風の心音5
校長室には変わらない静かな空気が流れていた。
エルミタージュは、いつもの通り紅茶を用意してくれるルルを呼び止める。
「ルル。たまには貴女も紅茶をどうです?」
常に自らの務めのために動き回るルルが、一緒にティータイムを楽しむことは珍しかった。けれどルルは、誘われれば断ることはしない。ではお言葉に甘えて、と自分の分の紅茶を早速用意し、ソファにちょこんと腰かける。
エルミタージュは砂糖をカップに落とし、スプーンでそれをかき混ぜる。
「あのふたりが風の御座所へ向かったと聞いて、私はリフィルにほとほと呆れたんです。本当に無茶をさせます」
「わたしはあまり詳しくないのですが。風の御座所に行くというのは、そんなに大変なのですか?」
ルルは腕を目一杯伸ばして、テーブルの上のカップに砂糖を入れていく。
「行く道中も大変ですが、着いた後もそれなりに大変なようですよ。巫女でさえ詳しくは知り得ない場所ですから、私もあまり知識はないのですがね」
「なぜリフィルさんはワープさんを行かせたのでしょう?」
「風の御座所は、巫女のために存在するようなものですから。そこでなら、ワープさんの求める答えが見つかると、彼女は言っていましたよ」
だからと言って、まだ巫女なってもいない少女を軽々しく送りつけてよい場所ではないのだ。それはリフィルが一番よくわかっているはずなのだが。
「ワープさんは、いささか深く悩みすぎると、わたしは思うのです」
ルルが小さな頬を不服そうにふくらませる。
「今すぐに国民全員が幸せになれないのを、まるで自分のせいのように思っておられます。それは少しお門違いな悩みです」
「そうですね。苦しむ国民がいることは、巫女のせいではないのですからね」
エルミタージュは微笑む。
「ルルはワープさんが好きですか?」
ルルは困ったような顔をして、それでもこっくり頷いた。
「ワープさんは優しいですから、好きです」
「君にお友だちができたようで、私はとても嬉しい」
ルルはあまり感情を表に出すのが得意ではない。けれど一緒にいて安心できる人物がいるのなら、その困った癖も治ることだろう。現に今ルルは、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
神殿を出発してから三日目の夜。ふたつの山を越え、ワープとラインは御座所への道しるべとなる小川へたどり着いた。このまま谷を歩いて行けば、明日の夜には御座所へ到着するだろう。
ワープは限界だった。足は血にまみれ、もはやずたずた。それに加えて食物を摂っていない体は痺れ、もう立つのも辛い。がくん、と崩れるワープを、ラインが素早く支えた。
「ご、ごめん……なさ……」
声もまともに出せない。ラインは黙ったままワープを岸辺に座らせ、足を川に浸した。ひやりと冷たい水に息が詰まるが、焼けそうに熱い傷口を冷やせるのが本当にありがたかった。
星空は不気味なほどに綺麗で、水面をきらきらと輝かせた。銀色の光が視界いっぱいに広がって、その美しさに涙が出そうになる。こんなに美しい景色も、今は楽しめない。
ラインはすぐそばに座って、ワープの体を支えてくれた。ぐったりと彼に身を預けながら、ワープはうわ言のように呟く。
「わかっています……皆、辛いって……今の私などより、もっと辛いひとは、たくさんいらっしゃって……これは私の試練で……泣き言なんか……言う資格はなくて……」
一度吐き出してしまえば、弱っているはずの口が止まってくれない。
「でも、でも、足が痛くて……歩く度に辛くて……ラインさまに、迷惑かけて……でも歩かなくてはならなくて……」
ラインは何も言わない。もう夢中で、ワープは心の内をさらけ出していた。
「私……情けないのです。この辛さだけで音をあげて……今まで、どんなに……呑気な世間知らずでいたことか……!!」
情けない、情けない、そんな自責の念だけが襲いかかる。巫女の名を語ることなど、ワープには許されないことだったのだ。
「確かに、終わりの知れない苦しみを抱える人びとはいるだろう。お前が今まで知り得なかった中に、数多く」
ラインが、水面から目を離さずに言った。その目には煌めく銀の光が映り込んでいる。ワープはだだっ子のように首をふる。弱々しくではあったが、必死に。
「嫌です、嫌です……私、どうせなら、一番辛いひとになってしまいたい……それで、皆の気持ちがわかるなら……」
こんなのは甘えだ。人びとのために努力する方法がわからないだけだ。本当の苦しみを知りもしないでこんなことを言うなんて、卑怯だ。
自分でもどうしようもないうちに、ワープの目からは涙がこぼれた。
「ごめんなさ……っ……私、泣きたくなんか……」
拭っても拭っても涙は止まらず、もう何がなんだかわからなくなってしまう。
ふわりと肩を抱き寄せられ、ワープは目を見張った。
「…………今、お前は」
耳元に、低く優しい声が囁かれる。
「次期巫女姫ではなく、ワープ・セベリアだ」
耳に入り込んだ声はそのままワープの全身を駆け抜け、心を揺さぶった。こちらを見つめる黒の瞳も、やわらかく包んでくれる腕も、すべてが優しく写って、たまらなくなる。
ワープはラインの胸に額を押し付け、熱い涙を流して泣いた。ぽたぽたと落ちた涙は、ラインの上衣に染み込んでいく。
「泣いて、よいのですか」
すでに大粒の涙を溢しているというのに、ワープはくぐもった声で尋ねる。ラインは答えず、ただ上衣を濡らされるまま、ワープの好きにさせてくれた。
「明日からは……泣きません。だから、だから……」
ラインはそっとワープの頭を引き寄せ、黙らせる。彼は言葉を発しなかったが、触れあうあたたかさが、とても優しかった。




