第72話:逃げながら逃げておいでと言ってしまった
社交界がすべての次第を終え、静まり返り始めた会場の片隅で、私はジュリアン王子に声をかけられた。
「エリアス先生、本日はお越しいただき、誠にありがとうございました」
「いえ、こちらこそお招きいただき恐縮です、殿下」
「伯爵への叙爵の件、いささか唐突すぎたでしょうか。事前にお伝えすべきだったのでしょうが、国政の側も色々と後手後手に回ってしまい、調整がつかないまま今日を迎えてしまいました」
「いえ……お気遣いありがとうございます」
「随分と浮かれない顔をされていますが、あまりお気に召さなかったでしょうか」
王子の静かな問いかけに、私は隠すことなく本音をこぼした。
「そうですね……。先ほど倒れてしまったフィリアのことが心配でして。それに、終わったら二人きりで話す時間を用意するという条件をフィリアとしたので、それもあり……」
「ああ、そうでしたね。分かりました、すぐに手配をいたしますので、しばしお待ちください」
そう言うと、ジュリアン王子は一度、奥の控室の方へと向かおうとした。
「あの……その、本当によかったのでしょうか。これから王太子妃になろうというフィリア嬢と二人きりになるというのは、本当は、あまりよくないのでは」
すると、王子は足を止め、振り返った。そして、私が思わず口にした疑問に、少しだけ何かを考えるような間を置いてから、静かに言った。
「そうですね。適切な距離を取っていただくというのが、本来あるべき正しさなのでしょう。ですが、あるべき正しさをあえて選んでこられなかったのが、他ならぬエリアス先生、貴方なのでは? そのけじめをつけていただきたい、というのもあるでしょうか」
王子はどこか為政者としての笑みをまとい、そのまま私の言葉を待たずに控室の方へと消えていった。
あまりにも痛烈な正論に、私は返す言葉を何一つとして持たなかった。
私が正しい教師としての距離を見誤り続けたことで、フィリアの私への依存を際限なく強めてしまった。その不手際が、結果として今日の晴れ舞台で彼女に恥をかかせ、極限まで苦しめる原因を作った。
そんなことは分かっている。嫌というほど分かっている。けれど、今さらもう戻れない。
不適切な距離だったとしても、二人で過ごした穏やかな日々は、私にとってはかけがえのない本物の幸せだったと今なら言えるから……。
いや、言えたとしても、言ってはいけない。この想いは社会に認められないことだとも理解しているから。
ホールの片付けが淡々と進む中、私は一人、壁際に並んだ椅子に腰掛けて時間を潰した。
フィリアの母親であるカナリアさんに激しく罵倒されたこと。そして、ジュリアン王子に突きつけられた冷徹な言葉。それらを何度も頭の中で反芻しながら、私はどうすればよかったのか、これからフィリアのために何をしてあげるのが最善なのかを、一人で静かに考えていた。
だけれども、どれほど思考を巡らせても、後悔の念と、どうしようもない行き止まりの未来しか、私の頭には浮かんではこなかった。
「お待たせしました、エリアス先生。どうぞ、こちらへ」
しばらくして戻ってきたジュリアン王子に促され、私は重い足取りで客室の奥へと連れられていった。
「私はこの回廊の一番奥の部屋にいますので、お話が終わったら声をかけてください。夜も更けてきましたから、長くても一時間以内でお願いしますね」
「分かりました……。ありがとうございます、殿下」
静かに部屋のドアを開けて中に入ると、入り口のすぐ目の前で、フィリアが私の入室をじっと待ってくれていた。
「先生……! 待っていましたよ」
少し青ざめてやつれた、それでいて、どこか困ったような笑顔で私を迎えてくれた。
彼女の小さな手に取られるまま、私は部屋のソファへと腰掛けさせられた。
「今日はたくさん吐いちゃって、とっても身体がしんどかったので……。先生、我慢したご褒美に、膝枕が欲しいです」
「……うん、わかったよ」
私は自らの膝の上に彼女の小さな頭を優しく乗せた。
膝の上から潤んだ瞳で私を見上げてくるフィリアの顔は、嬉しそうではあったけれど、どうしようもない寂しさを宿していた。
「ねえ、先生。覚えていますか? 初めて先生と二人でお出かけをした日のこと」
「うん。そういえばあのときも、吐いてしまったフィリアに、こうして膝枕をしてあげたっけね」
「はい。私の、人生の中で一番大事な思い出の一つです。それに……あのとき、先生が私に言ってくれた言葉、今でもずっと心の中で大事にしているのです」
「私が、なんて言ったっけ?」
「ええと……『苦手なことを苦手なままでいいのかは分からないけれど、それでも、苦手なことは少しずつ、自分のペースで気楽にやればいい』って」
「あー……。そういえば、そんなことも言ったね」
フィリアはぽつり、ぽつりと私の目を見て不器用な言葉を紡いでいった。
「私、今……正直に言うと、苦手なことや、自分には全然できないことばかりを無理やりさせられています。全然うまくできなくて、みっともなくて、みんなに怒られて……。それに、お母さんが、先生にひどいことをして……ごめんなさい」
「いや、いいんだ。フィリアのお母さんは間違っていない。正しいよ」
「ううん。先生は何も悪くないよ。だって、先生はいつだって私のことをいっぱい考えて、大事にしてくれていたのを、私はちゃんと知っているから」
「そっか……。でもね、フィリア。お母さんの言うこともまた正しいんだ。君のために怒ってくれる、とても素敵な人だと思うよ」
「はい……。お母さんのことは大好きだし、お母さんが私のことを愛してくれているのも分かっています。けれど……私はダメな子だから、お母さんのことをいつも悲しませてしまって……。今日だって、あんな風に……」
「ダメなところも確かにいっぱいあるけれど、でも私は、君のいいところを誰よりもたくさん知っているよ。だから、あまり気に病まないで。できる範囲でやればいいさ。失敗したって、少しずつ進んでいけばいい。必要以上に自分を責めることなんて、どこにもないんだよ」
「先生は……やっぱり優しいです。でも、できないことを無理やりやらされるのって、本当に、本当に辛いです」
そう吐き出した瞬間、彼女の目尻から、うっすらと溜まっていた涙が溢れ出た。
「どうして私は、王太子妃なんてものになってしまったんだろう……。そんな立派なもの、本当はなりたくなかった。私はただ、いつものように準備室で、先生の隣に静かにいたかっただけなのに……。嫌だよ、先生。こんな場所、今すぐどこかへ逃げ出したい……」
ぼろぼろと堰を切ったように涙が零れ落ち、彼女の頬を伝って、私のズボンの上にぽつり、ぽつりと小さな染みを作っていく。
その冷たい感覚が、私の心を締め付けた。
「――じゃあ、逃げておいで」
私はぽろりと、そう言ってしまった。
「まあ、もともと、あの神聖学準備室は、フィリアが辛いときにいつでも逃げ込んでくるための場所だったのだから」
「ふふ……。そういえば、そうでしたね」
私たちは互いの目を見合わせて、涙を流しながらも、くすくすと小さく笑い合った。
「初めて出会った頃の君から比べると、本当に変わったね。少なくとも、今の君は私とはこうして普通に、目を見て話ができているのだから」
「先生が相手だからですよ。他の人とは、やっぱり全然ダメです」
「そういえば、身長もあれからあまり伸びなかったね」
「失礼な。あれからちゃんと一センチは伸びました!」
「そっか。ちょっとは、成長したんだね」
「はい。ちゃんと、先生の横に並んで立っても恥ずかしくないような、立派なレディになってみせますから」
「一般的な女性の場合、十四歳くらいまでで骨格の成長は概ね止まってしまうらしいよ?」
「そういう夢のない現実的な話を、今しないでください……もう……」
そうして、私たちはまた顔を見合わせて、子どものようにくすくすと笑い合った。
ジュリアン王子からは「けじめをつけろ」と促された。
けれど私は、一時間弱という限られた猶予を、ただフィリアを膝の上で甘えさせ、かつての穏やかな日々に縋るためだけに使ってしまった。
それが『逃げ』だと、分かっていながら。




