第71話:人を呪った穴に自分も入ってしまった
改めて、この華やかな社交界という空間は、私にとって耐え難い苦痛でしかなかった。
高貴な貴族たちと繋がりを持つ価値も、それを活用できる自分の姿も、何一つ思い描けない。
ただその場を波風立てずにやり過ごしたり、退屈な時間の中でささやかな人間観察の楽しみを見つけたりすることくらいはできるので、その点だけは、まだマシだと言える。
しかし、私が好きになってしまった女の子――今日の主役であるフィリアにとっては、私などとは比較にならないほどの耐え難い地獄であったことは、傍から見ていても明白だった。
他の貴族たちとの会話を適当にあしらいながら、私はずっと遠くにいる彼女の様子を盗み見ていたが、フィリアは母親の背中に隠れるようにしてがたがたと小刻みに震え、時間が経つにつれてどんどん顔色が悪くなっていった。
そして、入場から一時間ほどが経過した頃、ついに彼女の心身は限界を迎えた。
談笑を続けていた周囲の貴族たちの間で、何やら怪訝にざわめく声が波紋のように広がっていく。
嫌な予感がして私が歓談の輪を抜け、その不穏な中心へと近づいたとき、目に飛び込んできたのは――床に四つん這いになり、激しい嘔吐を繰り返しているフィリアの痛々しい姿だった。
パニックを起こしてただ取り乱すだけの母親と、周囲に何度も深く頭を下げ続ける父親。そして、嫌な顔一つせずに彼女の華奢な背中を優しく撫で、介抱しているジュリアン王子。
きらびやかな宮廷夜会において、それはあまりにも異様で、あまりにも残酷な光景だった。
私がたまらずに駆け寄ると、涙目で顔を上げたフィリアは、私の姿を認めた瞬間にぼろぼろと大粒の涙を流して泣き出した。
「……すみません、お父上。フィリアさんを一度抱きかかえて、急ぎ別室へと運んでいただけないでしょうか」
王子のその冷静な進言に、父親ははっとしたように顔を上げた。
「ああ……すまない。殿下の仰る通りだ。カナリア、あの子を支えなさい」
そうして、顔を青くした家族三人と、平静のまま顔色を変えないジュリアン王子は、会場の奥にある別室へと下がっていってしまった。開いた扉が閉まると同時に、待機していた給仕たちが急いで大理石の床の掃除に取り掛かる。
「いくら聖女だからといって、あれはちょっとね……」
「ジュリアン様も、あのような方を正妃に迎えるなんて、本当にお可哀想に……」
壁際からは、事情を知らない貴族たちの容赦のない冷淡な陰口があちこちから聞こえてきて、私は胸の奥底から静かな、けれど猛烈な怒りが湧き上がるのを覚えた。
凄まじい才能の持ち主だからと勝手に祭り上げ、本人が望みもしない、できもしない社交を無理やり強いておきながら、いざ限界を迎えて倒れれば、今度は手のひらを返して出来損ないのように嘲笑する。そんな理不尽が、この世界の正論であってよいはずがない。
だが、だからといって、一介の教師である私がそれを声高に叫んだところで、何がどう変わるわけでもないのだ。私はそのやり場のない激しい怒りを、手元に配られていたオレンジジュースと共に一気に胃の中へと飲み干した。
その冷たい酸味が、予想以上に私の疲れた胃袋へと重く堪えた。
しばらくしてジュリアン王子と父親のジョセフ伯が会場へ戻ってきたのを確認すると、私もまた、頃合いを見計らって社交界を中座した。
フィリアが休んでいるであろう別室へと向かい、重々しい木製のドアをそっとノックする。中から鍵が開けられ、応対に出た母親のカナリア夫人が顔を覗かせた。
「あの……エリアスです。フィリアさんの具合は、その後いかがでしょうか」
「先生……っ!」
室内のソファに横たわっていたフィリアが、私の声を聞いて少しだけ嬉しそうな顔をして身を起こした。
――私がその姿に安堵した、まさにその瞬間だった。
乾いた破裂音とともに、私の左頬に張り裂けるような激しい痛みが走った。
視界が火花を散らす。カナリア夫人が、鬼のような形相で私を真っ直ぐに睨みつけていた。
「あなたが……あなたがフィリアを、こんな風に狂わせたのね……ッ!」
フィリアとまったく同じ、美しいはずの金色の瞳が、今は激しい怒りと憎悪に血走って震え、目尻に涙を溜めている。
「お母さん! やめて……ッ!」
ソファからフィリアが悲鳴のような声を上げて立ち上がり、こちらへ駆け寄ってくる。
「何が侯爵よ、何が伯爵よ……ッ! その見栄えのよい名誉のせいで、この子ばかりがずっと苦しい思いをして……! 夫も、王子も、そしてあなたも、一体フィリアを何だと思っているの!? できもしない社交を無理やりさせて、この子を極限まで追い詰めて……! 自分たちだけいい思いをして……誰も、誰一人として、この子の本当を見てくれていないじゃないの!」
「お母さん! お願いだから、もうやめて……!」
私の胸ぐらを涙ながらに掴み、激しく揺さぶる母親の手を、フィリアが必死になって引き剥がそうと、その小さな身体で割り込んできた。
私は――その母親の剥き出しの正論に対して、何一つとして言い返す言葉を持ち合わせていなかった。
その通りだ。フィリアをこのような政治の渦中へと引きずり込み、聖女に仕立て上げてしまった一番の責任は、他でもない、彼女に数学を授けたこの私にある。もっとフィリアを理解して、ちゃんと彼女の不器用さを見て、一人の人間として真っ向から向き合ってあげなければいけなかったのだ。
私はそれを教師という正論と建前で逃げ続けていたのだ。
母親は娘の涙ながらの訴えにようやく力を抜き、掴んでいた私の襟元から手を離した。そして、そのまま縋り付いてくる娘の身体を、壊れそうなほど強く抱きしめた。
「……おっしゃる通りです。夫人の仰る通り、本当に……本当に、申し訳ありませんでした」
私はただ自らの不徳の致すところに深く絶望し、大理石の床を見つめたまま、深々と頭を下げた。二度と、その頭を上げることすら許されないような罪悪感が、首筋を重く支配する。
「……先生は、何も悪くない……っ。お母さんも、先生に謝って……!」
視界に映る大理石の床の模様が、私の激しい目眩とともにぐにゃぐにゃと黒く歪んでいくような、そんな錯覚に囚われながら、私はただフィリアの悲痛な叫びだけを耳の奥で聞いていた。
しばらくの沈黙の後、衣服の擦れる音がして、カナリア夫人が私に対して、今度は小さく頭を下げたのが分かった。
「……感情を爆発させ、先生に対して大変な無礼をいたしました。本当に、申し訳ございませんでした」
その静かな謝罪の言葉を聞いて、私はようやく、鉛のように重い頭を上げることができた。
張り詰めた部屋の居心地はこれ以上ないほどに悪く、私が一度ここを退出しようと足を引くと、フィリアはソファの陰から私を縋るような、必死の瞳で見つめながら訴えかけてきた。
「先生! 約束……! 後で二人きりで会えるって」
「うん、分かっているよ。後でジュリアン王子に直接、時間を貰えるように私から相談してみるからね。……それでは、大変失礼いたしました」
「約束、だからね……」
後ろ髪を引かれる思いのまま、私は静かに部屋のドアを閉め、再びあの喧騒が渦巻くホールへと戻っていった。
そこから社交界が終了するまでの時間、私の意識は完全に上の空だった。自分が誰と何を喋っていたのか、相手がどんな話をしていたのか、何一つとして記憶に残っていない。
左頬に残るずきずきとした鈍い痛み以上に、心に鋭く突き刺さってしまったフィリアの母親の言葉がとにかく痛くて、苦しくて、私は今すぐにでも、このきらびやかな場所から自室のベッドへ逃げ出したかった。
私が貴族たちに怒ったその感情が、そのまま自分にも返ってきたのだと。
自分はフィリアを救う側ではなく、加害者だったのだと、改めて突きつけられた真実から逃げ出したかった。




