風の心音8
入浴を終えたワープは、新しく用意された白い衣を着て、身を整えた。
湯浴み場では、侍女たちの猛烈なもてなし精神に、ワープは必死に抵抗した。ほとんど土下座までして、どうかひとりで入らせてくれと頼んだのだった。
その甲斐あって無事入浴は済んだのだが、ホノメたちの悲しそうな去り際の顔と、神聖な御座所ではしたなく騒いでしまったことに対して、ワープは激しい後悔を残すことになった。
それにしても不思議なのは、ここの湯船だった。足を浸けると青い光を放ち、みるみるうちに傷を癒してくれたのだ。優しい水の精霊の力がはたらいているのだろうか。とても心地のよい感覚だった。
精霊王の住まう場所なだけに、ここは精霊の力に満ちているらしい。
ワープは浴場を出て、辺りを見回す。なんの気配も感じられない。ホノメは何も言わずに行ってしまったので、これからどこへ行けばよいのかもわからない。
とりあえず、長い長い廊下を歩き出す。脇を流れる穏やかな水路が、静かな御座所の中で唯一音を立てている。そのやわらかい音が更に静けさを際立たせる。
ここは、本当に美しい場所だ。一点の汚れもない。洗練されていて、隙がなく、それでいて……何だか物足りない。
気がつけばワープは、庭に出ていた。火照った頬に冷えた空気が触れて気持ちがいい。風の精霊の力も及んでいるのだろう。心地よい涼しさだった。
月明かりに照らされる庭には、先客がいた。黒髪を風に揺らす後ろ姿に、ワープは訳もなくほっとする。
「ラインさま」
ラインは夜空に向けていた顔をこちらに移した。星の光が刷り込まれたかのように、その瞳は輝いて見えた。
ワープも空を見上げてみる。満天の銀色の星の中に、赤や青の輝きが所々散りばめられている。その奥に広がる夜の闇の色はどこまでも深く、はっとするような鮮やかさでワープの目に映り込んだ。
「…………綺麗ですねえ」
苦しかった旅の途中は、この美しさに心震わせることさえできなかった。その分を取り戻させてくれるかのように、今この夜空はまっすぐにワープの心に届く。
「……私は、巫女と騎士を、呪いではなく絆だけで結びつけることはできないのか、知りたくて参りました。そして、巫女の力はどのように国民に示せばよいのかも、知りたいです」
夜空に溶け込むように、言葉がするりと口から出てくる。
ワープはラインを見つめた。夜空よりももっともっと深い、黒の瞳を。
「それと同じくらい強く、あなたの力になりたいという思いがあるのです。ここで、私の中にある迷いを、弱さを、なくすことができたら、そのときは……」
そこで、ワープは言葉を失った。こちらを見つめ返してくるラインの顔が、あまりに辛そうに歪んだから。
「……お前が、俺のために祈ろうと。何をしようと。俺はきっと変わらない」
低く、でも涼やかな、ラインの声。いつもと変わらない声。けれどその顔は、悲痛で苦しげだ。
ワープは、一歩、ラインに近づいた。
「でも……変えたくて、来たのでしょう?」
「…………」
ワープは微笑み、ラインの手袋に包まれた手を取った。無機質な革越しでも、その手の固さとあたたかさは充分に伝わる。
「ラインさまは、どうしてご自分を許して差し上げないのですか?」
「……俺は過去を忘れない。俺の殺してきた人間には家族もあっただろう」
「……そうですね、きっと、悲しみの涙が幾重にも流されたでしょう」
セルースの死に、フロウが嘆き悲しんだように。
「あなたは、ご自分を許さないで、どうするおつもりですか?」
「……リフィルが、エルミタージュが、願う通りに」
「私は、ラインさま自身に、生きる道を決めていただきたいです」
もし、巫女の騎士となる道を選ぶならば、ワープは彼のためにも騎士の呪いをなくしたい。その道を選ばなかったとしても、それは彼自身が決めたものでなくては意味がない。
ラインの瞳が揺らぐ。ワープは目をそらさず、彼を見つめ続けた。
「……わかってる。自分を許したくない、それだけは忘れたことがないのに……俺は迷っている」
やがてラインはため息をついて、ワープの手を振りほどいた。
「わからない。何をすれば償いになるのか。ただ自分を責め続けて、満足しているだけではないのか。……生きていることさえ、正しいのかわからなくなる」
風に煽られて乱れる黒髪が、ひどく儚くて、ワープはたまらなくなる。ラインが、心の内を吐き出してくれたというのに、ただ悲しみが心を覆って、何の言葉も出てきてくれない。
「……ごめんなさい」
金色の糸がきらめいて広がるように、ワープの髪が風になびく。
「私、まだ何にもわかっていません。ラインさまに物を言う資格も、ありません。……けれどどうか、お願いですから、そんな悲しいことはおっしゃらないでください」
時計塔で、生気のないラインの姿を目にしたとき、ワープは恐ろしかったのだ。ラインが死んでしまったら、と思うと、身がすくんだ。
過去も、罪も、関係ない。ラインというひとつの存在が、消えてしまう。そんなのは嫌だった。
「私は、ラインさまに命を救われているのですよ」
でも、そういうことではない。命の恩人だからとか、そういう理由でラインに生きていてほしいわけではない。ライン・クロラットという人間が、この世界で生きるにふさわしい素晴らしいひとだと、心から思うから。だからなのだ。
ワープはもう一度ラインの手を取って、力強く握った。
「わ、私、私は!!」
驚いたようにこちらを見るラインを、まっすぐに見つめる。
「私は、ラインさまを信じていますから!! あなたは許されてよいと、自分のために生きてよいと!! 私は、絶対……」
もの悲しげに揺れるラインの瞳に、言葉が続かなくなる。喉が震えて、涙が出そうになる。けれど、もう泣かないと言った手前、泣くわけにはいかない。ぐっと目頭に力を込めながら、それでもワープはラインから目をそらさなかった。
「……絶対、あなたを認めます」
誰が何と言おうと。ラインが幸せを願ってはいけないなんて、思えないのだ。思いが伝わることを祈って、ラインの手をきつく握る。
ラインは静かにワープから目をそらす。
「俺は許されたいのではなく、償い続けたいんだ。その方法を、探しに来ただけのこと」
「…………どうして、どうして、そうやって」
そうやって、自分を苦しめ続けるのだろう。
ラインが、心の救済を求めてくれることはあるのだろうか。幸せを求めてくれる日は来るのだろうか。




