第78話:逃げることから逃げないことにした
一度寮へ戻ってシャツや下着を着替え、身なりを整えてから、私はまず女子寮の方へと向かった。
一応の状況を確認しておきたかったのと、胸の内に燻るちょっとした懸念を、あらかじめ振り払っておきたかったからだ。
放課後の学園は、部活動の時間も終わりに近づき、少し寂しい空気が校内に漂っていた。
移動の途中、校舎の窓ガラスが鏡のように私の背後を映し出した瞬間、そこにやや不自然な人影が紛れていることに気がついた。
女子寮の入り口に立ち、看守に状況を尋ねてみると、フィリアが部屋に立ち入ったらしい痕跡だけは確認できたものの、やはり本人の姿はどこにも見当たらなかったという。
私はごく自然な動作で回れ右をして、いつの間にか私の背後を尾行していた女性のすぐ横で足を止め、静かに声をかけた。
「こんにちは。確か、フィリアの護衛を務めている騎士の方ですよね。以前はお世話になりました」
「こ、こんにちは……」
「今日はジュリアン王子に命じられて、私の尾行ですか? 顔見知りであれば、フィリアをその場で保護しやすいですからね」
「……そんなこと、私の口からは言えるわけないでしょう」
「それもそうですね」
護衛の女性騎士は、「やってしまった」と言わんばかりに小さくため息をついた。
「それで……エリアス先生。フィリア様の居場所に、何かアタリはついているのですか?」
「そうですね、だいたいは。ですが……その前に、貴女に少しだけお願いがあります」
「何でしょう」
「今から私は、高等部にある神聖学準備室に向かいます。貴女にはそこへはついてこず、少し離れた場所から様子を見ていてほしいのです」
「それは、一体なぜですか?」
「フィリアが今、誰の目にも見つからずに逃げ回ることができているのは、あの子の強力な認識阻害魔法のおかげです。私であっても、彼女が一度心を閉ざして隠れてしまえば、どこにいるのか見分けることはできません」
「つまり……私が一緒にいると、フィリア様が警戒して出てこない。あるいは、出てきてもすぐにまた姿を消してしまうリスクがある、ということですか」
「はい。ですから基本的には、高等部校舎の一階のフロアで待機していてください。もし、日没になっても私が上から降りてこなければ、そのときは部屋に入ってきてください」
「……わかりました。お約束します」
彼女との約束を取り付け、私は一人、薄暗い階段を上っていった。
初夏の夕方の空を映し出す窓が並ぶ二階の廊下を、静かに歩いていく。
見慣れた黒い鉄の扉を開けると、そこには私の知っている神聖学準備室の面影はなく、ただ殺風景で、がらんとした景色だけが広がっていた。
机も書類も剥ぎ取られた、冷たい部屋。
けれど、部屋に残されたソファのあたりに、確かにフィリアが身を潜めているような強い気配を感じて、私は誰もいない空間に向けてぽつりと声をかけた。
「一緒にお茶しよっか」
その刹那、さっきまで誰もいなかったはずのソファの上に、ぼろぼろと大粒の涙を流したフィリアが、すっと現れた。
「……はい」
消え入りそうな声で、フィリアはそう答えた。
私はいつものようにコンロの場所へと歩み寄り、ポットに水を入れ、お湯を沸かし始めた。
「……えーっと、どこかな……」
いつもなら決まった場所にあるはずのコーヒー豆は見つからず、私はがらんとした戸棚の扉をいくつも開けていく。
すると、フィリアが私のすぐ横へと静かに歩み寄ってきた。
「先生と、一緒に飲みたくて……これ、買っておきました」
彼女は小さな両手で、大切そうに抱えていた缶入りの紅茶の茶葉を、私へと手渡してくれた。
「ありがとう」
私はそれを受け取り、すぐに蓋を開けようとしたのだが……固くてなかなか開かない。
「ええと、何か蓋をこじ開けられそうな道具は……」
「私に貸してください。ちょっとだけ、身体強化の魔法を使って……。はい、開きました」
「ふふっ、さすがは私の一番弟子だね」
「先生はそこに座っていてください。あとの準備は、私がやりますから」
私は言われた通りにコンロの前から離れ、途中で買っておいたサンドイッチの包みをテーブルの上に広げた。
そして、何もかもが持ち去られてしまった執務机の前に回り、座り慣れたあの椅子に腰を下ろした。
てきぱきとお茶の準備を進める、いつもと何も変わらないフィリアの姿。
色々なものが持ち去られてしまっていたけれど、雄猫と雌猫のマグカップだけは、まだ奇跡的に残されていたみたいだった。
茶葉をゆっくりと蒸らしている、あの静かで優しい待ち時間。
何もなくなってしまった机の上に、かつて仕事で使っていたノートや、ペン、そして彼女がいつも置いてくれていたコースターが、一瞬、そこに見えるような気がした。
フィリアはできあがった温かいマグカップを、何も言わずに私の机の、かつてコースターがあっただろう場所へとことんと静かに置いた。
そして自分はソファへと戻り、物欲しそうな目でテーブルの上のサンドイッチをじっと見つめていた。
「食べていいよ。好きな方を選んで」
「ええと、ええと……迷っちゃうなぁ……。うーん、じゃあ、こっちの卵にします」
フィリアはそれを小さな口で一口頬張ると、本当に嬉しそうにぱっと表情を綻ばせた。
「お腹がとっても空いていたので、本当に助かりました……」
「私も、君がお茶の葉を買っておいてくれたおかげで、とても助かったよ」
そう言い合って、私たちは二人でくすくすと小さく笑った。
「もう一つ、食べるかい?」
「いいんですか? 私、二つとも貰っちゃって……」
「お腹が空いているんだろうと思ってね。たくさん食べないと、いつまで経っても背が伸びないでしょう?」
「もう、先生はそうやってすぐに私に意地悪を言う……。でも、いただきます」
「うん」
私はマグカップに入った温かい紅茶をすすりながら、フィリアが嬉しそうにサンドイッチを食べ終えるのを、静かに見守り続けた。
本当に、私が何よりも大好きだった、二人の静かな時間がそこには流れていた。
フィリアは私を見つめながら、どこか困ったように微笑んでいたが、その金色の瞳から、唐突にまたぼろぼろと涙が溢れ出してきた。
「先生……本当に、来てくれた……。嬉しかった……。でも、とっても怖くて……寂しかったよぅ……うっ……うう……」
フィリアはまた、子どものように声を上げて泣き出してしまった。
「本当に、手のかかる弟子だね」
私は椅子から立ち上がってソファの彼女の隣へと移動し、その小さな頭をそっと胸元へと抱き寄せた。
フィリアはわんわんと声を上げながら、私のお腹のあたりに顔を埋めて激しく泣きじゃくった。
「ごめんね、フィリア。私は今まで、ずっと君の気持ちから逃げてばかりいた」
「ううん……先生は、悪くないです……。先生は、ずっと私のこと……いっぱい考えてくれてたの、知ってます……」
「考えてはいたよ。けれど、何もできなかった。君が苦しんでいる間も、君が王太子妃にされそうになっている間も、私は一人の部屋で拗ねて丸くなっていただけだった」
「でも……それでも私は、先生がとっても優しかったこと、私を誰よりも大事にしてくれたこと、ちゃんと分かっています……」
「ありがとう。だけど、私は君の好意を受け取りながら、教師だからという言い訳で、ずっと曖昧なままにしてしまった。そのせいで、君を望まない王太子妃にして、ひどい噂に巻き込んでしまったんだ。本当に、ごめんなさい」
「先生は何も悪くありません! 私が先生の言うことをちゃんと聞かずに、先生のお部屋に勝手に行ったから……。先生にたくさん甘えすぎちゃったから……。私がもっと上手く、立派な聖女として振る舞えていれば、先生がこんなに悪く言われることはなかったんです……」
「フィリア、それは君が背負うことではないよ。君はまだ子どもなんだから、まずは自分のことを第一に――」
「私は……! 私はただ、先生の横で、一人前の大人として見られたかった……! 先生にいつまでも子ども扱いしてほしくなかった……! でも、私は結局、全然大人になれなかった……。こんなのじゃ、先生の横に立つ資格なんて、私には最初からなかった……」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。
何者かになりたかった。
誰かに認められる、立派な人間になりたかった。
けれど、どうしてもなれなかった。
その嘆きが、あまりにもよく分かってしまったからだ。
「そっか……。私たち二人とも、一生懸命に何者かに『なろう』としていたんだね」
「……そう、かも……ですね」
フィリアは涙を拭いながら、小さく頷いた。
私は彼女の金色の瞳を真っ直ぐに見つめ、静かに呼吸を整えた。
「ねえ、フィリア。私から、一つだけお願いがあるのだけれど、聞いてもらえるかい」
「……何ですか……?」
私は彼女の小さな身体を、今度は逃げずに、ぎゅっと強く抱きしめた。
「――君がこの世界から逃げるのなら、私も一緒に連れて行ってほしい」




