22
「流石に寒いね」
十二月の夜の海は、ロマンチックを通り越してもはや地獄だった。目の前で波が静かに光っているのが見えるのに、それよりも頭の中は熱いおしるこのことでいっぱいだ。
くしゅんと逢坂君がくしゃみをした。
「大丈夫? これ返すよ」
慌てて、貸してもらったマフラーを首からほどこうとした。
「いらない」
彼は制するように、私の手首を掴んだ。凍える指先が触れ合った瞬間、絶対に痩せ我慢していると確信する。
「真鍋さんが、風邪ひくから」
まさかこんなに遠出するとは思わず、自分のマフラーを家に置き忘れたことが悔やまれる。
「私だって逢坂君が風邪ひくのやだ」
「平気だって。俺、海風には強いから。真鍋さんの方が華奢なんだから、巻いてて」
逢坂君は掴んだ私の手首を離すとマフラーの端を引っ張って、私の首にぐるっと巻きつけ直した。
彼の優しさに触れて、泣きそうになる。
でも、頭の中に浮かぶのは……。
「おしるこ食べたいね」
そう、私は今世界一おしるこを所望している。
「豚汁がいい」
「あー豚汁もいいねぇ。あとはおでんとか」
「ラーメン」
「あぁ……それはまずいって。ラーメンに全ての思考を奪われちゃったじゃん」
ロマンチックなはずの十二月の夜の海で、私の脳裏を占めるのは熱々の食べ物のこと。
我ながら食い意地が張っている自覚はあるけれど、この寒さの前では、愛の囁きより熱い出汁の香りの方がずっと説得力がある。
目をつぶると、もうザーザーという波の音が、沸騰した鍋から立ち上る湯気の音に聞こえてくる。潮風のしょっぱさが、塩気の効いたラーメンスープの匂いに勝手に変換される。
「あ……」と、逢坂君の短い声に目を開ける。
どうみても、パトカーっぽい青いライトが見えた。車を目で追っていると、ゆっくりとこちらに向かってくるのが分かった。
「え、もしかして……補導?」
十二月の深夜に、こんな海岸にいる高校生なんてどう見ても怪しい。さっきまで熱々のラーメンの夢を見ていた頭が一気に冷える。
いや、もうこれ以上冷えたら凍死するレベルだけど。
静かにゆっくりと走るパトカーは、私たちの数メートル手前で止まり、ドアが開いた。
中から冬用のコートを着た二人の警察官が降りてくる。
「君たち、真鍋唯さんと逢坂陽太君?」
「はい」
私たちは立ち上がった。
「交番に親御さんから連絡があってね。こっちに来るまで保護して欲しいって。無事でよかった」
優しい口調。怒られるのかと思ったけど、そうじゃなかった。
「親御さんは警察署に向かっているようだから、そこまで送るよ。一緒に来てくれるよね?」
「はい。お手数をおかけして申し訳ありません」と、逢坂君が頭を下げた。
「すみませんでした」
内心、熱々のカツ丼が食べられるのかな?と期待しながら、私も慌てて頭を下げる。
「俺たちじゃなくて、心配をかけたご両親に謝ろうかね。じゃ、行こうか」
私たちは、パトカーに乗せられた。
後部座席に逢坂君と並んで座る。
初めて乗るパトカーは、思ったより狭かった。でも温かくて、エアコンという文明の力のすごさを実感した。
「滅多にない経験ができたね」と、逢坂君にこっそり告げる。
「真鍋さん……」と、逢坂君は呆れたように、半目になった。
警察署に着くと、すでにパパたちが待っていると知らされたので、逃げ出したくなる。
いざ対面の時。どんな顔をしたらより効果的に二人に叱られないで済むかを考えていた。でも、達也パパと幸博パパは、すごく心配そうな顔をしていた。
「唯!」
達也パパが駆け寄ってきた。その瞬間、怒られると思って、身構える。
「よかった……本当によかった……」
達也パパは、私を抱きしめた。
強く、でも優しくしっかりと。
「心配したよ。無事で良かった」
その声は、まるで泣くのを堪えているように震えていた。
「ごめんなさい」
言った途端、私の目から、涙が溢れる。
「ごめんなさい、連絡しなくて、ごめんなさい」
「もういいから」
幸博パパも、私たちを抱きしめた。
「唯がちゃんと帰ってきてくれただけで、嬉しいから」
幸博パパの言葉に、私は声を出して泣いた。
こんなに心配してくれるなんてと、嬉しくて。
でも、同時に胸が痛かった。
だって、私。
この人たちを裏切るかもしれない。
パパたちのことは大好きだけど、それでも逢坂君を選ぶかもしれない。
そうなったら、私にたくさんの愛をくれた二人をもっと悲しませるかもしれない。
「ごめんなさい……」
他の言葉が思いつかなくて、何度も謝った。そんな私をパパたちは怒らなかった。ただ、私を抱きしめて、「大丈夫だから」と、繰り返してくれた。
少し離れたところで、逢坂君も母親たちに抱きしめられていた。
薫さんと明日香さん。
二人とも、泣いていた。
どっちが明日香さんなのかはわからない。
あの二人のどちらかが、私を産んでくれた。でも逢坂君のお母さんであって、私のお母さんではない。
逢坂君の無事を喜ぶ二人を見て、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
同じ血が流れているかもしれないのに、私にはあの熱狂的な喜びを分かち合う資格がない。私を包んでいるのは、心から私を愛し、私のことを「娘」だと信じて疑わない、達也パパと幸博パパの温かい腕だ。
それだけで充分すぎるくらい幸せなことなのに、私の胸はざわざわしている。
「ごめん」
逢坂君も、小さく謝っている。
私たちの目が合った。
彼も、同じ気持ちなんだと思った。
両親に愛されているって知ってる。
だからこそ、余計に苦しい。
私たちは出生の秘密を断片的に知ってしまったから。
*
両親と涙の再会を済ませたあと、警察官が、私たちに事情を聞いた。
逢坂君とは別室で、私は両親の前で家出じゃないこと。
ただ、海を見に行きたかっただけだということを説明した。
逢坂君も同じように説明したらしく、補導とかにはならず、厳重注意だけで済んだ。
「もう、こんなことしちゃダメだよ」
警察官の優しい声。
「はい」
私は、素直に頷いた。
警察署を出ると、もう夜中だった。
「唯、帰ろう」
達也パパが私の手を取る。
「うん……」
もう子どもじゃないんだけど……。
逢坂君の前でやめて欲しいと思ったけれど、今日は心配をかけたぶん親孝行だと我慢した。
逢坂君の家族に、「今日は、本当にすみませんでした」と、達也パパと幸博パパが、頭を下げる。
「いえ、こちらこそ。陽太が唯ちゃんを巻き込んでしまって」
昨日私をおもてなししてくれた、逢坂君のお母さんが頭を下げた。
「そんなことないです。唯のことだから、きっと逢坂君に無理を言ったのかも知れません」
幸博パパが眉を八の字にして、私のせいにした。
「陽太も頑固なところがありますから」
逢坂君のお母さんも困り顔になる。
まるで今初めて会ったみたいに、他人行儀に会話をしている幸博パパと昨日おもてなしをしてくれた逢坂君のお母さん。
二人が知り合いだということを、私は知っている。
結局のところ、どちらの両親も逢坂君や私には本当のことを知らせないつもりなのだろう。
でも、私は知りたいと、ギュッと達也パパと握った手に力を込める。
「唯?」
達也パパが怪訝な顔を私に向けた。
「あ、ごめん」
「大丈夫?」
「なにが?」
「いや、それは」
達也パパは口籠る。
親同士は、子どもたちは、お互いの意思で行動しただけだから、誰のせいでもない。
そういうことにして、お開きとなった。
「じゃあ、また」
逢坂君が小さく手を振る。
私も、「また、明日、学校で」と、手を振り返した。
「うん、学校で」
約束して、私たちは別々の車に乗り込む。
車の中は、静かだった。
達也パパが運転して、幸博パパが助手席。
私は後部座席で、窓の外を見ていた。
「唯」
達也パパが、ルームミラー越しに私を見た。
「何か、あった?」
「……何も」
嘘だった。
たくさん、あった。
でも、今は言えなかった。
「そう……」
達也パパは、それ以上聞かなかった。
帰り道、パパたちは「腹が減って機嫌が悪いんだろう」と、勝手に結論付けた。
そんな単純なことじゃないのに。
逢坂君と私がいて、二人がプチ家出みたいなことをした時点で、何か出生の秘密について思う所があったのかな。
そんなふうに気付かない洞察力皆無な二人に腹が立った。
逢坂君みたいに、お母さんが二人だったら、今頃言わなくても気付いてくれて、心の中のモヤモヤを吐き出せているかも知れない。
どうして私はお母さん側じゃなくて、お父さん側に引き取られたんだろう。
そこまで考えて、育ててもらっておいて、なんて私は薄情者なんだろうと自己嫌悪に陥る。
私の家族は、誰が何と言っても幸博パパと達也パパがいいはずなのに。
今回の件で、その気持ちにヒビがはいってしまったのは間違いなさそうだ。
好きな人が出来て、今まで世界で一番大事だと信じて疑わなかった家族を恨むような気持ちになるなんて、こんなに残酷なことはない。
今なら普通の家庭に生まれたかたったと、そう願う逢坂君の気持ちが理解できてしまう。
パパたちは、悪くないのに。でも、逢坂君を好きになったのだって悪いことじゃないはずだ。
口を結んで黙り込んでいると、達也パパが呑気な声を出す。
「唯、何食べたい?」
「ラーメン」
反射的に、答えてしまった。
「りょーかい。この辺でやってるとこあるかな」
幸博パパがスマホでラーメン屋さんを調べ始めた。
✳︎
深夜営業をしているラーメン屋に三人で寄り道して、家に到着した。
「お風呂だけ入って、早く寝なさい」
「うん。今日はごめん」
最後にもう一度謝罪して、お風呂に入った。
就寝準備を整えて二階に上がった。
自分の部屋に入ると、いつもの景色。
いつもの、安心する場所。
でも、今日は違った。
ベッドに倒れ込んで、枕に顔を埋める。
逢坂君の匂いが、まだ残っている気がした。
スマホを確認すると、彼からメッセージが来ていた。
『無事に帰れた?』
『うん。怒られなかったし、ラーメン食べたよ』
『俺もラーメン食べた。でも、すごく気遣われてて、余計に辛かった』
『わかる』
『明日、話そう』
『うん』
『おやすみ、真鍋さん』
『おやすみ、逢坂君』
携帯を置いて、私は目を閉じた。
明日。
明日になったら、全部話そう。
そう決めて、私は眠りについた。
でも、その夜は悪い夢ばかり見た。




