Grimoire 14〈封筒〉
「全機、システムチェック実行」
『了解』
「全機オールグリーン確認。スラストダンパー、リフトアップ」
「ターマックローラー、プレヒート開始」
「ロック解除。ISWセカンド、発進!」
八機の影が、夜明け前の荒野へ滑り出していった。
ハルトの胸元には、封筒が四通収まっていた。
白い無地の封筒に、赤い封蝋が押されている。表には数字が一つずつ。
一、二、三、四。順番に開く、とだけ決められていた。中身は、ハルト自身も知らない。
出撃前夜、ガルシア大佐の副官が立ち会いのもとで封をした。その場に、ハルトはいなかった。
(局面ごとに、一通ずつ)
(開いたら、書いてあることに従う)
それだけの規則だった。単純すぎて、かえって落ち着かなかった。
「隊長。本当に、従うのですか」
出撃前の格納庫で若い少尉が尋ねた。ベックという、まだ二十二の男だった。
「従う」
「もし、明らかに間違った指示が入っていたら」
「それでも、従う」
ハルトは、杖を整備兵に預けながら言った。左足は、まだ完全には治っていない。
コクピットの中なら、足は要らなかった。
「間違っているかどうかをその場で判断できない、というのがこの規則の趣旨だ」
「私が間違っていると思うことと、実際に間違っていることは別だ」
「……分かるような、分からないような」
「私もだ」
ハルトは、少しだけ笑った。
カルム渓谷は両側を切り立った岩壁に挟まれた、細長い谷だった。
帝国の補給路が谷底を貫いている。ここを押さえれば、北の前線への物資が三日止まる。
共和国にとっては、網を試すのにこれ以上ない場所だった。
『隊長。前方、動きなし』
「静かすぎるな」
『ベルク回廊のときと、同じですか』
「同じだ。だから来る」
ハルトは、最初の封筒を胸元から取り出した。
接触の合図があるまで開けない、と決められていた。
谷の中ほどに差しかかった、そのときだった。
岩壁の上に、影が並んだ。
五機。
『SV-02。五機、岩壁上』
「散開は、しない。このまま谷底を抜ける」
『隊長!?』
「命令だ」
そう言ってから、ハルトは自分の声が少し硬いことに気づいた。
網が張られる。それは分かっていた。ベルク回廊で六機のうち三機を失った。
同じことを、ここで繰り返すのか。そう叫ぶ心が胸の奥にあった。
だが、その叫びの中身も、彼は、半分、知っていた。
(この判断を、敵は読んでいる)
(私の恐れも、読まれている)
ハルトは、封筒を開けた。
白い紙に、短く一行だけ。
――型四。網の外周を叩け。
「……外周」
『隊長?』
「全機、聞け。第一小隊の四機は、私と東の岩壁沿いを走る。
「第二小隊の四機は、西だ。谷底は通らない」
『壁沿いを、ですか』
「そうだ」
ハルトは、操縦桿を握った。
自分なら選ばない手だった。妨害装置を使うか、谷底で耐えるか。
どちらかを選んでいたはずだ。外周を叩くという型は、自分が最も取りたくない型だった。
敵の最も厚い部分の、さらに外を回ることになる。
だが、それが、決められたことだった。
『了解』
『了解しました』
八機は岩壁の裾を這うように、二手に分かれた。
網は、張られなかった。
五機のSV-02が、谷底に向けて砲口を並べていた。
五角形の頂点に配置され、敵が逃げ込む空間に面の弾幕を敷く態勢だった。
だが、敵は谷底に入ってこなかった。
『射撃開始、ありません』
『こちらも』
岩壁の上で、SV-02の機体がわずかに戸惑った。待っている相手が、来ない。
網は、獲物のいない空間に張られたままになっていた。
その隙にISW-02の第一小隊が、岩壁の裏に回り込んだ。
『隊長、後方に補給車列』
「見えた」
谷の奥、岩壁の陰に車両が十数台並んでいた。弾薬を積んだ輸送車だった。
網の弾幕を支えるための、補給線そのものだった。
「撃て」
突撃砲が火を噴いた。
最初の爆発は小さかった。次の爆発がその隣の車両を飲み込んだ。
弾薬が連鎖して谷の空気が震えた。炎が岩壁を舐めた。
『補給、潰しました!』
『敵、動揺しています!』
SV-02の五機が一斉に向きを変えようとした。網の同期が、乱れる。
周期パルスが途切れ、五つの砲口がばらばらに揺れた。
ハルトは、その光景を目を凝らして見ていた。
(読まれていなかった)
(これは、誰にも、読めなかった手だ)
自分でさえ選ばなかった手が、結果として最も効いた。
戦闘はそこから加速した。
網は崩れた。五機のSV-02は個別に、ISW-02と交戦するしかなくなった。
旋回の予告を消した機体に、沈み込み検知の兵装は働かなかった。
『二機目、撃破!』
『こちら、被弾! 右腕損傷!』
ベックの声だった。若い少尉の機体が、岩壁の裾で大きく傾いていた。
「下がれ、ベック」
『まだ、やれます!』
「下がれ!」
だが返事は爆発音に掻き消された。
SV-02の一機が、至近距離からベックの機体に砲を向けていた。
ハルトは、突撃砲を向けようとした。間に合わなかった。
炎が上がった。
通信にベックの声が短く入った。
『隊長。ありがとう――』
それきりだった。
ハルトは、歯を食いしばった。
(私が、命じた。外周を叩け、と)
(いや、違う。命じたのは、封筒だ)
その考えが頭をよぎってすぐに、自分で否定した。
(違う。私が、従った)
誰のせいかという問いは、ここでは意味を持たない。
五分が過ぎた。
ハルトは二通目の封筒を開いた。
――型二。交戦を引き延ばせ。後退せよ。
今、押している。敵の網は崩れ、補給は潰した。
あと数分押し続ければ、五機すべてを撃破できるかもしれない。
この局面で後退を命じるなど、馬鹿げていた。
『隊長、このまま押せます!』
『敵が、浮き足立っています!』
「……」
ハルトは封筒の紙を握りしめた。
自分の判断は、押せと叫んでいた。自分の経験も本能も、すべてがそう言っていた。
だがそれこそが、読まれる判断なのではないか。
「全機、後退。東の岩壁を抜けて、谷を出る」
『隊長!?』
「命令だ」
『理由は!?』
「……理由は、ない」
ハルトは、はっきりと言った。
「理由がないのが、理由だ。従え」
沈黙があった。
やがて八機のうち、残った七機が後退を始めた。
その背後で、五機のSV-02は追ってこなかった。追えなかったのかもしれない。
それとも、追わなかったのか。
ハルトには最後まで分からなかった。
谷を抜けたとき、遠くの空が白んでいた。
その夜ガルシア大佐の執務室で、ハルトは報告を終えた。
「SV-02を、二機撃破。補給車列を、全滅。こちらは、ベック少尉を失いました」
「ご苦労だった」
「大佐。一つだけ、よろしいでしょうか」
「言え」
「二通目の封筒を開いたとき、私は押すべきだと思いました」
「押せば五機すべてを落とせたかもしれません」
「だが、後退した」
「はい」
「それが間違いだったと思うか」
ハルトは、少し間を置いた。
「分かりません」
「そうだろうな」
大佐は、静かに言った。
「押していれば勝てたかもしれん。押していれば全滅していたかもしれん」
「我々は、それを永遠に知ることができない」
「はい」
「それが、あの封筒の本質だ」
大佐は封筒の一通を机の上に置いた。すでに開けられた二通目だった。
「兵の命をサイコロに預ける。軍人としては、褒められたことではない」
「だが、私はあの少佐の最期を知っている」
ハルトは、顔を上げた。
「読まれて死んだ男を私は見た。だから、読まれない戦い方に賭けることにした」
「……はい」
「ベック少尉の名は、記録に残す」
大佐は、そう言った。
「封筒に殺されたのではない。彼は、我々が読まれない戦い方を選んだ代償を、払ったのだ」
「それを私は忘れん」
ハルトは、深く頭を下げた。
部屋を出る前に、振り返った。
「大佐」
「何だ」
「私は、封筒に救われたのでしょうか。それとも」
大佐は、答えなかった。
答えを持っていなかったからだ。
同じ夜、帝国の首都。
ヴァイス将軍は、カルム渓谷の戦闘報告書を三度読み返した。
ブラント大尉が傍らに立っていた。右腕の包帯は、まだ取れていない。
今回は、後方の指揮車から戦闘を見ていた。
「補給車列を、背後から。……ここまでは、まだ分かる」
将軍は、報告書の一点を指でなぞった。
「共和国は網の弱点を見つけたのだ。同期信号か弾数か」
「どちらかに気づいた。そこは読んでいた」
「はい」
「だから妨害装置が来る場合と、持久戦を狙ってくる場合を想定して陣を敷いた」
「だが、来なかった。彼らは谷底に入らず岩壁の裏を走った。そして補給線を直接叩いた」
「閣下の想定の外でしたか」
「想定の外だった。だが、問題はそこではない」
将軍は、報告書の次の頁を、めくった。
「五分後、共和国は後退している。我が軍の網が崩れ、押せるはずの局面で全機が引いた」
「私が、彼らの指揮官ならそこで押す。誰でも押す」
「彼らは引いた」
将軍の指が、紙の上で止まった。
「合理的な判断ではない。つまりこれは、合理的な判断の外から来ている」
ブラントが、静かに言った。
「閣下。ベルク回廊のときは、囮という手を先に読まれていました。ですが、今回は」
「読めていない」
将軍は、はっきりと答えた。
「ヴェルナーの記憶は、あの少佐が生きていた時点までだ」
「ISW-02も、乱数表も、彼は知らない。」
「それを前提に、私は共和国が取りそうな手を、推測していた」
「だが、彼らはその推測の外に出た」
初めて、将軍は自分の手元にある記憶の限界の輪郭を見た。
記憶が、役に立たない相手。
自分が、何も読めない相手。
(これがヴェルナーを殺した相手の正体か)
そう思って将軍は、小さく息を吐いた。
「閣下」
「何だ」
「……あまり、顔色が」
「問題ない」
そう答えたが、問題はあった。
頭の奥であの声がいつもより、強くなっていた。
――先手を打たなければ、負ける。
読めない相手に対して、何を先に打てばよいのか。
その答えがないことが、声を焦らせていた。
将軍は机の引き出しから、ノートを取り出した。
ペンを持った手が一度、止まった。
書くべき言葉が、見つからなかった。
――共和国は、次に何を作る。
その一行を書こうとして、書けなかった。
代わりにノートの余白に小さく、こう書いた。
――分からない。
書いてから彼はその文字を、しばらく見つめた。
自分の筆跡で、自分の言葉だった。
ヴェルナーの記憶にもノルドの景色にも、この言葉はなかった。
(私は初めて、分からないと書いた)
奇妙なことに、胸の奥がわずかに軽くなった。
だがそれもすぐに消えた。
声が、また言った。
――先手を打たなければ、負ける。
将軍は、ペンを置いた。
「ブラント」
「はい」
「SV-02の生産計画を、倍にする」
大尉は、目を見開いた。
「倍、ですか。しかし、網の運用は」
「網はあと二、三度は使える。だが、読めない相手には、網もいつかは通じなくなる」
将軍は、静かに続けた。
「読めない相手に、読む必要のない戦い方を押しつけるしかない」
「数だ。敵が何をしてきてもそれを、すべて飲み込めるだけの数を先に作る」
「それは」
「消耗戦だ」
将軍は、窓の外を見た。
首都の灯りが、遠くまで続いていた。
「共和国の乱数表が何を決めようと、百機のSV-02を、すべて撃ち落とせはしない」
「……承知しました」
大尉が出ていったあと将軍は、長い間ひとりで座っていた。
ノートの余白に、あの文字が残っていた。
消そうとしてペンを持ち上げたが、やめた。
ごめんなさい、いろいろ忙しくてかなり時間がかかってしまいました




