人だ」
「六人のベトナム語は——」
マルティネスはまた打ち込んだ。
アプリが音声を出した。
運転手が首を振った。
何か言った。
「『六人は乗れない、大きい車が必要』だそうだ」
「どうする」
「二台に分かれる」
二台のタクシーに分かれた。
ジョンとダリアとサラが一台。
マルティネス、ヨナタン、ヴィクトルが一台。
走り出した。
ホーチミンの街が窓の外を流れていく。
バイクが多い。クラクションが響く。
ダリアは窓の外を見ていた。
「賑やかね」
「そうだ」
「バイクがすごい」
「多い」
「危なくないの?」
「……慣れれば平気だ」
「あなた、慣れてるの?」
「……見たことはある」
ダリアはジョンを見た。
「ねえ、一つ聞いていい?」
「何だ」
「あなた、旅の計画とか立てるの?」
「……立てない」
「全然?」
「全然だ」
「どこに泊まるかとか」
「……着いてから決める」
「今日の宿は?」
「……マルティネスが調べていた」
「あなたは調べてないの?」
「……してない」
ダリアは少し間を置いた。
「ジョン」
「何だ」
「あなた、思ってたのと少し違う」
「……何が」
「もっと、全部無茶苦茶だと思ってた」
「……無茶苦茶だ」
「違う種類の無茶苦茶。ドキュメンタリーではもっと爆発してたじゃない」
「……あれは仕方ない状況だった」
「バイクで建物に突っ込んだり、18発撃たれても動いたり」
「……体が動いたから」
「計画してたわけじゃないの?」
「してない」
「全部?」
「全部だ」
「……そうなの」
ダリアは少し間を置いた。
「じゃあベトナム語が分からないのも」
「同じだ。来てから考えた」
「来てから考えるの?」
「来る前に考えても分からない。来てから分かることがある」
ダリアは少し笑った。
「可愛いわね、そういうところ」
ジョンは何も言わなかった。
窓の外を見た。
後部座席で、サラがダリアに小声で言った。
「ねえ」
「何?」
「さっき、可愛いって言ったわね」
「……言った」
「本気?」
ダリアはジョンを一瞥して、また小声で答えた。
「本気よ」
「どのへんが」
「ベトナム語が分からないのに来ちゃうところ。来てから考えるとか言うところ」
「分かるわ」
「ドキュメンタリーで見てた時は、もっと全部突っ走ってるイメージだった」
「突っ走ってるのよ、実際」
「でも突っ走り方が思ってたのと違う。もっとこう……爆発してると思ってた」
「爆発はするわよ。必要な時に」
「必要な時だけなのね」
「そう。普段は普通の人なの」
「普通じゃないけどね」
「普通じゃないけど、普通なのよ」
ダリアは窓の外のジョンの横顔を見た。
「でも、それがいいのかもね」
「そうかもしれない」
「全部計画通りの人って、息が詰まりそう」
「詰まるわね」
「計画してないから、何が起きても驚かない感じがする」
「……正確ね。あなた、よく見てるわ」
サラはダリアを見た。
「ダリア」
「何?」
「あなたが来てくれて、よかったと思う」
ダリアは少し驚いた顔をした。
「……ありがとう」
「本当のことだから」
もう一台のタクシー。
マルティネスが言った。
「なあ、ヴィクトル」
「何だ」
「ダリア、本当についてきたな」
「……そうだな」
「止めなくてよかったのか」
「止められなかった」
「なんで」
「俺が何を言っても、あの女は止まらない」
「お前でも止められないのか」
「……お前に止められるか」
「俺には無理だ」
「俺にも無理だ」
ヨナタンが言った。
「ジョンに似てる」
「何が」
「止まらないところ」
「……そういえばそうだな」
「同じ病気かもしれない」
マルティネスは天井を見た。
「うつったのかな、ジョンから」
「……可能性はある」
「ダリアはドキュメンタリーを何百回も見たんだろ」
「そう聞いた」
「何百回も見たら、うつるかもな」
「……動画越しにうつるのか」
「うつるんじゃないか。あの男は特別だから」
ヴィクトルは窓の外を見た。
「……厄介だな」
「何が」
「感染力が強すぎる」
「直接会わなくてもうつるってことだからな」
「……ドキュメンタリーを世界中に流したのは、まずかった」
「今さら言っても遅いぞ」
「……分かっている」
ホテルに着いた。
ロビーで六人が集まった。
マルティネスが言った。
「チェックインは英語で何とかなった。ベトナム語は要らなかった」
「最初からそうすればよかったな」
「空港でも英語でよかったな」
「……翻訳アプリは必要なかったかもしれない」
「でも面白かった」
「面白かったな」
ダリアが言った。
「今日、どうするの」
「街を歩く」
ジョンが答えた。
「目的は?」
「ない」
「目的なしで歩くの?」
「そうだ」
「……いつもそう?」
「そうだ」
「何かを探してるんじゃないの?」
ジョンは少し考えた。
「探してない。歩いてたら、何かに出会う」
「何かって何」
「……何かだ」
「具体的じゃない」
「具体的じゃなくていい」
ダリアは、ジョンを見た。
それから、小さく笑った。
「……面白いわね、あなた」
「面白くない」
「面白い。世界で一番有名な騎士様が、目的なく街を歩く」
「有名じゃない」
「Tシャツになってるのよ」
「……それは関係ない」
マルティネスが笑った。
「行くか。目的なく」
「行こう」
ヨナタンが言った。
六人はホテルを出た。
ホーチミンの熱気の中に、歩き出した。
クラクションが響く。バイクが流れる。屋台から香辛料の匂いがする。
目的はなかった。
でも、六人だった。
それだけで十分だった。




