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第73話:ただ時が過ぎてしまった

人間というのは、苦境のときにこそ、その本性が出るものらしい。


そういう意味で言えば、私は昔から、苦しくなるたびに現実から逃げてばかりいた。

前世の日本にいた頃も、研究がうまくいかなくなったとき、私はネットゲームの世界へと逃げ込んだ。


そして今も、同じだった。


好きになってしまった女の子が、国家という巨大な存在に奪われようとしている。

それなのに私は、ただ退屈な日常の繰り返しの中に逃げ込んでいた。


朝起きて、コーヒーを飲み、何食わぬ顔で学校へ行き、教師としての仕事をこなし、食事をして、ベッドの上で横になって眠る。

ただ、それだけの繰り返しだった。


けれど、フィリアのことを忘れようとしていたわけではない。

一人でいる時間は、文字通りずっと、四六時中フィリアのことばかりを考えていた。


王城に乗り込んで、婚約破棄を直談判したらどうなるだろうか。

教師としての仕事などすべて放り出して、フィリアに会いに行き、この胸の思いを伝えたらどうなるだろうか。

王家に奪われてしまう前に、彼女の心と身体に、自分の存在をもっと深く刻み込んでしまえばどうなるだろうか。


考えるだけなら、いくらでもできた。

けれど、私は何一つとして行動には移さなかった。


王城に乗り込むわけでもない。

フィリアに会いに行くわけでもない。

ただ、起こさなかった可能性の選択肢を脳内でこねくり回しては、一人で悶々と苦しむだけ。


そうしているうちに、自分という存在の輪郭がよく分からなくなっていった。


私はこれまで散々、フィリアからの真っ直ぐな好意を、教師の倫理という盾を使って受け取らないようにしてきた。

彼女の残していった「体操服」にすら、欲情してはならないと必死に自らを律していた。

自らの恋心を自覚した後ですら、その気持ちを伝えることを「まだ早い」と言い訳して引き延ばしていた。


だが今、ベッドの上でフィリアのことを想うと、そういった倫理の抑制は、私の中でほとんど働かなくなっていた。


では、あのとき、一緒にいられる時間に「私も君が好きだよ」と伝えればよかったのか。

彼女を押し倒したあの瞬間に、そのまま一線を越えてしまえばよかったのか。


そう問われると、それも違う、と理性が拒絶する。

あのときの自分は、一人の大人として正しい判断をした。

むしろ教師としては、フィリアとはもっと距離を取るべきでさえあったのだ。


ならば、今も同じようにすればよい。

教師として正しく振る舞い、彼女の好意など最初からなかったものとして、自らの欲を律し、適切な距離を取るだけ。


そのはずなのに、今の私には、それがまったくできなかった。

できないどころか、したくないとさえ思ってしまう。


かつての私が「そうあろう」「そうありたい」と願った理想の姿に、今の私の心は耐えられない。

正しさとは何か。

自分とは一体何者なのか。

人を好きになることとは、倫理よりも欲望を受け入れることなのか。


矛盾する理屈と感情に対して、何一つ整合性をつけられないまま、私はただひたすらベッドの上で逃げ続けていた。


そんな風にして過ぎ去った、空白の約一か月。


しかし、私が引きこもっている間にも、外の世界の事態は容赦なく進んでいった。


伯爵への叙爵の件は、フィリアの母親であるカナリアさんに言われた言葉への強い罪悪感もあり、一度は明確に断りを入れた。

だが、ジュリアン王子から直々に「ここで断れば、かえって貴方の立場を悪くしかねない。心苦しいのは分かるが、どうか受け取ってほしい」と説得され、結局は受け入れることとなってしまった。


一方のフィリアは、またしても魔獣の大規模な討伐戦に参加したらしい。

今や「聖女フィリアが圧倒的な神聖魔導によって壊滅的な功績を上げた」と、新聞で連日のように報道されていた。

大神殿も、王太子妃への正式な内定と共に、彼女へ『大聖女』の称号を公式に授与するのだとか。

この遠征の功績を大義名分にしたのだと、あからさますぎる内容であった。


そして、日曜日の今日この日。

フィリアは正式に王太子妃として婚約し、大聖女として国から認められ、王都の広場で国民全体へのお披露目式典が行われることになっていた。


多くの民衆が、新しい国の光である未来の王太子妃を、大聖女を一目見ようと王城の周囲へ駆けつける中、私にもその式典への出席要請が届いていた。


だが、私はそれを完全にすっぽかしていた。

薄暗い寮のベッドの上で、拗ねた子どものように身を丸くしていた。


ただただ、残酷に過ぎ去っていく時間を呪い、何もせず、自分自身の感情を殺し続けていた。


そして、お昼前頃のことだっただろうか。

私の部屋の木製のドアが、どんどんどん、と乱暴に叩かれた。


私が驚いてベッドから起き上がった刹那、がちゃ、とドアが開いた。


そして――。

開かれた扉から、大勢の憲兵たちが、私の部屋へと一斉に踏み込んできた。


「エリアス・ヴァン・アリス。――貴殿を、大聖女フィリア・レオンハルト誘拐の容疑で拘束する」


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