本当の巫女
ワープは、薄暗くひんやりとした部屋で目を覚ました。きっちりと布団をかけられ、破り捨ててしまった巫女衣装の代わりに、新しい衣を着せられていた。傍らにはホノメが控えており、ワープに向かって優美に一礼した。
「お具合はいかがですか。突然気を失われたので、勝手ながら私共で介抱させていただきました」
「あ……」
そこで、衝撃と悲しみの中、精霊王の間で倒れたことを思い出す。
「すみません……ありがとうございました」
ワープは上半身を起こす。まだじんわりと切なさが心を苦しめる。
自分の体が、自分のものではないようだった。一体何をしにここへ来たのだろう。次期巫女として、何をしたらよいかと悩んでいたことさえ、今では現実であったのか自信が持てない。
ホノメはふんわりと微笑む。きっと、ワープが楽しくても、悲しくても、この少女が向けてくれる顔は変わらず笑顔なのだろう。思いやりとか、そういうことではなく、ただ単にホノメにとってワープの感情など表情を変えるに至る問題ではないのだ。
急激に寂しくなって、ワープは瞳を陰られた。この苦しい思いを聞いてくれ、力になろうとしてくれる友人たち。彼らに会いたい。側にいてほしい。けれど彼らは今、遠い学園にいるのだ。
そして、自分は彼らに、どう接していけばいい?
巫女の騎士とは、遠い昔に神の怒りの当て付けにされた少女の罪を、理不尽にも共に背負わなければならない存在だった。名誉ある地位でも、武人としての最高の栄誉でもないのだ。それを、今までひたすらに努力してきた彼らに、どう伝えればいい?
ひとりで抱え込むには重すぎる真実に、心が押し潰されそうだった。ワープ自身、次期祈りの巫女として考え、悩んできた今までの全てを、どうしたら良いのかわからない。その上、騎士候補生たちに、そして現巫女であるリフィルに、何をどう説明できるだろう?
「お夕飯は何を召し上がります?お魚などどうですか?」
ホノメが穏やかに訊いてくる。ワープはたまらず熱くなった目頭を押さえた。
どんなに辛くても、泣くことはしない。ここへ来る途中で、もう決めたのだから。例えどんなものであろうと、ワープが次期巫女であることは変わらない。そして、祈りの巫女は泣いてはならない。そうラインは言ったのだから。
ラインは姿勢を崩さず、まっすぐに階段の上の精霊王を見つめていた。黒の瞳には、少しの揺らぎもない。精霊王の語った祈りの巫女の真実などは、ラインにとってはさほど心苦しませることではなかった。
精霊王は、ショックのあまり気を失いさえしたワープに対して、あまりに落ち着いているラインがつまらないと言いたげな、幼子のような目でラインを見つめ返した。
「そなたは驚かないのか?そなたの目指してきた巫女の騎士は、いわば咎人なのだぞ」
「……巫女の騎士がどのようなものでも、俺のすることは変わらない」
「ほう?」
精霊王は目を瞬いた。それからにやりと笑みを深める。
「そなたという人間自身、咎人なのだな?罰を受けることを、むしろ望んでいるように見える」
「……そうだな。俺は、かえって安心した。これで、騎士となることを望んでも許されるのではないかと」
神によって罰を受ける身分ならば、自ら望むことができる。ラインは嬉しかったのだ。これで、リフィルを裏切らずに、自らの罪も忘れずに、道を決められると。
「騎士の身分を自らの罪滅ぼしに使うとは、いただけない男だな。一体何がお前をそこまで罪の意識に苛むのだ」
ラインは黙っていた。ラインが自分を許さないのは、血に流れているといってもいいほど当たり前のことであり、理由などつけようとも思っていなかったから。
精霊王は少しだけ不快感を露にした顔をした。
「ただ罰を受けて楽になろうとするのは、最も恥ずべき懺悔の仕方だぞ」
ラインは驚いて精霊王を見つめた。精霊王は立ち上がり、髪をなびかせ、引きずりながら階段を降りてくる。その姿は、この世で最も神聖な存在に相応しく、豊かな髪の毛一本にも触れてはならないような威圧感と輝かんばかりの気高さに満ちていた。
「本当に悔い改めた罪人には、神が救済を与える。その罪人とは何をした者か?自らを痛めつけた者でないぞ。世界の為に尽くし、そして何より、この世で最も高貴な行いをした者だ。それはな……」
精霊王はラインの目の前に立った。座っていれば小さく見えた体だが、ラインよりも遥かに高い位置に頭があった。幻想的な瞳に射すくめられ、ラインは動きを封じられる。
ふわり、と髪がラインに巻き付く。精霊王はラインの頬を両手で包み、ぐっと顔を寄せた。体温は感じない。息吹も、鼓動も感じなかった。
「ひとを愛し、愛に生きた者だよ。それこそが最も気高い償いだ」
ラインは咄嗟に身を引き、精霊王の手を振り払った。精霊王は意地悪く微笑む。
「ただ幸福から逃げようとしてきたそなたにはわからないだろうね。償いというのがどんなものか」
「……ならば、巫女と騎士の償いというのは」
精霊王はからからと乾いた笑い声を漏らした。
「それはまた別物だよ。巫女と騎士の背負うものは、神から与えられた罰だからな」
触れられた頬が、体温を奪われたかのようにひんやりとしている。不気味で不快な感覚だ。
精霊王の言う「最も気高い償い」というものが、ラインにはよくわからなかった。いや、理解するのが恐ろしかったのかもしれない。
今まで罪を償う方法は、自らを苦しみの渦へ沈めることしかないと思っていた。ところが、精霊王は幸福を知れと言う。何よりも遠ざかろうとしていた幸福こそが、真に罪を償う鍵になるとは、すぐには思えない。
「そなたはおかしな男だな。なぜもっと人間らしく高慢に、望み通りに生きようとしない?神はそのような人間の我が儘に付き合う代わりに、祈りの巫女に怒りを当て付けているのだぞ。そなたがそれを無駄にしてどうする」
「……そのように生きる方法を、俺は知らない」
「それは卑怯だぞ。知らないでは済まされん。あの娘を見ていてわからんか?お前の幸せを心から願っているではないか」
精霊王は微笑む。造られたような笑みではない。今度こそ、あたたかみのある本物の笑みだ。
「これには祈りの巫女も騎士も関係ない。ひとりの娘の純粋な思いを、そなたは踏みにじっているのだ。わかっておるのか?」
ラインは思わず言葉に詰まる。精霊王は勝ち誇ったように口元を引き上げた。
「あの娘はきっと、世界の理をも変える。それほどまでの力を備えておる。私にはわかる」
精霊王はラインの首にしなやかな腕を巻き付け、鼻先が触れあいそうな距離まで顔を近づけた。
「そなたも変わる時だ。なに、答えはもうわかっているだろう?」
「…………」
ラインはため息をついた。
そう、わかっている。リフィルとエルミタージュが望み、ワープが望み、そして本当は自分自身さえ望んでいるように、自らの意志で、生きる道を決めるべきなのだ。幸福から遠のくためではなく、真に罪を償うために。幸福を知ることが償いだという、その意味を知るために。
だが、すぐには納得ができないのだ。ラインは、幸福から遠ざかっていた時間が長すぎた。どのように生きることが本当の償いになるのか、理解するにはあまりに乾きすぎていた。幸福に恐怖さえ感じていた心は、すぐにはそれを求められない。
精霊王はふんと鼻で笑ってから、ゆっくりと顔を離していった。そのまま身を翻して、階段の上に戻っていく。
元の位置で再び髪に包まれると、精霊王はまたひどく小さく見えた。
「ひととは実に、自分勝手で尚且つ損な生き物だな。なのになぜ神がひとを生かし、我々精霊が加護を与えるのか、お前考えたことがあるか?」
「……いや」
「ひとが生み出すものは、時に自然界の何よりも美しく、心震わせるからだよ。ひとはひとのために泣ける。それのために多少の高慢は許してやろうと神が思うほど素晴らしいものを、ひとは生み出す。まあ、巫女という反動は必要だがね」
精霊王は笑った。幼い子どものような、あどけない笑いだ。この女性のかたちをした精霊が何を考えているのか、ラインにはさっぱりわからなかった。
「お前もひとならひとらしく、素晴らしいことを成せばよいのだ。罪に囚われ続ける心は哀れよの。何の得も生み出さず、ただ腐るだけだ。それが無駄と言わず何だ?お前もバカでないのなら前を見据えたらどうだ。これは年長者からの忠告だぞ」
「…………」
ラインの頭には、ワープの顔が浮かんでいた。祈りの巫女になる者として、悩み苦しんでいた少女。自分を信じると言ってくれた少女。旅の途中の悲痛な顔。けれど、いつでも光を失わなかったその心。ラインははっきりと感じていた。
「俺には、まだはっきりとすべきことが掴めない」
ラインのゆっくりと、絞り出すように言葉を紡いでいく。
「けれど、あの次期巫女を……今は、あいつと共に、考えることがたくさんある。まずは、それからだ」
精霊王が意外そうに眉を上げる。
「自らを、あの娘の騎士と認めるのか?」
「あいつが許してくれるなら」
「お前は呪いを背負うのだぞ?」
「望むところだと言ったろう」
精霊王はにやりと笑った。
ライン自身には騎士に課される呪いなど心病ます問題ではない。自らを戒めるための鎖としてはやわなくらいだ。その意識をすぐに変えることはできない。
だがワープにとっては違う。自分を守る騎士にそんな運命を背負わせたくはない。その心から、傷つき苦しむのだろう。だから、考えるのだ。巫女と騎士の新しいあり方はないのか。
古代から続く神の罰を断ち切ろうなんて、馬鹿な考えかもしれない。けれど、巫女を守るのが騎士だ。身体だけでない、その心までも。
「まったくひととは、愚かだな。神の怒りに触れても、私には何もできんぞ」
「騎士の務めは、何者からをも巫女を守ることだ。例え神からでもな」
「ふん。吹っ切れた途端それを言うか。本当に姑息な奴だな」
「何とでも言うがいい」
精霊王はふっと笑みを深める。
「そなたらを見ていると、妙な心地になるよ。若者と触れ合ったのは久々だからか。うん、そうだ。人間の若者はそうでなくてはな。青く、愚かで、生きる力に溢れていなければならない」
そう言った精霊王の顔が、穏やかで懐かしむような色に満ちていることに、ラインは驚いた。こんなにも人間くさい表情を、この精霊が浮かべられたなんて。
「神の定めたこの世の理を変えようとは、途方もないことだ。だが、道を決めるのはあの少女だ。まあお前の言う通り、考えたいこともあるだろう。ゆっくりする時間くらいあるのだから、ここで考えてゆけ」




