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第74話:(フィリアSide)解体される準備室と逃げ出した私

私の心は、本当にもう限界でした。どうして、こんなことになってしまったのでしょう。


私はただ、大好きなエリアス先生のそばにいたかっただけ。先生に立派な教師になってもらいたかっただけ。その隣に並んで立っても恥ずかしくない、そんな相応しい私になりたかっただけなのに。

なのにどうして、私は別の男の人と婚約することになってしまったのでしょう。

王子は「先生のことをずっと好きなままでいて構わない」と言ってくれています。

だから、私がほんの少しだけ我慢をしたら、その分先生が社会から立派な人だと認められて、お母さんが先生を悪く言うこともなくなって、また先生と会っていっぱい話ができるようになるのだと、そう自分に言い聞かせていました。

でも、練習をさせられるたびに、私は怖くて、身体が震えて、何度も吐いてしまって……。お母さんからは「みっともない」と叱られて、お父様からも呆れたような目で見られて……。本当に辛い日々で、心がどうにかなってしまいそうでした。


今日は朝早くから、見知らぬ人たちに私の身体をたくさん触られていました。

綺麗に髪の毛を整えられたり、豪華なドレスを着せられたり、そんなことを無理やりさせられていたと思うのですが、私にとってはそんなもの、どうでもいいことでした。

私の目の内側には、遠く離れた場所にいる大好きな先生の姿がずっと映し出されていて、私はいつものようにその姿を盗み見ることで、辛うじて自分の心を満たしていたのです。


そういえば、今日は先生もお城に来てくれる日。先生が新しく『伯爵』として国から叙爵される日なのだと、誰かが言っていました。

しかし、私の網膜に映る先生は、ずっと自分の部屋の中に閉じこもったままでした。昨日出かけたときと同じシャツを着たまま、着替えもせずに、ずっとお布団の中で丸まっていたのです。

ここ一か月ほど、先生はずっと気分が優れないようで、今日も朝から一度も起き上がることなくベッドの中にいました。

そういえば、先生はこの叙爵の栄誉をとても嫌がって、一度断っていました。だから、今日ここへ来るのをやめてしまったのでしょうか。

そう思った瞬間、私の心はなぜか、ふと、とても楽になったのです。

先生が嫌がっているような場所のために、私が頑張る必要なんてどこにもない。そう気づいたとき、私はもう、何一つとして我慢をする必要なんてなかったのだと分かりました。


そして、先生が最後に私を膝枕して話してくれた一言が、私の頭の中で強烈な結実を迎えました。


「じゃあ、逃げておいで」

「神聖学準備室は、フィリアが辛いときにいつでも逃げ込んでくるための場所だったのだから」


先生がここに来ないのなら。先生がそこにいないのなら。――私は、先生のいる場所に逃げればいい。あの、大好きな神聖学準備室に逃げればいいのだって。

あそこに逃げ込めば、私は王太子妃になんてならなくていい。この苦しい日常から解放されて、先生があの静かな準備室で、私のことをずっと匿ってくれるのだって。


誰かが私の手を取ろうとした、まさにその刹那。

どこからか、先生が「……フィリア」と私の名前を小さく呟く声が聞こえたような気がして、私は無意識に全身の認識阻害魔法を発動させました。

周囲にいたお母さんも、お父様も、王子も、みんなが目の前で私が突然消え失せたことに激しく驚き、取り乱す中、私はいつの間にか無理やり履かされていた窮屈なヒールをその場に脱ぎ捨てました。そして、自分自身の身体に身体強化の魔法を重ねて、そのまま開け放たれていた窓の外へと飛び出したのです。


王城の広い庭園を全力で駆け抜け、高い外壁を一跳びで飛び越え、学園へと続く道を、必死に人混みを避けながら走り抜けました。

ようやく見慣れた正門を潜り、高等部の静まり返った校舎へと入り、一気に階段を駆け上がって、あの廊下を抜けた先。私は、あの思い出の詰まった重い鉄の扉を開こうと、その取っ手に手をかけました。


――がちゃん。


だけど、そこには冷たくて重い鍵がかかっていたのです。

私はその場に呆然と立ち尽くし、そこでようやく、今日が日曜日だったのだという当たり前の事実に気づかされました。

先生も自分の部屋でお布団に入って寝ていたのだから、学校のここに来たって先生に会えるはずがないという至極当然なことに、どうして私は今の今まで気がつかなかったのでしょう。


神聖学準備室に逃げ込めないのだとしたら、私はこのままこっそりと、男子寮にある先生のお部屋に行ってしまってもいいのでしょうか。

でも、先生のお部屋に勝手に入るのはダメだと、もうしないと私もそう一度は決意したのですが……。

とはいえ、この隠れる魔法を解かないままこっそり行く分には、誰にもバレないのだから何の問題もないのでは。

そう気づいたとき、初めからこの魔法を使って、お城から直接先生の部屋へこっそり会いに行けばよかったかも……と、私はそんな不手際の後悔を胸に抱くのでした。


時計は近くにありませんでしたが、窓から差し込む太陽の位置から推測するに、だいたい朝の十時を少し過ぎた頃でしょうか。

改めて眼裏に先生の様子を映し出してみると、先生はまだ、薄暗い布団の中でずっと寝ていました。


「……よし。お昼ご飯の材料を買って、先生のお部屋にこっそり行きましょう!」


私はそう覚悟を決めて、その場を振り返りました。すると、誰もいない廊下の床には、私の足の裏から滲み出た赤黒い血の跡が、ぺたぺたと無残に残されてしまっていました。

お城からずっと、硬い石畳の上を走ってきたからでしょうか。私は途端に焦り出し、急いで自分の両足に治癒の神聖魔法をかけて、ひどく擦り剥けていた傷口を綺麗に癒やしました。


その後、一度だけ自分の寮のお部屋にこっそり戻って、色々と準備を整えようと思ったのですが、ここも鍵がかかっていて入ることができませんでした。

私の魔法であっても、鍵を無理やり開けるには少しだけ時間がかかりそうでしたので、結局、私は強化魔法でベランダに忍び込み、窓ガラスを魔法で叩き割ってから内側の鍵を開けて、自分の部屋へと侵入しました。

久しぶりに帰ってきた私のお部屋は、どこか少しだけ懐かしくて、学園で先生と過ごした楽しい日々を思い返すと、胸の奥がまたちょっとだけ嬉しくなるのでした。


とりあえず、まずはこの窮屈なドレスからの着替えです。

一年前、先生と初めて二人きりでお出かけをしたときに買ってもらった、大切なお気に入りのロングスカートと黒のブラウス。それに袖を通して、私は心にきゅっと気合を入れ直しました。

次に、先生に美味しいご飯を作ってあげようと思って冷蔵庫の扉を開けたのですが、中身はそれなりの時間が経っていたせいで、どれもぐちゃぐちゃに傷んでしまっていました。

いつもの机の引き出しを確認すると、そこにはまだいくらかのお金が残っていましたので、私は予備のお財布へと移し、小さな鞄の中へと詰め込んで、靴を履いて街の市場へと出かけました。


本当に、久しぶりのお買い物です。

先生に今日、一体何を作ってあげようかな、あれがいいかな、これがいいかなと思考を巡らせている時間は、私にとっては本当に、涙が出るほど楽しいものでした。

ひき肉に、パン粉に、牛乳、玉ねぎに卵。それから、サラダのためのトマトとレタス。ついでに、美味しそうな丸いパンも一緒に買っておきましょう。

どうしてこんなに簡単で楽しい当たり前のことが、最近の私はずっとできなかったのだろうと思うと、嬉しさと悲しさで、またちょっとだけ目尻から涙が零れてきてしまって……。


そんな買い物の帰り道、突然、精霊達(みんな)が、怯えるようにひどくざわつき始めました。

嫌な予感がして、私は急ぎ、眼裏に先生の姿を映し出しました。そこには――。


『エリアス・ヴァン・アリス。――貴殿を、大聖女フィリア・レオンハルト誘拐の容疑で拘束する』


先生が、憲兵たちに囲まれて、まさにその腕を拘束されようとしているところでした。

私は頭が真っ白になり、パニックを起こしながら、自らの魔力を遠隔で転送して、先生の身体を無理やり掴もうとしていた憲兵の手をぱちんと激しく弾き飛ばしました。大好きな先生を、私の力で守ろうとしたのです。

しかし――それは、あまりにも最悪な逆効果を生むこととなりました。


「……ッ、抵抗する気か!?」

「ま、待ってください! 私は何も、抵抗など――」


憲兵たちの間に鋭い緊張が走り、両手を上げて無抵抗を示す先生に対して、男たちは容赦なく腰の剣を抜刀したのです。

どうして。どうして先生が、こんな目に遭わなければいけないのですか。私は、私は一体どうすればいいの……。

パニックで狂いそうになる頭を抱えたまま、私はその場から、ただ乱暴に連行されていく先生の姿を、何もできずにただ見守ることしかできませんでした。

たった一人、買い出しの食材が入った紙袋を地面にぽろぽろと落としたまま、私は賑やかな街の片隅に立ち尽くし、憲兵の馬車に乗せられて連れて行かれる先生の後ろ姿を、ただひたすら、絶望の中で見つめ続けることしかできませんでした。


気がつくと、私はとぼとぼと力なく歩きながら、まるで引き寄せられるように、私にとってこの世界で一番安心できる場所――あの神聖学準備室へと再び足を向けていました。

だけど、そこに辿り着いた瞬間、私は本当に、今度こそ地獄の底へと突き落とされることになったのです。


高等部の校舎には、すでに大勢の国家憲兵たちが波のように押し寄せていて、私が先ほど廊下に残してしまった、あの足の裏の血痕を調べているところでした。

私は焦り、姿を隠したまま憲兵たちの横をすり抜けて、必死の思いで神聖学準備室の扉をくぐりました。

すると、そこでは何人もの憲兵たちが、先生の静かな執務机や本棚から、色々な書類を乱暴に持ち出している真っ最中だったのです。

先生の机の上の書類。私たちが一緒に解いた、たくさんの数学のノート。

私の大好きな、先生との大切な大切な思い出の空間が、今まさに、冷酷にもばらばらに解体されているところでした。


嫌だ。やめて。今すぐそれを元の場所に戻して。

私は今すぐここで魔法を解いて、大声でそう叫びそうになったのですが――もし、ここで私が姿を現してしまったら、私の足跡が残るこの部屋で発見されてしまったら、先生は本当に、私をここに誘拐して匿っていた大悪党になってしまうのではないか。

そう気づいた瞬間、私は自分の犯した過ちの大きさがただただ恐ろしくて、大好きな場所から、先生との大切な思い出が次々と運び出されていく絶望を尻目に、その場から泣きながら逃げ出すことしかできませんでした。


遠目から見ても、私の寮のお部屋の周りにも大勢の憲兵たちが配置されていて、もう二度と近づくことはできませんでした。


そうして私はたった一人、学園の門をくぐり抜け、誰にも気づかれないまま、独りとぼとぼと、灰色の街の中に静かに消えていくしかありませんでした。


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